大津バプテスト教会blog

大津バプテスト教会のブログです。

秋の空

2018-10-15 12:31:43 | 日々のこと


空が高く感じます。日曜日は、久しぶりに晴れました。うれしい。


今日はダビデのお話でした。

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「神は ・・・ ダビデについて、次のように宣言なさいました。『わたしは、・・・ わたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』」(使徒13:21,22)

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神様は、ダビデを「わたしの心に適う者」と見ていた。

そしてダビデは、自分にはいつも主の導きが必要だと思っていた。

彼は心から、主を賛美し礼拝を捧げていた。

が、そのダビデも、御心に適うことができなかった事もある。

間違った選択をしてしまった事がある。

主により頼みつつ、数々の困難を乗り越えてきたダビデにも、失敗があったということを、聖書は記している。

人物の一人をクローズアップするとき、その人のプロセスをたどっていくと、数々の困難や誘惑に直面していることがわかる。

これは、今生きる私たちの人生においても同じことである。

人間は、完全無欠のスーパーヒーローみたいなことはないのだと、聖書は、私たちに教えてくれる。


主の導きを聞くことが、習慣となれば良いと思う。

あとは・・もっと素直になれればいいな。

どんな時も、イエスさまに聞きながら。

どんな時も、賛美と礼拝を捧げたい。


【今週のみ言葉】
「私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。
 主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(サムエル記22:7)

教会カフェにて

2018-10-08 08:13:21 | 日々のこと
 

教会でのカフェでの一コマ。

ひとりのご婦人が、手づくりブローチを教えてくださいました。

手芸のコーナーは初でした!

参加されたみなさんは一所懸命つくっておられました。

たくさんの可愛いお花のブローチを見ることができました♪

カフェは月1回やってます。

のんびりやってますので、ぜひどうぞお越しください。

レッツ7・5・3

2018-10-04 11:47:23 | 日々のこと


旧約聖書の時代、イエスさまは、生まれていないけれども、どういう風に読んだらいいかな?

イエスさまが聖書に対して言われているみことばがあります。

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「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39)
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聖書は金太郎アメみたいなものだと、どこかで見たことがあります。
どこを読んでも、イエスさまがいる、みたいなイメージです。


こないだのつづき。旧約時代、南ユダ王国のヒゼキヤ王のその後です。

主の賛美するために宗教改革を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めてきました。ヒゼキヤはセンナケリブに人を遣わして「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください・・」と言わせ、お宝を贈ったりしました。
が、アッシリア王はガンガン攻めてくる。

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センナケリブはユダの国の民に言う。「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。・・」(Ⅱ列王記18:29)
彼らは、エルサレムの神を、人の手の業にすぎない諸国の神々と同じように考えて語った。(Ⅱ歴代誌32:19)
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この危機的状況の中、ヒゼキヤ王は預言者イザヤと共に祈った。

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「・・主よ。アッシリアの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。・・」(Ⅱ列王記19:17)
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祈りの中でヒゼキヤ王は、厳然な事実を認めている。ヒゼキヤは現実を受け止めることができずに信仰で祈っているのではない。
謙虚な姿勢であると思った。まずは、私自身が受け止めきれない事実に向き合うことからなのだと教えられる。

主は、センナケリブの軍勢を滅ぼし、ユダ王国は守られた。
この後も、ヒゼキヤ王は死に至る病にかかるが、主のあわれみを受けてヒゼキヤは一命を取りとめた。
しかし、いつしかヒゼキヤはその恩恵を忘れ、遠い国バビロンの使者に、家の中の宝物を全部見せてしまう・・。

人は、神様への感謝の気持ちをすぐに忘れてしまうところがある。

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イザヤはヒゼキヤに言った。「主のことばを聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日までたくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。」(Ⅱ列王記20:17)
ヒゼキヤは言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。(Ⅱ列王記20:19)
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ヒゼキヤのような弱さは私たちの中にもある。もしかしたら、寿命によるあきらめの境地だったのかもしれない。

信仰は、生きたものである。主に祈りつつ、次の世代につながっていければと思う。
5000人の食べ物が無かった時、少年がイエスに差し出した5つのパンと2匹の魚(ルカ9:10-17)のように、私がわずかに持っている何かを、主に差し出すことから、始めることが大事だ。

もうひとつ、ヒゼキヤのお話で感じたこと。
ヒゼキヤは、イザヤのことを大切に思っていたのだろうか。
国の危機の時も、病気の時も共に祈った。ヒゼキヤの堕落が見えた時にはイザヤは彼を戒めた。
2人の関係は長く続いていたと思われる。
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イザヤはヒゼキヤに言った。「主のことばを聞きなさい。」(Ⅱ列王記20:17)
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現実に、このまんまのセリフを言ったり聞くことはなくても、
励ましてくれる周りの人を、大切にしていきたいと思う。

ヒゼキヤ王のD・I・Y

2018-10-01 14:02:34 | 日々のこと


キンモクセイ(Osmanthus fragrans var. aurantiacus)。台風が過ぎて間もなく、香りが風に乗ってやってきた。

メッセージは「主に依り頼んだヒゼキヤ王」でした。
サウル王、ダビデ王、ソロモン王の後、イスラエルの国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した時代があります。
ヒゼキヤが、南ユダ王国の王になったときのこと。

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「彼(ヒゼキヤ)は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。」(Ⅱ列王記18:6)
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ヒゼキヤ王は主を賛美するために、o・t・ourself・・・宗教改革を行った王でした。かつての王は、異教の神を礼拝していた。そこでヒゼキヤは祭具の入れ替えを行い、祭司やレビ人が清められ、過越祭が回復されました。ヒゼキヤ王は、場所においても人においても、主を礼拝するために改革を行ったのでした。

8月に、JF子どもキャンプに行った時の事。
班に分かれて朝の仕事をする機会があり、私は「染物体験」に参加しました。そこで、染物指導の先生が言いました。
「今、ここにある染物をつくるための道具はですね、全部山に棄てられていたものです。染料を煮出しているステンレスの大きなバケツも、材料たちが入っているカゴも、全部山に落ちてました。まだ十分に使えるものを誰かが棄てていく現状があります。」
そうして、桑の葉と玉ねぎの皮で煮出した染料で染めたハンカチは、たんぽぽ色に染まった。

使っているものは、何でも傷んでいく。また、山に棄てられた道具のように、道具にとっても山にとっても不当な扱いをされてしまっていることがある。
大切に使っている場所や物は大事に使っていきたい。そして、その時は目の前にいなくても、それらを使う人がいる。
その人のことを大切に思う心も、同じように大切にしたい。

つづく。

ヒガンバナ

2018-09-25 12:43:17 | 日々のこと


真っ赤なヒガンバナ(Lycoris radiata)。燃える火のようです。

いつのまにか、物語の中に、自分の希望をのせていることがある。
たとえばTVドラマや映画でいうところの「こうなったらいいのにな」とか「もしかしたら、犯人はこの人かもしれない」みたいなことだ。
私は、どちらかというと、サスペンスドラマの犯人などは、最後の最後まで分からない性格をしていると思う。
予測はしているのだけれど、これが大体はずれる。そうかといえば、ドラマの序盤から犯人がわかっている人もいる。
私は、その人が何故、そんなに早く犯人がわかるのか、不思議でしょうがない。


私たちは、物語をかたる時においても、自己中心的な思いに引っ張られてしまう性質をもっているともいえる。
では、聖書を読むときはどうなのか?
これも、個々によって解釈が違ってくる。10人いたら10人違う。当然である。

聖書の物語に関する対話がはずむのは、
誰かの物語を垣間見させてもらっているところにあるのかな、とも思う。

そして、もう一方で、
ある人が、このような事を言ったことを思い出す。

「聖書の物語に、たまに『何でこの話の流れでこの言葉が必要なのだろう?』と思ったり、よく考えても分からない文脈があったりするけれど・・・でも、きっとそれが『聖書』なのよね。そうでなかったら、私たちは、『他の物語』を読んでいるのと何も変わらないと思うわ」

聖書の学びを始めたばかりの方だったのでびっくりしました。
聖書が、神様が表された本であることを信じていなければ、このような事はでてこないと思ったから。

聖書は、歴史的な事実も物語も含んでいる書物である。いろんな読み方ができる。事実と事実の間に、私たちは、物語をふくらませることもある。(あるいは仮説を立てる)

でも、やはり、聖書のみ言葉は、そのまま受け取ることが大切だ。
イエスのキャラクターは、彼が発する言葉をそのままに受け取ることで、私の中に浮かび上がってくる姿である。
聖書はやはり、神様によって表された本なのであるということをしっかり私たちの土台に据えておく必要がある。


預言者エリヤのことを学びました。(列王記Ⅰ 17・18章)旧約聖書の時代。エリヤは、イスラエルの王アハブ王の時代の預言者でした。
アハブ王は、妻の影響で異教の神バアルを崇拝していました。神様はイスラエルの民の心を、再び主に立ち返らせるため、預言者エリヤを使わされました。

私たちは、数々の奇蹟を行ったエリヤの偉業を見ることができますが、それと同時に、そのような預言者エリヤであっても、自分は味方が誰もいないと思う姿(18:22、19:10)や、恐れのあまり命を取ってくださいと主に願う姿も知りました。(19:4)

自分はひとりではないかと思う時があったり、いいわけが多くなっている時がある。でも、そのままの姿で、神様に飛び込んでいったらいい。エリヤはどんなときにも主に聞き、神様は、そのようなエリヤの道をひとつひとつ導いていかれました。エリヤのように、忍耐強く、ひとつひとつの課題に対して、祈っていきたい。


【今週のみ言葉】
「エリヤは、私たちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地に実をみのらせました。」(ヤコブ5:17,18)