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コロナと熱中症の特別な夏「2020東京」

2020-08-16 13:52:19 | 歴史散策

毎日35度を超える暑さの中
8月15日の東京を歩きました。
コロナウイルスと熱中症の危険信号の出ている
東京虎の門から歩き出しました。





夏休みの官庁街です、車も少ないです。


皇居前から日比谷公園に来ると、ランナーや散歩の人がいました。
東京に旅行禁止の中で,しかもこの暑さ、本当に少ない人達でした。
祝田橋を通り内堀通りに入ると、松原が広がっている、皇居外苑です。
外苑の一角にある「楠木正成像」です高村光雲らによって、10年の
歳月をかけ明治33年に完成した像です。



東京駅が遠くに見えます。
暑さの中うだりながら読売新聞社前まで、来ました。

箱根駅伝の「絆」の像です。2021年の箱根駅伝は開かれるのでしょうか?
ここに学生が溢れて、喜びあう毎年の過去が懐かしいです。

東京駅の脇を抜けて常盤橋まできました。

常盤橋公園に渋沢栄一の像が立っています。日本実業界の父と言われています、一万円の肖像に
なる事が決まっていて、来年のNHK大河ドラマの主人公になります。

いつもと違うお盆休みの東京を浅草に向かって歩きます。
浅草橋の問屋街を過ぎ、駐在所のお巡りさんに、熱中症に注意してください。
と声を掛けられ、やっと浅草に付きました。






今日一番の人出です。
でも浅草、浴衣姿の若い女性たちが多かったです。
今年はお祭りも、花火大会も中止なので、みんなで浅草で
着たそうです。
今日は、ここでお終いです、暑いので「梅園」の
かき氷で一休みして、帰りました。






開国の町、浦賀を歩きました。

2020-08-02 11:30:20 | 歴史散策
浦賀は、歴史の勉強をしていると、一度は訪れたい憧れの地でした。
江戸時代末期の嘉永6年(1853)に4隻の黒船が、来航し日本が鎖国から
目覚めさせられた、有名な場所です。
その名残を求めて、歩き出しました。


 
駅を出ると早速く開国、近代化の風景がありました。
造船所です、住友重機工業の造船所ですが、明治時代に渋沢栄一の提案により
東京湾の入り口である西浦賀(川間館浦)に、東京の石川島造船所の分工場として
建設されました。しかし先に浦賀船渠がスタートしており、合併により、浦賀船渠に
川間ドッグは譲渡されました。渋沢栄一の尽力が大きかったそうです。


大衆帰本塚の碑 江戸時代浦賀が繁栄している中、コレラや疫病で
亡くなった人達の思いを忘れぬよう、又、碑が作られた経緯と共に
亡き人々を千年の後までも供養しようとの思いが、刻まれています。



西叶神社
「叶神社」は平安時代末期、源氏の再興を願った、京都の文覚上人が、応神天皇を
祭神として建立しました。建立数年後、平家が滅亡し鎌倉幕府が樹立されて、源氏の
再興が叶った事から、「叶大明神」と呼ばれるようになりました。こちらは
西浦賀にある西叶神社です。勿論東には、東叶神社があります。
西の狛犬は"唖”です東が”吽”で一対になってます。

東叶神社に行きます。
渡船で行きます。

海の道、市道2073号だそうです。
東浦賀に入ります。
船着き場のそばに、干鰯(ほしか)問屋がならんでました。江戸時代の初期、関西から
鰯を求めて沢山の漁船がやってきました。これは、近畿地方を中心に綿花作りが
発達し肥料としての、干鰯を求めてやってきました。東浦賀の干鰯問屋は全国一の商い
で大繁盛でした。


東浦賀の東林寺にある、中島三郎助一族の墓です
浦賀奉行所与力の中島三郎助は幕府の役人ですが、ペリー来航の際黒船に乗り
折衝にあたりました。俳諧にも通じ、「大衆帰本塚碑」の碑文を書き町の人々から
敬慕されていました。


こちらが東叶神社です。源氏再興の願いが叶えられた叶明神で、今では西叶神社で勾玉を買い
東叶神社で袋を買い求めて、お守りを作ります。縁結びのパワースポットとして有名です。
社務所の浦に勝海舟が咸臨丸での太平洋横断前に、水垢離をした井戸があります。



東叶神社の本殿は明神山にあります。ちょっと200段ほどの階段を上がっていくと、
浦賀城址がありますが、疲れたので途中のカフェで一休み

梅雨明け前の曇り空でも、いい景色


西浦賀に戻り愛宕山へ、咸臨丸出航港の碑があります。この碑は日米修好通商百年記念行事の
一環として咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた
「咸臨丸入港の碑」と向かい合うようにと、ゆかり地に建てられました。


浦賀には、鏝絵巡りができるほど、作品が残っています。干鰯問屋と回船問屋などで、町が繁盛していました。
川間のしっくい細工の名人、三浦の善吉と言って全国にその名を知られています。


徳川家康の江戸入城後、水運は急速な発展を、見せました。幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である
燈明堂を建設しました。
燈明堂は篝火でなく堂内で油を燃やす事によって明かりを得ており堂内には夜間は灯台守が常駐
していました。当時は夜間には明かりがほとんどなかったので、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも
確認が出来たと云われています。
日本初の西洋灯台、観音崎灯台が出来たことによりその使命を終えました。
今は復元され回りは、公園になっています。


浦賀はどこからでも、海が見える素敵な町でした。