断罪!!断罪!!また断罪!!

妄想・独り言・断罪・犯罪。

世間様よ、くたばれ!!

2007-08-16 16:12:21 | Weblog
僕も崇拝している漫画家の楳図かずお先生が建築中の楳図かずお邸が
周りの外観に相応しくないとして、近隣住民と揉めているみたいだ。
そのニュースを「YouTube」で見たところ、住民にインタビューをしていた。
いかにも常識的な、自分の道徳観を押し付ける様な、
典型的A型タイプの主婦らしき二人組が画面に写っていた。
「周りの景色にそぐわない奇妙な建物」だのなんだのと
のたうち回っている。
ココはお前の街か?どんな建物にしようと人の勝手だろう。
と、個人的に思うのだが、如何せん相手は、型にはまった
PTA風の世間様だ。引き下がる事なく、裁判沙汰にまでなっているらしい。
よく、こういう近隣住民がいるものだが、
ほんとに下らない。馬鹿としか言い様がない。
そういう事を世間では、当たり前、常識というらしいが、
常識がいつの場合でも正しいとは限らんだろう。
てめぇの中の道徳観を振りかざし、それがさも全て正しいと
主張するのは、どうかと思うが。
一般的なモラルなどは、誰でも容易に想像つく事だ。
その昔から決められたルールから、どれだけ逸脱し
自分の個性を発揮出来るかの方が、よほど難しいだろう。

最後に。
楳図かずお先生、負けずに頑張ってください。

近隣住民のクソボケども!!
いい加減引き下がれよ!!
そんな事で、いちいち目くじら立てるんじゃねぇ!!
死ね!!!!

にゃはっ!!

2007-08-13 17:38:32 | Weblog
苔の生すまでに 愛し合った二人が
予定調和の中で 離れ離れになる。

何も出来ないで 別れを見ていた俺は
まるで無力な俺は

まるで まるで 高木ブーの様じゃないかっ!!!

自問自答。

2007-08-08 23:44:01 | Weblog
ここ数年間、何か得も知れぬ閉塞感に苛まれている。
得も知れぬ不安感・恐怖感に駆り立てられる。
何故、自分が、現在住んでいる所に住み、現在の仕事に就いているか。
その真意すら自分で分らない。
何故、この様な人生になったかも分らない。
自ら望んでこうなった訳ではない。
自ら望んで実現出来た事等、ひとつも無い。
俺は無力だ。
兎に角、無力だ。
自分の人生も自分で変えられぬ程の己の無力さに悲観する。
正直、死にたいと思う日もある。
だが死なないでいれるのは、唯一己を理解してくれる存在がいるからか。

変えたいと思う。
何か一つでもいい。
何か一つずつ。

そしてもう一度、生きてみようと、思う。
その、自問自答の繰り返しなのだ、人の人生など。

「住めば都」、されど道狭し。

2007-08-05 21:02:34 | Weblog
寝屋川市。
「住めば都」という言葉があるが、なんせ道の狭さは尋常ではない。
人口多いし。

早くこの街抜け出してぇよぉ~
元々、大阪市内に住んでたんだけどね。
あと、ブサイク多い(笑)

断罪!!断罪!!また断罪!!

2007-08-05 12:31:01 | Weblog
最近、というかだいぶ前からだが、聴く音楽にしろ読む本や漫画に至るまで
「普通」で「ハッピー」なモノよりも、「異端」「狂気」「バイオレンス」な
モノに魅かれる傾向にある。

最近になって、筋肉少女帯を聴き始めた。
大槻ケンヂという人は、昔から知っていたが
10代の頃は聴く気になんてなれなかった。

それが聴いてみると、やばい。
歌詞とかホントやばい。
僕の好きな「異端」や「狂気」を感じる。

昔なら敬遠していたが、ついに
通るべくして、通る時が来ました。
「筋肉少女帯」最高です。

ヤバい漫画家・その1「徳南晴一郎」

2007-08-05 02:15:18 | Weblog
徳南 晴一郎(とくなん せいいちろう、男性、1934年6月1日 - )は、日本の漫画家。大阪市北区南森町に生まれる。現在は大阪在住。本来の読み方は「とくなん」だが、戦時中「国難」と掛けて学校でさんざん虐められた悲惨な思い出もあり、また「十苦難」と意味が重なるのを避けるため、30歳のとき「とくなみ」と改めた。

8人兄弟姉妹の長男。幼稚園にあがる数年前にジフテリアを患い、下垂体性機能不全小人症を発病。このため身長140cmで発育が停止。戦時中は大分と福井の親戚の家に縁故疎開した。1953年、石森章太郎主宰の同人誌『墨汁一滴』に参加。大阪の高校を卒業後、知人の紹介で漫画家藤原成憲と知り合い、専売公社の宣伝活動に参加して街頭で漫画を描いた。同じころ、大阪市立天王寺美術研究所に研究生として在籍。しかし1955年に行き詰まりを感じて同研究所を退いた後、大阪の丸山東光堂から『影を斬る侍』『あらしの剣豪』を上梓し、貸本漫画の世界に入る。丸山東光堂の社主の没後、わかば書房から『笑狂四郎捕物控』シリーズを5~6点刊行したが、わかば書房でお家騒動が起きたのを機に上京を決意。このとき、上京の目的のひとつは、東京在住の医学者緒方知三郎東大名誉教授を訪れてホルモンの投与を受け、人並みに背を伸ばすことにあった。

1957年10月に上京。雑司が谷にあった手塚治虫の住居"並木ハウス"に居候していたこともある。緒方知三郎を訪ねたものの年齢を理由に治療不可能なることを告げられ、落胆する。原稿の売込にも失敗したため前途に絶望。手塚家を出て雑司が谷の別の下宿に移ってからガス自殺を図ったが、大家が元栓を締めていたため未遂に終わる。

その後、曙出版で原稿の売込に成功し、同社から『怪猫雪姫』『怪猫紅行燈』『忍法無惨帖』などを上梓。同じ時期に早稲田へ転居。このころ、曙出版専属漫画家の親睦会「+画人会」(ぷらすがじんかい)のメンバーに長谷邦夫、川田漫一、ヒモトタロウ、江戸川清、鈴原研一郎らがいた。

貸本屋からの返本が続いたため、市川誠一の筆名で『ひるぜんの曲』など青春現代物を執筆。やはり人気は思わしくなく、1962年夏から本名に戻って『怪談 人間時計』『怪談 猫の喪服』などの怪奇漫画を発表。このころ豊島区高田本町に転居。1962年12月に山原比奈子と結婚。しかし、神経質な徳南による執拗な叱責に耐えかねて妻が実家に帰ってしまい、まもなく破婚。

曙出版から『徳川家康』『豊臣秀吉』『伊達正宗』など戦国武将ものを上梓。しかしこれまた人気が出ず、生活に窮してエロ漫画を描き、成人向けの週刊誌に持ち込んだが不採用となった。とうとう仕事がなくなったため1963年6月に漫画家を廃業し、光映画現像株式会社に就職。このころ武蔵野市境に転居。

フィルム現像の手伝いをしていたが、全自動現像焼付機の導入に伴ってやりがいを失い自主退職。折あたかも母が病気で入院したため大阪に帰郷。しばらく生家のパン屋を手伝っていたが、大手製パン会社の進出で店が潰れたため、電気商工新聞社に就職。以後、印鑑のセールスや無線配車タクシーの手配の仕事など職を転々としつつも一介のサラリーマンとして過ごし、二度と漫画を発表することはなかった。ただし日曜画家として油絵を描き続け、1979年には創元会第38回展覧会に入選したこともある。油絵画家としての名前は徳南誠吾。

永らく忘れられた漫画家だったが、『怪談 人間時計』には10万円以上のプレミアがつくほどのカルト的人気を持ち、1990年代以降、若い世代を中心に再評価の機運が高まり、太田出版から続々と旧作が復刊された。

趣味は読書と漢詩とクラシック音楽鑑賞。夏目漱石や永井荷風を愛読し、ベートーヴェンを崇拝している。

著書に、特異な自伝『孤客』(太田出版、1998年)がある。


代表的な作品
『怪談 人間時計』
『怪談 猫の喪服』
『ひるぜんの曲』