建設社長の独り言

苦学生時代?の「あゝ上野駅」の曲が懐かしい!

 余りテレビを視ない私だが、先日夕食時テレビを視ながら歌番組を視た。懐かしい「ああゝ上野駅」の曲が流れた。無性に懐かしさを感じた。大学入試に失敗し、どん底に喘いでいた時の想い出が蘇ったからである。あの時の想い出は苦学生時代とは言えないのかも知れない。何故なら実際は授業料だけは出してもらっていたからだ。
 父親は田舎の小さな土木会社勤めだったし、生活は裕福な方ではなかったが、何とか授業料だけは払ってくれた。だが月々の生活費までは迷惑かけられまいと自分で稼いで手当てした。そのために、浪人中1年間東京で働きながら勉強したつもりだ。多少の蓄えもした。受験に失敗し、1年間上京して働いた。働きながら予備校に通って勉強するには、定番の住み込みの新聞配達が当時のスタイルだった。新聞の広告を片っ端から読み新聞配達店を探し、見つけて行った先は東京墨田区曳舟の読売新聞の配達店だった。高校を卒業して働いたのはこれが初めてだった。新聞配達の朝は早い! 何故なら新聞を配達するだけでないからだ。朝と言うより明け方に近い。配達する新聞に折り込み広告の差し込みがあるからである。正直これが嫌だった。何故なら粗い紙の新聞紙より立派なカラーの厚紙で重かったからだ。しかも地方と違い東京は織り込み広告は半端ではなかった。もっとも新聞配達業は新聞配達よりこちらの折り込み広告があるから商売してると言って良かったからだ。だが良質紙のためかなり重くなるのである。それを新聞配達用に改造された自転車に積み込み配達するのである。晴れた日も雨の日もである。働いた事のない高校卒業したての18歳のガキだった。朝に弱く働いた事の無い私には正直辛かった。当初馴れない私は当然嫌気がさし、予備校に通いながらの勉強等出来る筈もなかったので、ホームシックになり、田舎に帰ろうと日中何度も上野駅(当時の始発終着駅は東京駅ではなく上野駅だった)に行って西郷さんの前で泣いた事を記憶している。その度にその2年くらい前に発売された井沢八郎の歌謡曲「あゝ上野駅」を口ずさみながら頑張った事が60年近く経った今でも昨日の事のように思い出される。
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