歴史の都

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藤原鎌足と常陸国出身説②

2023-10-09 17:18:00 | 藤原鎌足
※トップの画像は、河野辰雄氏著書の『常陸国風土記の史的外観』から引用しました。


前回に引き続き、藤原鎌足の常陸国出身説を追います。


藤原道長を中心にした摂関家の全盛期を描いた『大鏡』第五の条では、鎌足の出生地について以下のように記されています。

「(中略)…中臣鎌子の連と申して、内大臣になり始めたまふ。その大臣は、常陸国にてむまれたへりければ、三十九代に当りたまへる帝、天智天皇と申す…(後略)」。

「鎌足の大臣生れ給へるは、常陸の国なれば、かしこに鹿島といふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、その時より今にいたるまで、あたらしき帝・后・大臣立ち給ふ折は、御幣の使必づたつ」。

この条では、二度に渡って鎌足は常陸国の生まれであると記し、鹿島の名も登場しています。

また、奈良時代に成立した地誌『常陸国風土記』の久慈郡の項には興味深い一文があります。

「久慈の郡。…(中略)淡海の大津の大朝に光宅しめしし天皇の世に至り、藤原の内大臣の封戸をみに遣わされし軽直里麿、堤を造きて池を成つき。其の池より以北を、谷合山と謂ふ。(以下略)
→天智天皇の世に、(常陸国久慈郡にある)藤原の内大臣(鎌足)の封戸を視察に来た軽直里麿という人物が堤を築いて池を作った。その池よりに北に、谷合山がある。

ここでの谷合山が茨城県のどの山を指すのかはっきりと分かっていませんが、大子町の男体山、もしくは音の似てる武生山(たきゅうさん)とする説があります。

鎌足の封戸があった場所については、『新編佐竹読本』著者の高橋茂氏によると、当初は大化の改新の恩賞として天智天皇から5000戸を与えられるも鎌足が遠慮したことにより2000戸を下賜され、常陸国久慈郡金砂郷、水府、太田郷瑞竜、佐都郷(いずれも現在の茨城県常陸太田市)にあったとしています。

こうしたことからも、やはり鎌足は常陸国の生まれだったのではないか?という疑念を持たざるを得ません。

大鏡に記述があったり、常陸国に封戸があったからといって、鎌足が常陸国の生まれであると考えるのは早計だと考える方もいるかもしれません。

しかし、鎌足を常陸国鹿島の人だと記す書は大鏡だけではありません。「伊呂波字類抄」「多武峰縁起」にも同様のことが記されており、更に鹿島神宮の近くには“鎌足神社”があります。ここでは鎌足を祭神として祀っており、この地で鎌足は生まれたという伝承があります。


茨城県鹿嶋市宮中字下生にある鎌足神社。筆者撮影。

また、『常陸国風土記』は、藤原不比等の三男である藤原宇合が編纂したとされており、やはり鎌足だけでなく藤原氏と常陸国の強い関連性は無視できません。


次回は鎌足と鹿島、鹿島神宮との関係性について書きます。




参考文献 河野辰雄『常陸国風土記の史的外観‎(崙書房)
     秋本吉徳『常陸国風土記』(講談社)
     高橋茂『新編佐竹読本』(とらや書店)
     田村圓澄『藤原鎌足』(塙書房)   
     石川徹『大鏡』(新潮社)








藤原鎌足と常陸国出身説

2023-10-01 10:00:00 | 藤原鎌足
藤原鎌足(614~669)とは、藤原氏の始祖であり、後の天智天皇こと中大兄皇子と共に大化の改新の中心人物として活躍した貴族です
中臣鎌足という名でも知られてることは言うまでもないでしょう。

鎌足の父は中臣御食子であり、母は大伴智仙娘。両親共に連姓豪族の上層クラス出身です。

鎌足の子として、僧侶の定恵、藤原不比等、耳面刀自(弘文天皇妃)、斗売娘(中臣意美麻呂夫人)、氷上娘(天武天皇夫人)、五百重娘(天武天皇夫人、のち藤原不比等夫人)。

孫に、藤原四子として有名な藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。いずれも藤原不比等の子息たちです。
彼ら四兄弟は藤原四家としてそれぞれ南家、北家、式家、京家に分かれ、特に北家の子孫たちは長期に渡る藤原氏繁栄を築きます。
ちなみに、藤原道長は房前を祖とする藤原北家の出身です。




そんな鎌足の出生地は、藤原氏初期の歴史を記した伝記である『藤氏家伝』では大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)とされています。

また、同じく高市郡の大原(奈良県明日香村)にも鎌足出生の伝承があり、大正3~4年出版の「大和志料」という本では次の通り書かれています。

『大原、今小原ニ作リ飛鳥村ノ大字ニ属ス。所謂藤原ハ其ノ内ニアリ、中臣氏世々ココニ住シ、鎌足連亦ココニ産ル』。

しかし、この記述を日本史学者の田村圓澄氏は自身の著書『藤原鎌足』の中で「地理的にも大原とは全く別個の藤原を大原の一部にとりこむという牽強付会をしている」と批判しています。
ただ、この地にある大原神社の境内には今も「大織冠鎌足広旧邸」の石碑があり、その付近の誕生山には伝大伴夫人(鎌足の母)の墓があり、当地の人々に鎌足は大原で生まれたと信じられていたことが窺えます。


それでは、鎌足は大和国出身で間違いないのでしょうか。

大和国高市郡藤原出身説を定説とする論文や書籍が多い一方で、鎌足には常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)で誕生したという説があります。

藤原摂関家の全盛期を描いた『大鏡』では、鎌足の出生地を常陸の鹿島としており、常陸国出身説は平安時代の貴族たちの間ではかなりの信憑性をもって信じられていたといいます。

ところが、『大鏡』の記述の信憑性を疑問視する現在の多くの研究者たちはこの常陸国出身説を否定し、鼻にもかけてないのが実情です。

しかしながら、私は疑問に思うのです。
なぜ、『大鏡』は藤原氏始祖である鎌足を常陸国の生まれだと記したのか?

大鏡の著者は現在も尚不明とされていますが、摂関家の人物かそれに近い人物が書いたものであることはまず間違いないでしょう。
それならば、鎌足が大和国の生まれであることが真実なら藤原氏の始祖である彼をわざわざ東国の僻地・常陸国の生まれと記す理由がないように思われませんか?

また、当の鎌足は常陸国鹿島に鎮座する鹿島神宮を厚く信仰し、鹿島神宮から10キロ程離れた香取神宮も崇拝していたといいます。
ここに、鎌足の出身地の真実が隠されていると考えられるのです。


次回に続きます。



参考文献 田村圓澄『藤原鎌足』(塙書房)
     井上辰雄『常陸国風土記にみる古代』(学生社)