エルメスバッグ専門店

エルメスバッグ専門店-BAG HERMES
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1950年代

2015-03-09 11:18:01 | 日記
1950年代、シャネルNo.5のブームは、マリリン・モンローによって再燃した。モンローは香水の宣伝を頼まれたわけではなかったが、大いなる宣伝の機会となった。1954年のインタビューで、何を身に着けて眠るのか尋ねられた際、映画スターは「シャネルNo.5を5滴」と挑発的に答えている。
1960年代
1960年代にはシャネルNo.5を、バイブル的存在のヴォーグやBazaarといった高級ファッショングラビア誌が、あらゆる女性にとって必須のアクセサリーだと表現した。印刷広告は写真、文面ともに落ち着きのある保守的なもので、芽吹き始めた若者文化のエネルギーや気まぐれな美学からは距離を置いていた。「活発なすべての女性は、シャネルNo.5を望む」「活発なすべての女性は、シャネルNo.5を愛する」という2つのキャッチフレーズが、広告コピーとして繰り返し登場した。
1970年代と1980年代
1960年代の広告は、シャネルNo.5の魅力を維持することはできず、かわいらしい、ファッション・バイブルとしてティーン向け雑誌を読むような上品な女子学生のための香りとされた。
1970年代、長い歴史の中でシャネルNo.5は初めて、時代遅れの大量生産品とみなされるようになり、ブランドは新風を必要としていた。香水はドラッグストアや同様のアウトレットから撤去され、シャネルがま口財布 外部の広告代理店は契約を切られた。イメージの再生は、「パルファム・シャネル」の芸術監督ジャック・エリューに委ねられた。エリューは、フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブをシャネルの顔に選んだ。印刷広告はアイコンとして瓶の彫刻を掲載した。
TVコマーシャルは、超現実的なファンタジー等を得意とするプロダクションを通し、創意に富んだ短編映画となった。
1970年代と1980年代には、リドリー・スコットが監督し、「同じ視覚イメージ、同じ瓶のシルエット」が描かれた。
エリューの監督下、魅力と洗練のイメージがシャネルに戻ってきた。


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1940年代

2015-03-09 11:18:01 | 日記
1940年代初期、ブランドの露出を増やすのが産業界の定法だった時代に、「パルファム・シャネル」は正反対の道を行き、実際に広告量は減少していた。
1939年と1940年には、広告は重要視されたが、1941年以降それらは劇的に削減され、印刷広告はほとんど実施されなかった。
「パルファム・シャネル」重役たちは、広告支出の必要性を感じていなかったと思われる。香水の売り上げ高は第二次世界大戦中にも全盛を維持し、アメリカ合衆国では1940年から1945年にかけて売り上げが10倍に伸びるなど、シャネルNo.5は大人気だった。
「パルファム・シャネル」重役たちが革新的なマーケティング法を思いついたのは、大戦中のことであった。販売顧客層を中流階級に拡大するため、1934年にポケットサイズの小瓶が導入された。香水の小瓶を軍の駐屯地の売店(PX)で販売することで、市場の拡大を狙ったのである。市場の独占状態を危うくするかもしれないという恐れもあったが、この計画を実施したところ、このマーケティング法の可能性が実証された。シャネル ボストンバッグ ブランドの地位は揺らぐことなく、贅沢とロマンス、すなわち兵士が故国に残してきた恋人への贈り物というイメージを確立したのである。
戦争が終結してナチスが敗北すると、戦時中のシャネルの対独協力行為が露見する恐れが出てきた。イメージ向上の試みとして、カンボン通りのブティックの窓にシャネルのサインとともに、希望するアメリカ軍人全員にシャネルNo.5の瓶を無償配布すると告知された。兵士たちはパリの「贅沢」な瓶を持ち帰るために長い列を作り、「フランス警察が彼女に髪の毛一本でも触れたなら、憤慨しそう」な勢いであった。


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