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言葉遊び

2018-10-12 08:47:02 | エッセー


言葉遊び


  遊びをせんとや生まれけむ、戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ、
        遊ぶ子供の聲聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ    【梁塵秘抄】

 仕事から解放された遊び、或いは仕事の合間の息抜きの遊びは、大人になっても楽しい。年寄ると肉体的な遊びは少なくなるが、頭脳を使う言葉遊びや読書といった遊びは比較的永続きする。謎々、尻取り、早口言葉、語呂合わせ、一休さんの頓智噺、
パズル等々の言葉遊びは子供の頃から遊びを通していつしか自然に覚える。大人になっても地口、しゃれ、回文、ものはづけ、その他いろいろな言葉使いの表現を楽しむようになる。漫才、落語、講談といったものも、すべて形式を定めた言葉遊びと云える。古来の和歌や俳句の中にも言葉使いの技巧を楽しむだけのものは多い。現代の俳句や高踏詩なるものにも言葉遊びとしか思えないものも少なくない。言葉遊びとはいえ、私などは知識をひけらかす修辞とか、人工的で空疎な駄洒落、といったたぐいのものは面白くはない。人生の真実をうがち、生活の実感軽妙な言い回しで味わえるものが愉快である。要するに、腹の底から笑えて、人生の味わいが琴線に触れるものが楽しい。

「色は匂えど散りぬるを---」のいろは歌は、本来は言葉遊びの歌ではなかったにしても、言葉遊びの歌として捉えても人生の味わいがあり、技巧的にも秀逸である。どの国の言語にも多かれ少なかれ言語に特有の言葉遊びはあるようだが、日本語に言葉遊びが豊富なことは明らかで、これは日本語文化の豊かさの一指標とみてよいだろう。ただ私の印象では、欧米でよく見聞きする機知に富むユーモアは日本の言葉遊びではあまり目にせず、聞かれない。日本人から駄洒落はよく聞くが、軽妙なユーモア言葉はあまり聞かれない。これは何によるのだろう。日本語の特徴というよりは、日本人の性格の特徴を反映するものと思えるが、何にせよユーモアが自然に口から出るようにするには、日頃意識的に努力することも必要らしい。
 一国の言語の言葉遊びはその言語特有の性質に根ざしているため他国語に翻訳できないものが多い。発音や綴りに関するものはまず翻訳不可能である。早口言葉、語呂合わせ、回文などはその不可能な典型のようなものである。したがって、それらはその国の言語を理解できない限り理解できないし、楽しめない。外国の単純な詩歌の中には翻訳者の技量如何で原文の味わいをかなり味わえるものはあるが、原文の韻律の美しさは伝わらない。しかし、パラドックスを含めて論理的なものやユーモアのたぐいは翻訳してもその面白味を伝えることは原則的には可能である。例えば、アメリカの作家マーク・トウェインが云ったといわれる「禁煙なんて簡単なことさ、私なんか何回も禁煙したよ」というユーモアの面白さはどの外国語に翻訳しても通用する。内田百閒の『阿房列車』に、「客三人が旅館に泊まり、三人分三十円を払う。宿側はサービスで五円まけることにし、その五円を女中に持たせて返しに行かせる。女中がそのうちの二円をネコババして残り三円を客に返し、客は一円ずつ受取る。客一人頭九円ずつ払ったことになる。すると、三人が払った合計は二十七円。女中がごまかした二円を加えると二十九円。では最初に払った三十円のうちの一円はどうなった?」という謎話がある。謎話としてこれには謎を解く面白さもあるが、私が感心するのは、謎を解く面白さよりも、こういった謎を設定する発想の奇抜さである。この種の謎設定の着眼点は、通常、なかなか思いつくものではなく、異色である。謎話の筋に一応理屈は通っており、この面白さも外国語に翻訳すれば普通に理解できるはずである。
   蚊の流す涙の海の浮島で真砂( まさご)拾いて千々( ち ぢ)砕くなり
という有名な歌がある。この歌の作者は曽呂利新左衛門だとか細川幽斉だとか、「蚊の流す」は「蚊のこぼす」であり「千々砕くなり」は「千々に砕かん」であるとか諸説があるようでどれが正しいのか私にはどちらでもよいことだが、この歌の内容は極めて論理的である。蚊が涙を流すかどうかはともかく、肉眼で見えないほど僅かな蚊の涙を地球上の海水の量にまで拡大する。その海のどこかの浜辺の砂の一粒を千々に砕く。この描写において、千々に砕かれた砂粒の大きさを蚊の涙から計算すれば、それは素粒子の世界を超えるほどの超微小のものになるだろうし、千々に砕かれた砂粒の立場から、或いはその砂粒を砕く人間の立場から蚊の大きさを想像すれば、蚊の姿は宇宙と同様果てが分らぬほどの超極大物になろう。この歌の「…海の浮島で…」は「…海辺の砂浜で…」と代えても砂粒の大きさに変わりはないが、浮島という方がなんとなく小ささを視覚的にイメージさせるようで巧みである。この壮大な空想の理屈は理路整然としていて、外国語に翻訳しても外国人にすんなりと理解可能であり、その着想の面白さも共感はできるだろう。だがこの種のことを物理的、数学的な論理でいうなら現実にさまざまな喩えの表現は可能であり、そういったものはただの叙述に過ぎず、面白くも何ともない。それを五七五七七のリズムに乗せ、和歌特有の格調美を踏まえた言葉と頓智の面白さで見事に歌い上げている。この歌を外国語の短詩に翻訳してそのその面白さまで表現することは容易ではなかろう。
     * * *
 私が三十才くらいの頃に勤めていた会社の取引先であるアメリカの会社から社員が商用で訪ねてきて、その客人を夕食にフグ料理屋へ招待したことがあった。客人は中年のアメリカ人一人、こちらは私の上司と私の二人。当時はまだ海外出張も旅行も今のようにありふれてはおらず、欧米人という存在には日本人は一般的に一目も二目も置いていた。客人はまったく日本語を解さなかったが、日本人の方が相手に合わせて英語を使うのが当然の習わしであった。この事情は今では少しは変わってはきているが、英語の圧倒的な国際性は今も揺がない。席について、上司と私はたどたどしい英語を使いながら客人と少々雑談を交わしていたが、料理が出揃うまでの場繋ぎに上司がフグ料理について客人に説明し始めた。日本ではフグ料理は高級料理とされていることやその食べ方などを簡単に説明した。そして、フグには猛毒を含んでいる臓器があるが、それはライセンスを持つ料理人が取り除いているので心配はないとライセンスについても触れ、その説明を客人はだいたいは理解したようであった。説明の流れが或る程度順調に進んでから、上司は突然笑いながら、つまり、これから話すことはまじめな話ではなくジョークであることを暗に示しながら、しかしそれでも毒が心配なときは「気象庁、気象庁、気象庁」と三度呪文を唱えれば大丈夫、毒にあたることはない、と付け加えた。まじめな説明から一転、座興の言葉遊びへ転調したのであったが、これが客人には当然ながらさっぱり通じない。きょとんとしている。そこで上司は真顔であれこれ説明を加える。何を云わんとしているか、どうやら客人は推測はつき始めたらしい。客人の顔は戸惑いから外交の笑顔に変わり始めて、ちょっとした理解と質問の言葉をはさむ。上司は救われたように笑顔を取り戻してオチへもっていこうとする。
 現今では気象庁予報の精度はかなっり高まってきているが、当時は気象庁の天気予報は当たらないことをちゃかす代名詞として遊び半分で使われることがよくあった。上司のこの話は天気予報の「あたらない」ことをフグの毒に「あたらない」に掛けたジョークであり、これは日本人には容易に理解できた。当時はアメリカの気象庁にしても予報精度は高くはなく、あまりあてにはならないという点ではそのこと自体に問題はなかったはずであるが、問題は呪文を三度唱えるといった日本人に馴染みのおかし味の表現はアメリカ人には通じないし、何よりも、予報と毒とに共通する「あたらない」という言葉が英語にあるかどうか、仮にあるとしてもそれが言葉遊びとしての面白味を持つように表現できるかどうかであった。くだくだしい説明をしたのでは座興にはならない。私も上司に説明の応援を求められたが、ビジネス英語や技術英語はともかく、日常会話や子供の遊び言葉的な英語は私にも能力の埒外で、そのときのこのジョークは座興にも言葉遊びにもならずにうやむやに終わってしまった。
     ***
 英語にもさまざまな言葉遊びがある。その一つである回文(パリンドローム)の中で次に示すのは英語圏ではよく知られているもののようである。  
A man asked Napoleon,   或る男がナポレオンに訊ねた、
'What was was before was was was?' Wasがwasであった前のwasは何であったか?
Napoleon replied,   ナポレオンは答えた、
'Able was I ere I saw Elba.' 「エルバ島を見る前なら答えられたのだが」
 Wasはisの過去形。しかし「Wasがwasである前」ではなく「であった前」と過去形になっていて、時制が幾重にも重なり七面倒そうで、他にも何やら厄介な理屈がありそうな、結局はちんぷんかんぷん。わが辞書に不可能という言葉はないと豪語したといわれるナポレオンに答えられないはずはないという意地悪な質問である。それに対してナポレオンが答えた“Able was I ere I saw Elba.” が回文(左から読んでも右から読んでも同じ文字が同じ順序で並ぶ文句)であり、回文そのものはこの七語の文だけである。この回文だけを切り離して取り上げたのでは、エルバ島に流される前であれば不可能はなかったというナポレオン伝説を踏まえた回文の謎解きがあるだけであり、それはそれなりの面白味はあるが、趣向を凝らした前段の口調の良い問いかけが見事であり、この前段とこの回文があってこそ謎々全文の面白味はいっそう深いものとなる。
 私がこの回文を知ったのは若い頃で、いつ頃だったか正確には憶えていないが、これを私は気に入ったとみえて、それは私の記憶の片隅に長く残っていた。それから十年以上も後の或る日、私は商用でアメリカのテキサス州の平原を北上する車中にあった。アメリカ映画でよくみるシーンそっくりで、平原の中を一本の幅広い自動車道が南北に行けども行けども遙か彼方まで続いている。後部座席にいるのは、アメリカの会社のアメリカ人社員P氏と私の二人。運転しているのは、我々二人が今向かっているPの会社の工場から迎えに来てくれたブルーカラー氏だった。雄大な景色は初めはもの珍しかったがやがては単調に変わり、運転者を交えた車中での仕事の話や雑談が続いたり途切れたりしているうちに、少し長い沈黙があった。そのとき不意に私の記憶の片隅から上記の回文が顔を出した。その場の話の接ぎ穂のつもりもあったが、それ以上に、平均的な中流アメリカ人がこの種のパリンドロームをどの程度知っているのだろうかという強い興味が私を捉えたらしい。事実、Pは日本で云えば課長級の平均的な中堅社員であった。
 そこで私は万年筆と紙を取出し、たっぷりある時間を意識しながら、上記の回文だけでなく、その先の行も含めて四行全体を初めから車中で書き始めた。傍らからPは私の書くのを黙ってじっと見ている。私が書き上げて、さてこれからこの謎について私が何かを云おうとする気勢を制して、Pは澄ました顔で最後の回文の七語の末尾に黙って指先を当てるとその指先を回文の頭までスーッと逆方向に横へ滑らせ、私を見返ってニッと笑った。こんなのは先刻承知とばかり、いとも簡単にケリをつけられてしまった。その顔の憎たらしいこと。せっせと書いた揚句がこの始末では恰好がつかない。「無駄折り損の何とやら」と云うつもりで近似表現の英語をどちらへともなく云いながら、私は憮然たる思いで万年筆と紙をかたづけたのだった。彼はさすがに気の毒だと思ったのか、「それ、テッドにやってみたら?」と助け船を出した。テッドは彼の部下で、私は二日前に東部にある彼の本社でテッドとも会っている。そして又Pは「テッドなら面白いと思うよ」と重ねて云った。その口調はあながち慰めではなく実感がこもっていそうであったので、私は少しは溜飲を下げる気になった。
 後になって考えてみると、英語を自国語とするアメリカ人の彼が英語を少しばかりできる程度の外国人である私に英語の謎かけをするのなら分かるが、いわばシロウトの私がクロウトの彼に逆のことをするとは身の程知らずで、生意気と思われても仕方がない行為ではあった。しかし、そのときの私は、そういう考えをほとんどまったく持たなかったらしい。むしろ、彼とは仕事の上で何年も交信してきた間柄であり、しかもこの数日間はたっぷり行動を共にしてきて気心もかなり知り合っていて、今はこの謎話に対する彼の反応をみてみたい好奇心の方が強く、深い考えもなくその場の思いつきでやってしまったようである。幸い彼は気を悪くした様子はなく、むしろ私をグウの音も出ずにやり込めて内心気を良くしていたようで、今度は彼の方からも私に別の謎を仕掛けてきたのだった。
 自分の謎かけがたあいなく失敗に終わった無念さを私が真に後悔したのは、何日か経ってふとこのことを思い返したときのことだった。男の質問からナポレオンの解答まで四行全部を最初からPに書いて見せたのはいかにもまずかった。最後の回文は書かず、最初の二行までだけを書き、男のWhat was was・・・・・?の意味は、この質問に対してナポレオンが何と答えたか、といったことをPに訊き、その後で回文の方に謎かけを移していたら、Pの興味深い表現をいろいろと聞くことができて話が発展したかも知れなかった、と今更ながら悔まれたのだった。
     ***
  最近、島村英紀著『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか』という本を読んでいて予期せぬユーモアに行き当たった。著者は日本の著名な地球物理学者で、身に覚えのない嫌疑で拘置所に連行され、半年近く留置され、留置期間中に著者が体験したことが、この書に極力客観的に詳細に記されている。取調べのあるときは連日のように一日何時間も検事から尋問される。検事はなだめたり、すかしたり、暴言を吐いたり、あの手この手で嫌疑を認めさせようとする。つまり、執拗に自白させようとする。おそらく人格を破壊させ、気の弱い被疑者は勾留や取調べの責苦から早く逃れたくて不本意の容認をしたりすることもあるのだろう。が、著者は分別と信念と強い意思によってであろう、嫌疑を頑として認めない。そういう或る日の取調べの次のような著者の一こまの記述がある:
  “ この日の取り調べは穏やかに始まった。
    海底地震計の開発の歴史、…(中略)…、プレートテクトニクスなど、私 
   が研究で取り組んでいる最新の学説を話す。
   「地球は自白してくれず、状況証拠から推測するしかない」との私の説明に、△△検事、大笑い。“
 たまたまその日は表面的には穏やかな雰囲気で始まったとはいえ、一皮むけば白刃の攻防であることに変わりはない。しかも、「自白」という言葉は検事が喉から手が出るほど欲しがっている核心の言葉である。「状況証拠」という言葉も検事には皮肉な言葉のはずである。真剣な言葉の攻防の最中に、それらの言葉を著者専門の地球の地殻変動、地震等の事象原因とからめてさらりと言ってのける。心にゆとりがあってこそであろう、当意即妙の見事なユーモアである。状況を想像し噛みしめるほどに、著者には申し訳ないが、このくだりを読んで私は腹の底からから笑ってしまった。
     ***
 締めくくりの息抜きに、常に相反する二つの意味を持つ、軽い遊びの言葉を一つ。「結構(です)」、「いい(です)」、「(大きな)お世話」、などのように一語か二語で相反する両方の意味を持つ単語はいくつかあるが、これは短い文章で相反する二つの意味を持つ表現である。
 その表現とは、「ないことがどうしてあるのか」という反語である。これは私が中学生のときの実体験で、算数だったか理科だったかの授業の終わりに、二十代半ばの温厚で生徒に人気のあった京大出の男の先生が、ふだんは試験などとはめったに口にしないのに「今日この授業で学んだことは大切なことやから、今度いつ試験があっても答えられるよう、家へ帰ったら自分でもよく復習しておくように」というようなことをさらりと云って、教材を片付け始めた。それを聞いて生徒のあいだで小さなざわめきが起きた。元気のいい生徒の一人が、
「先生、来週、これの試験があるということですか」と座ったまま訊ねた。
すると先生はいたずらっぽく笑いながら
「ないことがどうしてあるんや」
と関西弁で答えると、笑いを浮かべたまゝさっさと教室を出て行った。たちまち生徒の間で「試験はあるんや」「いや、試験はないということや」と、しばらくガヤガヤしたが、誰も正確に意味を理解できなかった。これは、この表現の最初をそのまま「ないこと」と解釈するか、「ないということ」と解釈するかによって、意味は逆転する。「無いものは無い」というのもこれと極めて類似した趣旨の用法である。