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素敵です!! (bonchan)
2009-10-27 18:34:51
フィルム・ミュージアム凄いです!!
ベーカー街のあの部屋からは、ホームズの匂い!いえ!ジェレミーの匂いがしてくるではありませんかっ!!ひとつ、ひとつが、そこにジェレミーがいるかのような・・・映像が目に浮かびます。
りえさんが、触りたいっ!!って言う気持ち凄く判ります!。私も触りたいです(笑)あ~でも、緊張で手が震えちゃって、ダメかも?(泣いちゃうかな?)
スチール写真も飾ってあるのですね~。私の大好きな写真が(ジェレミーが)あって嬉しいです♪
私はですね~・・・プライオリ・スクールのと、その右上の写真(ジェレミー)が・・・あ~もう!ウットリです♪いつもステキな写真ありがとうございます!

それから・・・りえさんイギリスになんか誘われたら本気にしますよ★★★
りえさんを頼って、イギリスに行けたら・・・なんて気持ちはもう飛んでますよ(笑)

そちらは、随分と寒くなってきましたか?
洗濯物とかも乾きにくいのかしら?
ひとつ、ひとつ楽しみながら、風邪など引かないように気をつけて下さいね。

「ただいま、ロンドン♪」の方も主人と一緒に楽しく見ています。

ちょっと、今回は、興奮気味に書いてしまた・・・。
文章で、おかしなところがあるかもしれないけど、気にしないで下さいね。
 
 
 
きゃ~~☆☆ (ちび)
2009-10-28 01:04:22
な、なんという世界でしょう。グラナダの世界。いえ、もうほとんど「ジェレミーと会ってると等しい世界」・・・感激~~
「黄色い悲鳴」は今だかつて叫んだことがないのですが、今、叫びましたよ^^ 
セットは、触れられなくても、ガラスでなく壁ごしだから、同じ空気が感じられるのですね。わおおお。
りえさん、過呼吸にならないで下さいね^^
スチール写真、素晴らしい~
221Bの前のジェレミー、我が家って感じで、素敵にしかも元気があふれていれ、額に入れて飾りたいです!その下の写真は自転車乗りでしょうか?これも大好きです。
・・・全部ポストカードにして売って下さい!(即物的でスミマセン)この博物館、本気になれば、世界中からいろんな種類の(笑)ファンが集まるのに。。

舞い上がってます。乱文失礼いたしました。
 
 
 
最終回??? (fumiko)
2009-10-29 12:20:22
本当に素晴らしいわ!
でもなんかもう、クライマックス感一杯で、今回でこのブログ最終回???
ってちょっと心配なほど(笑)。
写真はスケールがわからなくなりますが、意外に「小さい」と感じました。
ここに英国人の大男が2人も入り込んだらさぞ狭いのでは?と思いました。
TVで時々で見てた時は、もっと部屋っぽかったので…
それに、改めて見渡してみると、ビクトリア朝を感じるような
分かりやすいゴージャスなものがないというのもすごい興味深かったです。
男の一人暮らしのオフィス、事件になると飛んでいくホームズの、
日常生活となると実はあまりこだわらない性格(オシャレは決まっていますが!)、フランクさが伝わってきました。
私にとっては、ロンドンは夏目漱石のイメージも少しあるので、(意外に同時代人…だったりして)彼もこんな部屋にいたり、神経衰弱になったりしていたのかなぁ(笑)、と思ったり。
私自身も、こういうなんか「最低限な感じ」の部屋はあこがれだったりします。
スチールもすてきで、特に2頭の馬と一緒のものに引かれました!
しかし、古きよき英国は、ますます隅に追いやられているのを感じますね。英国は多分もうもっと違うものを目指しているというか、そんな感じなんですかね。
私は今のエリザベス女王陛下の存在が、最後のとりでなのかな…とも思っているんです。
それにしても、今回はこんなマイナーで面白い所にいけて…(い行ってない、行ってない)いや、レポートしてもらってよかったです。
 
 
 
みつけました! (RM)
2009-10-29 23:44:46
りえさん、素敵なレポートをありがとうございました。スタジオをはなれて使われなくなって久しいものを、博物館の展示品としてご覧になると、寂しく感じられるかもしれないとちょっと心配しながらのご紹介だったのですが、でもそんな心配は無用でしたね!ひとつひとつの物とともにジェレミーを感じることができるから、なんですね。

いくつかみつけました、実際の場面での映像。9枚目(下から4枚目)の写真で一番手前にうつっているガラスのドームのようなものを含む器具(何に使うものなのかはわからないのですが)と、それがおいてある棚は、「ノーウッドの建築業者」の37分29秒(以下、宝島社のDVDの時間です)で、私が好きな(そしてりえさんがお好きな!)前髪ぱらりのホームズの後ろにみえる高い戸棚の上においてある器具と、36分52秒以降ワトスンの後ろにみえる低い棚ではないでしょうか。低い棚の方は映像ではあまりはっきりみえないのですが、棚の後ろの板の曲線や、棚の高さが似ています。また、「空き家の怪事件」の30分10秒でみると、あのガラス器具は戸棚の上のより窓側に移動しているので、ハドスン夫人がホームズ不在の間のお掃除の時に動かしたのかしら。「最後の事件」の教授との対決シーン(22分44秒)では、「ノーウッドの建築業者」と同じ位置においてありますから。そして同じく9枚目の写真で棚の上にうつっているひょうたん型のものは、GasogeneまたはSeltzogeneといって、炭酸水を作るものだそうですが(http://en.wikipedia.org/wiki/Gasogene)、「ノーウッドの建築業者」の37分21秒で、先ほどの低い棚の上にうつっています。映像の方では細部がみえないのですが、シルエットはよく似ています。他の写真でもうつっていますが6枚目で一番大きくうつっている、暖炉の左にたてかけてある杖は、「最後の事件」での教授との対決の前にホームズがワトスンに残していった、先に金具がついた登山杖ですね。こうやってみると、やはり全部実際の撮影で使われたものだと思いたくなりますね!

食器は、「海軍条約事件」や「ノーウッドの建築業者」で使っているものと絵柄はすごく似ているし、カップは全体的によく似ていますが、ポットの高さが低いですね。でもポットはいくつかあったのかもしれませんね。これまで以上に、ベーカー街の部屋の小物にも注目して、映像をみることになりそうです。

私もfumikoさんと同じく、二頭の馬に囲まれたホームズにひかれました。私ははじめてみるように思いました。ジェレミーはどんな表情かしら、と一生懸命ながめました。

「ジェレミー最期の地 clapham common 2」のコメント欄でふれたSherlock Holmes Gazette (Issue 13, 1995) の記事の場所を紹介させてくださいね。記事を読んでみたい方の参考になれば幸いです。以前にも紹介した、「For fans of Jeremy Brett」というコミュニティに投稿されたものです(http://community.livejournal.com/jeremybrett/212803.html)上から2つ目の右側がマイケル・コックスの追悼記事の1ページ目(その最後の段落からが花売りの少女のエピソード)、上から3つ目の左側がその2ページ目、同じく上から3つ目の右側が最後のページ(その3行目からが変装をカメラの前でとくエピソード)です。3回クリックすると大きくなって字がよめますが、かなり重いです。同じ号に載ったDavid Stuart Daviesの追悼記事は、後に書かれた本の内容と共通のところも多いですが、こちらのファイルの場所も紹介します(http://community.livejournal.com/jeremybrett/212619.html)。
 
 
 
みつけました!(その2)/ラジオインタビューを紹介させてください(その1) (RM)
2009-11-03 20:22:20
今日(11/3)はジェレミーと、ジェレミーの愛するジョーンさんのお誕生日ですね。それで、お誕生日のことも話している、先日紹介したラジオ番組 (Desert Island Discs) の中身について、お話しさせてください。長くなりますことをお許し下さい。この番組の音声ファイルの場所はhttp://www.jeremybrett.info/interviews.htmlです。ジェレミーの声、とても魅力的で表情にとんでいます。たとえば、とてもやさしい口調で、あるいは情熱的な口ぶりで人をほめるところ、回想しながら歌うように楽しげに話すところ。でも悲しみで声がかすかにふるえるところは、何度きいても胸が痛みます。英語が聞き取れないところは除いているつもりですが、もし間違いがあったら申し訳ございません。気づいた方がいらしたら、どうぞ教えてください。

あ、その前にThe Movieum of Londonの展示品について。「第二の血痕」でハドスン夫人が急いで片付けていたティーセットの中に、ミュージアムでうつっているポットと同じ物がありました(2分43秒)。ということは、あのセットには二種類のポット(紅茶用とコーヒー用?)がふくまれるのですね。そして、りえさんの写真で食器の向こうにうつっている戸棚には、今は実験器具がはいっているようですが、本棚として使っていたようです(たとえば「青い紅玉」8分33秒でマッチをさがしに暖炉にかけよるホームズの向こう側にみえます)。木の椅子はホームズの実験机の椅子だと思います(たとえば「赤髪連盟」でワトスンがホームズに起こされたところで、一瞬のみ全体がうつっています(24分27秒))。

それでは、インタビューのご紹介です。
---(その1:お父様のことや子供時代のこと)---
最初はホームズにまつわる話題から。グラナダ版ホームズの構成と一部の脚本を担当したジョン・ホークスワースはジェレミーがホームズを演じることを知って喜び、夢中だったけれども、ジェレミーの演技がまるでホームズそのものだったので、ジェレミーだとわからなくてすっかり驚いた話など。その次から紹介します。

(6分45秒)次に流れる曲を、故郷の村・ウォリクシャーではじめてききました。父は時々楽器を演奏していました。父は二つの世界大戦に参加した有名な軍人で、軍隊ラッパを吹いているのを一度か二度きいた事があります。モーツァルトのレクイエムのなかのある曲の最初の部分をきくと、霧の朝、この調べが野原に響き渡ったのを思い出します。(モーツァルトのレクエイムから、金管楽器のソロではじまる曲が流れる。)第一次世界大戦のために、イギリスでは父の世代の若者の多くが亡くなりました。父はたくさんの勲章を得ましたし、そのことを私は誇りに思っています。しかし父の最も並外れた点は、あの戦争を体験して生き残ったことだと思います。ですから父は孤独でした。友達をすべて戦争で亡くしました。

父の兄(弟)もあの戦争を生きのびました。おじは音楽の教師で、何よりも音楽を愛したすばらしい人でした。うちには大きな客間があって、すみにグランドピアノがあったのですが、おじが家にくると私はおじをピアノのところにひっぱっていって、なにか曲を弾いてとねだったものでした。そう、私のうちは音楽で満ちあふれていて、すばらしい子供時代をすごしたのです。

私の本名はハギンズですが、父はこの名前の評判が落ちることを恐れました。いえ、父が悪いのではないのです。私は子供の頃、舌癒着症で、17歳までは舌をうまく使えませんでした。だから父は私のことを案じたのだと思います。Rの音とSの音がうまく出せませんでした。ですから父は私が失敗するだろうと思って心配したのでしょう。ですから全く、父が悪いのではないのです。でも私がハムレットをロンドンのストランド劇場で演じた時---1961年だったと思います、息子のデイビッドが2歳でした---この時に父はジェレミー・ブレットがハムレットを演じるという告知をみて、「そろそろ名前を元に戻す時だね」と言ったのです。私は、「ああ(ため息)、それにはもう遅すぎるよ」と言いました。「遅すぎるって、どういうことだい」。父はハムレットを観に来て言いました。「ハムレットときたら、なんて煮え切らない人物なんだ!」私は「僕もまったくそう思うよ」と答えました。

(ブレットという名前はどこからきたのか尋ねられて)上着の内側からです。父は私のために、ウォリクシャーのウォリックにあるブレットという仕立て屋に、私のはじめてのスーツを作らせました。実際は2着です。私はそこから名前をとり、そのことは父を喜ばせました。だからこれでよかったのです。
---ここまで---

別のインタビューで、お母様からは芸術的な面を、お父様からは責任感をうけついだ、と言っているのを読んだ記憶があります。でもお父様の方の親戚にも芸術家がいらしたのですね。お父様と軋轢があったしても、この頃はもう暖かい気持ちで思い出している感じでした。
 
 
 
ラジオインタビューを紹介させてください(その2とその3) (RM)
2009-11-03 20:24:51
---(その2:南アメリカの旅のこと)---
(「My Fair Lady」のこと、ローレンス・オリビエのことを話した後で)。

(15分5秒)オリビエの劇団にもどったのは1967年で、そこで私の人生の中で一番幸せな4年間をすごしました。すべて男性が演じた「As You Like It」のオーランド、(「Much Ado About Nothing」の)クローディオ、「Hedda Gabler」のテズマン、「Macrune's Guevara」のチェ・ゲバラ、「Love's Labours Lost」のビルーン・・・。すばらしい日々、心が躍るすばらしい日々でした!でも、すっかり燃え尽きてしまったので、劇団を離れなければなりませんでした。それで南アメリカに6ヶ月間のヒッチハイクの旅に出たのです。

(南アメリカのどこですか、との問いに)南アメリカ全部です。最初にチェ・ゲバラの国に、チェが生まれた(アルゼンチンの)ロサリオに行って、それからボリビア、インカ帝国の国々、(ペルーの)マチュピチュ、そしてチリ、平原を横断してブエノスアイレス・・・。このすばらしい旅を経験したら、もう働く気持ちが失せるだろうと皆に言われていました。でも家にもどったら電話のベルが鳴って、ジョン・モーティマーが言いました。「ジェレミー、父の人生を劇にするためにキャスティングをしているのだけれども、僕の役をやってくれる?」これが1971年の舞台「A Voyage Round My Father」のはじまりでした。
---ここまで---

南アメリカでヒッチハイクの旅をしたという話は、ジェレミーの自由で冒険を好む面を教えてくれました。リンダさんの本に、いつどこで撮ったのかわからないけど、という断り書きとともに、木造の納屋の壁のようなところに鋭い目つきのジェレミーが腕を組んでもたれている写真がありましたが、あれはこの旅の途中かもしれないと想像しています。汚れたゴム長靴をはいた、いかにも野性的な姿の写真です。

どんな旅だったのか、1979年のインタビューで話しているのを紹介します。「南アメリカでのチェ・ゲバラのすばらしい功績にとても興味があったので、南アメリカで彼の足跡をたどろうと決めました。でも彼はボリビアで亡くなったので、彼をたどる旅は悲しいものでした」、「それからインカ帝国の国々へ行きました。ずっとインカ帝国に興味があって魅了されていたからです。それからチリ、ブラジルへ行って、そして帰国しました」、「ほとんどお金は持たずに行きました。お金がなくても自分の力で生きていけるかをためしてみたかったのです。6ヶ月滞在して、ヒッチハイクで旅しました」、「旅の途中で働きました。石を採ってみがいて、並べて売ったこともあります。チリでは貝殻をたくさんとピンセットを手に入れて、ものすごく小さいねずみをつくって売ったら、ずいぶんたくさんお金をかせぐことができました。」(http://www.brettish.com/middle-stages.htmlより)

--(その3:ジョーンさんのこと)---
(18分20秒)その後、舞台「Design for Living」(1973)で、その時は知らなかったのですが、私の最愛の人が私をみたのです。彼女の名はジョーン、ジョーニーと言います。彼女は観客として舞台を観ていました。1975年には私は(テレビ番組の)「The Rivals」の撮影中で、その時に私たちは出会いました。彼女が私たちが出会えるように手はずを整えたのだと思います。というのは「The Rivals」に出演している主要な俳優は私だけではなかったのに、私が選ばれたのですから。私たちはカメラの前で出会いました。彼女は4分間の映像を撮ることを予定していましたが、私たちはカメラの前で2時間半話し続けました。1978年に私たちが結婚したとき、結婚式の付き添い人が、削除部分でつくったビデオを結婚の贈り物としてくれました。

私たちは誕生日が同じです。同じでした。11月3日です。(おめでとうございます、という言葉に)ええ、もうすぐです。義理の母とすごします。楽しい日になるでしょう。私とジョーンはこのうえなく愛しあっていました。彼女は「Mystery Theater」をつくりました。彼女はウィスコンシン出身で、チェロキー族の血をひいていて、特別な直観力とすばらしい美しさを備えていました。彼女は(ボストンの公共放送局の)WGBHで働いて、「Mystery」、「Classic Theater」、「Picadery Circus」などの番組をつくり、「Masterpiece Theater」を18年間続けて、アメリカとイギリスの間に美しく繊細な橋を、輝くような橋をかけたのです(註・彼女が作った番組は、イギリスの良質のテレビドラマをアメリカに紹介するものだった)。私は彼女のことをとても誇りに思っていて、彼女の素晴らしさのすべてを語り尽くすことはできません。

(21分20秒)私がホームズの役を引き受けたのが、私たちにとって重い意味を持つことになりました。私はスタジオのあるイギリスの北部でホテルに閉じこもることになってしまったからです。私たちはその時、残された時間が短いことを知りませんでした。1985年の7月4日に彼女の人生が終わることを知りませんでした。私たちは庭園をつくろうと計画していました。子供を授かるには遅すぎましたから。それですばらしい、大きな庭をつくろうとしていたのです。場所はまだ決めていませんでした。適した気候の場所を探していたのです。ロサンジェルス、ウィスコンシン、ウォリクシャー・・・。

そして突然彼女は私から奪い去られたのです。ガンでした。ロックフェラーセンターのレインボールームで最後に彼女と踊った時のことを覚えています。桜の季節でした。私はブロードウェイで「Aren't We All?」に出演して成功をおさめていました。彼女は銀色の服を着ていて、このうえなく優美で、そしてはかなくみえました。そこで私たちは最後のダンスを踊りました。そして私は彼女を失ったのです。でも彼女は2人のすばらしい子供、ケイレブとレベッカを残してくれました。そして私の最初の結婚で生まれた息子のデイビッドもいます。でも、彼女が私のもとへもどってきてくれたらと思うのです。本当に心からそう思うのです。これからきくフォーレのレクイエムを、ロンドンで(ラジオ番組の)「Man of Action」に出演したとき---1977年だったと思います---交通事故でなくなった母の死に捧げました。今日は---(長い沈黙のあと)---この曲を二人に捧げます。

ボストンの後で、ジェームズ、ディアナ、クリスティーンに会えます。私の孫です。そしてエスター。エスターは今でも自転車に乗っています、屋内でね。彼女は90歳、私の義理の母です。ですからとても楽しく、幸せにすごせると思います。次の週末です。(ここで司会者が違う話題を持ち出すが、その後で)

(25分30秒)私が伝えたい最も大切なことは今からお話することです。あなたが人生で何かを失った時に、そこからはやく回復できるだろうとか、元の自分にもどるのは簡単だとか、決して思わないでください。あなたが思っているよりももっと長い時間を自分に与えてください。2,3年すぎたあとで急に涙がでても、驚かないでください。あなたが思っているよりも長い時間がかかることを、どうぞ覚えていてください。
---ここまで---

ジョーンさんのことを話す時、最初は明るくて、ジョーンさんの仕事の話はいかにも誇らしげです。でもジョーンさんの死を話すとき、レクイエムを捧げるときには、言葉が途切れたり、声がかすかにふるえたりします。曲の後で愛しそうにお孫さんの名前をあげる声もふるえているようにきこえます。ジェレミーは愛情が深い分、悲しみもいつまでも深いのですね。

最後のメッセージは、きいている人にきちんと伝わるようにという気持ちがにじみでているように感じました。司会者が次の話題にうつった後だったけれども、どうしても伝えたくて、という感じでした。
 
 
 
皆さんに喜んで頂けて、嬉しいです♪ (りえ)
2009-11-04 05:22:27
>bonchanさんへ

仰るとおり、ジェレミーの匂いを感じれそうなセットですよね!!
スチール写真も沢山ありますし、グラナダ・ホームズは流れているし、
あの部屋にいると、もうジェレミー・ファンは幸せに浸れること間違いなしです♪

bonchanさんは、ロンドン来れそうなんでしょうか?
でしたら、お待ちしてますよ-。
来年8月中旬頃までは、いると思いますので、ご一緒できたら嬉しいです!
ご主人様とご一緒にロンドン散策に来て下さいませ♪
小さい子供がいるので、ナーサリーに行っている間、主人が見てくれている間はフリーな時間があります
ロンドンに来られる時には、携帯番号もお教えしますので、何かロンドンで困ったことがあれば、いつでもかけてきて下さい。
ちなみに、ちびさんも行きたいと仰ってられて、お待ちしているとこです♪

こちらは、寒くなってきました。
でももともと乾燥している上に、さらに暖房が入って部屋の中が乾いてます。
ので、部屋干しでも一日で乾いてしまいます!


>ちびさんへ

素敵ですよね、このセット!!
黄色い悲鳴まで上げて、喜んで頂けて、私の方こそ嬉しいです!
ぜひご一緒しましょう♪
行くときは、お互い過呼吸にならないように、注意しないと(笑)

以前、グラナダのポストカードは売っていたんですよ-。
今もあるでしょうか、今度ベーカー街にも行ってきますので、まだポストカードが置いてあるか探ってきますね!


>fumikoさんへ

わおー、最終回ほどのボリュームがあったのね!?
自分ではそれほどとは思わず、アップしていたので。
そんなに受けてもらっているとは、私も嬉しいな♪

うん、このセットは確かに全然ゴージャスじゃなくって、本当に生活感溢れる小道具たちだね。
もうこれが、原作に緻密に作ってあるんですよ!

そういえば、夏目漱石は、同時代だと思うよ。
ジェレミーが住んでいたクラパム・コモンは、漱石も住んでいたことがあって、漱石記念館があるんですよ!

二頭の馬と一緒のスチール写真良いでしょう!
ジェレミーは、馬が好きとあって、馬と写っているシーンは、お似合いだし素敵なのよー♪

マイナーなおもしろい場所に行った気になってくれて、私も嬉しいです。
まだまだゆかりの地ツアーは続きますので、乞うご期待です!(笑)


>RMさんへ

誕生日コメント有り難うございます!
コメント読んで、「あ!今日って!!!」と焦った私です(笑)

南アフリカの話は、本当に興味深かったです!
ジェレミーがそんな旅をしていたなんて!という驚きですよね。
また、ゆっくりお返事いたしますね♪

グラナダのセットは、本当に教えて下さって有り難うございました!
こんな素敵な場所がロンドンにあったなんて!
また、早速の展示物へのコメントも有り難うございます♪

これから、「ノーウッド」見ながら、セットの写真を見比べますね。
また明日、お返事させて頂きます♪

それと、RMさん、もし良ければ、このコメントを写真の下に注釈としてつけても良いでしょうか?
みなさんも、きっとその方がわかりやすいと思いますので
 
 
 
どうぞお時間のあるときに (RM)
2009-11-04 23:23:12
りえさん

お返事ありがとうございました。でも、写真とDVDの見比べや、ジェレミーのインタビューに関するお話など、どうぞお時間のある時になさってくださいね。特に今週はいったんイギリスを出られるとのことですから。写真にある家具や小物に関して私が書いたことを、写真の下につけてくださるとのこと、光栄です!文章が冗長なところ、これは疑問だというところはどうぞ削ってください。そしてもちろんそれも、お時間のある時に。それからインタビューでは、私も南アメリカの旅の話には驚きました。

この次の記事のWyndham’s Theatreの写真と紹介も、とてもすてきでした。ジェレミーがポーズをとっているあの写真、覚えています!あのドアの前だったのですね。でも何よりも教会の写真、そしてりえさんが席にかけてしずかにジェレミーのことを思いながら、「天国からきっとみんなの様子を微笑んで見てくれたと思います」と書いていらっしゃることに心をうたれました。私も同じように席にすわって、同じように感じているような気持ちでした。告別式が行われたころ、りえさんは日本で悲しみの底にいらしたのですね。そしてその傷は長い間癒えなかったのですね。そのりえさんが今、ロンドンで、ジェレミーの微笑みを日々感じていらっしゃるということに、生きていることの美しさを感じます。それからジェレミーのこころの美しさを思います。大丈夫、運を使い切るなんてことは絶対にありませんよ!誕生日おめでとうの記事からも、はずむような幸せな気持ちが伝わってきました。
 
 
 
>RMさんへ (りえ)
2009-11-07 08:48:57
とりあえず、RMさんの検証コメントを掲載させて頂きました。
何か間違いがありましたら、どうぞ遠慮なく仰って下さいね。
いつもながらご協力、有り難うございます!

そして、お返事が遅くなりまして、すいません。
一日は、またキャンドルナイト(=停電)で、一日は、息子の風邪で、ばたばたしていました。
(ちなみに息子が風邪なので、ベルギーはキャンセルです)
イギリスは、しょっちゅう停電があるし、ネットは遅いし、すごい国です(笑)

ラジオインタビューのお話も、大変楽しく拝見しました。
前にも書きましたが、ジェレミーのお父さんが、時々楽器を演奏していたのは、意外でした。
ジェレミーとお父さんとの間には、俳優という職業に対する拒絶や、ホームズの幼少時代を自分と重ね合わせたりして、
色々と確執があったみたいですが、私は、ジェレミーを育んだお父さんですもの、きっと素敵な人物だったと思います。
それに、ジェレミーとも親子ですもの、色々あったにせよ、仲良く行っていた気がします。
(お父さんは、観劇に来ていたし、ジェレミーもクリスマスには帰っていたし、最晩年には確かお父さんの近くで舞台をわざわざしていた気がします)
お父さんも戦争に行かれて、性格が色々と変わったかもしれません。
それにしても、戦争で友達を亡くし、妻も交通事故で亡くし、晩年は寂しく過ごしてらっしゃったのでしょうか。

おじさんは、音楽教師だったんですね!
その血が、ジェレミーにも受け継がれていたのでしょうか。
実家はかなり広いと聞いていましたので、グランドピアノぐらいあっただろうと思っていましたが、やはりありましたか!
幼少の頃から、こうしてジェレミーは音楽に触れて育っていったんですね。

そういえば、ジェレミーがスーツを作ってもらったテーラーは、今も健在でしょうか?
この滞在で、ジェレミーの故郷まで行ってみたいと思っています。
近くにブレットという名のテーラーがないか、調べてきますね!

南アフリカの話は、本当にびっくりでした!
しかも、ヒッチハイクなんて!!
あのお坊ちゃまのジェレミーが、そんなこと出来るんですか!?ってびっくりです。
あんなハンサムな俳優が、言うとなんですが、そんな危険な国で、働きながらやって行けたなんて!!
俳優以外でやっていけるか試して見たかったのでしょうか。
それにしても、それにしても!!!
私、ジェレミーが行った国には行ってみたいと思っているのですが、今回は、ハードル高いですね(笑)
ジェレミーがインカ帝国に興味ですか、大英博物館に何か展示物がないかチェックしてきます。

ジェーンさんのことは、本当にロマンチックでいつ聞いても良いお話ですよね。
そういえば、お誕生日が同じとは始めて聞いたかもしれません!
ジェーンさんとの子供が欲しかったんですね・・。
なんかその言葉を聞いて、もうちょっと二人が早くに出会っていたら、と切なくなりました。
二人で庭を造れたら、本当にどんなに素晴らしかったでしょう。
残っていたら、私たちも、どんな庭か見てみたかったですね。

7月に亡くなって、最後に躍ったのは桜の季節というと、亡くなる3ヶ月ほど前のことだったのですね。
桜の咲く頃、ロックフェラーセンターで、銀色のドレスを着た最愛の人とラスト・ダンス・・。
映画のようなお話です。
ジェレミーの中には、本当に美しい奥様の思い出しかないのでしょうね。
本当に胸を打つお話です。

ジェレミーの最後の言葉は、心に溶けますね、染みこみます。
できれば、ジェレミーを亡くした時、この言葉を私が聞きたかったくらいです。
今、悲しんでいるすべての人に、この言葉を捧げたいです。

劇場に関するコメントも有り難うございます!
ジェレミーのダンスのポーズ、RMさんならすぐに分かって頂けると思っていました(笑)

>告別式が行われたころ、りえさんは日本で悲しみの底にいらしたのですね。そしてその傷は長い間癒えなかったのですね。そのりえさんが今、ロンドンで、ジェレミーの微笑みを日々感じていらっしゃるということに、生きていることの美しさを感じます

仰るとおりですね。あの悲しみに満ちていた日々、こんなに幸せな時があることを知りませんでした!
それにしても、ジェレミーから悲しみを与えられ、また喜びも彼からなんですね。
本当に、私の人生はジェレミー次第です、そんなに好きな人がいて嬉しことですが(笑)
いつも素敵なコメントを有り難うございます。
また、お話できるのを、楽しみに待っていますね♪
 
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