母校高知学芸の歴史には、明るい話題が多々ある中、そうでないこともあります。
その最たるものは、修学旅行中の上海列車事故でしょう。
そして、私は、その次に「内田先生解雇事件」を挙げたいと思います。
このブログ2024-08-19 付け書き込みでご紹介した8期生西山さんのご著書でも、この事件のことに触れられていました。
既に50年も前のことです。
事件の発端は、内田祥穂(ペンネーム八朗)先生が、地元紙に連載された教育論でした。
連載終了後、それを一冊にまとめて出版されたわけですが、学校当局は、その地元紙連載や著書の内容が学芸という学校や校内の教員を誹謗中傷しているとして、内田先生を解雇した、というものでした。
学芸讃歌の作詞者であり、校長補佐を務められた内田先生は、理想に燃えて設立された母校の創立精神そのものだったと思います。
しかし、創立以降、母校に入職した教員の方々の一部と内田先生とは、教育に関する考えに隔たりがありました。
その人たち=声が大きい人たち=が校内で力を持ち、内田先生の理想とは離れた方向へ学校が向かっていく。
内田先生が、そうした方々の行動を批判的に記述していたことは確かです。
しかし、それが「解雇」という最も厳しい処分の理由になるのでしょうか?
教員にとって、教壇を追われることは、死刑に等しい仕打ちではないでしょうか。
大学生だった私は、この事件のことを聴き、強い憤りを覚えて、解雇撤回を求める署名集めに奔走しました。
この事件が民事訴訟となり、法廷で争われるに至った時には、一卒業生として率直な意見を「陳述書」にまとめて、法廷に提出しました。
50年前を振り返ってみるに、そうした自分の行動は、決して間違っていなかったと思っています。
写真は、1974年10月14日、高知地裁で開かれた第1回口頭弁論の際に撮影したもの。
古い銀塩写真をスマホで接写したものなので、画質が良くないです。ご容赦!