日本キリスト教会小樽シオン教会

北海道小樽市に1892年2月に設立された長老派の日本キリスト教会北海道中会に属する小樽シオン教会です。

日本キリスト教会 小樽シオン教会 のページです。

2099-12-31 00:00:00 | トップ

■小樽シオン教会の歴史

伝道開始……1892年 2月11日
教会建設……1903年3月20日
現会堂献堂…1950年10月1日

 1892年2月、米国長老派ミッションの援助を受け、栗原宗治伝道師が派遣され、手宮町石山下の商店2階を借り受け講義所を開設。翌年、静岡より光小太郎牧師が着任。最初の会堂を1897年、稲穂町西8丁目に建築、定まった場所での伝道態勢が出来た。北海道中会が設立された1903年には、独立教会として日本基督教会に加わった。
 教会早創の時代24年にわたって活躍した光牧師健康不調のために辞任。渡辺重右衞門(在任1年)、西健二(在任4年)、村岸清彦(在任8年)牧師らが奉仕の後、1931年近藤治義牧師着任。満州事変に始まる日中15年戦争、そして1941年からの太平洋戦争という困難な時期を経、戦後のキリスト教ブーム時代、経済成長による繁栄の時代など、全く異なる社会状況下、困難な中にも一貫して神の言葉を語り続ける教会の姿勢がそこにはあった。近藤牧師は戦後の日本基督教団からの離脱、新日本基督教会結成発足に積極的に関わり、北海道中会を支え、かつ個人誌「ことば」による文書伝道と教会形成に忠実に仕えられた。1976年には、秦利器牧師を迎え、御言葉に忠実に聞く教会として成長した。日曜学校校舎建築、幼稚園園舎新築、1992年の教会伝道開始百年記念行事など、転機の時代内外の整備に力を注がれた秦牧師を苫小牧教会へ送り出した。
 1996年には、北村一幸牧師を旭川教会から迎え、第2世紀が始まった。教会併設のロース幼稚園創立百年の年、1997年、不思議な神の計らいにより、創立者ミス クララ・ロースの出身教会米国東部エルマイラ第1長老教会との関係が開け、その交わりが今日も継続されている。2002年小樽シオン教会は、伝道開始110年を記念して、会堂前に木製十字架を建設し、人々の罪の贖いと復活の希望を満たす福音の知らせを改めて高く掲げ続けている。2017年は教会伝道開始125年、併設幼稚園は創立120年の年であり、各々の歴史の重みを覚える年となった。 2019年4月から髙田昌和牧師が赴任した。

■集会の案内

聖日礼拝……毎週日曜日 午前10時30分
日曜学校……毎週日曜日 午前9時15分
祈り会………毎週水曜日 午後7時
木曜祈り会…毎月第一木曜日 午前10時30分
婦人会………毎月第三木曜日 午後1時
銭函桂岡集会 毎月第二木曜日 午後1時

■所在地 〒047-0033 小樽市富岡1-2-1 電話0134-32-7758

小樽シオン教会のYoutube のチャンネル(クリックするとページに飛びます)
聖日礼拝の説教をスマホで録画したものをアップしています。


24/07/07礼拝説教

2024-07-07 16:30:46 | 説教要旨
24/07/07(日)礼拝説教
旧約詩88編2-3、新約ルカ福音書18:1-8
「神を畏れぬ裁判官」

 聖書箇所の前の個所では、終末についての説明がありました。審判がありますが、しかし信仰生活と教会生活を送る者は祈り続けていることが大切であることが示されます。
 そして、聖書箇所では気を落とさず祈り続けることの大切さを示します。
 やもめと裁判官の譬えを通して、しつこく祈り続けることの大切さを示します。
 裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」と記されていますので、不正にまみれている存在、と捉えてよいと思います。法に従うのでも、御言葉に従うのでも祈るのでもなく、賄賂や自身に利益があるかどうか、という俗物的な価値観しか持たない、裁判官とも呼べない存在であると聖書は言うのです。
 やもめは、社会的地位の高い裁判官と比べれば、その対極で無力で、律法に従い保護されなければならない存在です。
 このやもめがあるとき「相手を裁いて、わたしを守ってください」と裁判官に申し出てきました。
 本来であれば裁判官はこのやもめの訴えを直ちに受けなければなりません、しかし不正にまみれた裁判官には、やもめはただうるさい存在としか映らなかったようです。しかし、やもめはあきらめずに裁判官のところに通い、訴えを続けます。
 すると不正にまみれた裁判官でも、「うるさくてかなわないから裁判をしてやろう」となると聖書箇所は言うのです。
 そして、不正にまみれた裁判官でさえ、何度も訴えれば聞くのに、神が昼も夜も叫び求める声をぞんざいに扱うはずがない、と聖書箇所で主イエスは言われるのです。
 しかし、困難や苦難の中で祈っても、すぐに都合よく神様が迅速に応えて下さるとは限りません。神様のみ心に従ってみ心を行われるのです。そのような神様のみ心に気付き、祈り続けることが出来るか、それとも祈りを放棄してしまうか。どちらが求められていることかを考えなさいと主イエスは言われるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/06/30礼拝説教

2024-06-30 16:23:16 | 説教要旨
24/06/30(日)礼拝説教
旧約イザヤ書52:7、新約エフェソ2:11-22
「キリストにあって一つ」

 エフェソの信徒への手紙のテーマは神の家族です。各々バラバラにされていた人々が、キリストにあって、ひとつとされ、心を一つにし、祈りを合わせ、力をあわせ共に生き行く主イエスにある一つの家族とされる、ということを描いています。
 このためには、古いしがらみからは解放されなければなりません。
 ここで言う古いしがらみとは、キリストを知る以前に自身を捉えて支配し、拘束していた価値観や思想のことを指し、ここから解放されて、キリストと共に歩む者と変えられて、全てのものから自由にされることを聖書箇所は推奨しています。
 聖書箇所ではキリストと関わりのない歩み、生活は空しいものであるということを示唆し、キリストの十字架と復活の力にあずかってキリストの平和の中に自身を置くことを推奨します。そうすると、平和に歩むことが出来ます。様々な過去のしがらみや拘束などから解放されて、キリストがご用意くださった平和(主の平安)の中で生かされることが出来るのだ、ということを伝えます。
 この新しい道筋へと入るためには、主イエスを受け入れればよい、主イエスの十字架と復活による神の救いの計画を信じればよい、と聖書箇所は言います。そうすることにより、私たちは確かな土台の上に、兄弟姉妹と神の家族として建てられ、キリストにおける聖なる神殿とされる、と述べます。

※ビデオ撮影は失敗しました。メモリをクリアして慎重に準備して録画に備えているのですが、どういう理由かわかりませんが、途中で止まってしまいます。丸5年使用した機器ですが、そろそろ更新時期でしょうか。他の機能は全く問題なく、バッテリーの持ちも良く、使いやすいのですが、不具合の理由があるのでしょう。もう少し現行機器でトライしてみます。お許しください。

※礼拝後、野外交流会が行われました。教会員の子弟と幼稚園の先生方が集まってくださり、盛会になりました。多くの教会員子弟の方と交流が出来て幸いでした。皆さん、教会に繋がってくださると良いな、と思い祈っています。

24/06/23礼拝説教

2024-06-23 18:43:29 | 説教要旨
24/06/23(日)礼拝説教
旧約創世記6:5-22、新約ルカ福音書17:20-37
「神の国の到来」

 主イエスのあら探しをするファリサイ派は「神の国にはいつ来るのか」と尋ねたので主イエスは「見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とファリサイ派に答えます。
 これは主イエスが説明する「神の国」をファリサイ派は目の前にあっても見えない、ということを言っていると思われます。
 ファリサイ派は聖書を研究し、律法を研究し、それを独自解釈し、それを忠実に守ろうとするという点からすれば、非常にまじめな信仰者ということが言えるのだと思います。実際、人々から信仰の指導者として尊敬され、その言動は重いものとして受け止められています。
 しかし、他方で、この時代のファイリサイ派の一部は、このように人々から持ち上げられることを長い間経験している間に、おかしなエリート主義が芽生えていたのは事実なのでしょう。その結果、自分はなんでも分かる、何でも見極められる、というような奢りに似た感情が支配するようになっていたのかもしれません。主イエスは、有名なヨハネ9:41「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」ということばをファリサイ派に向けて言われました。
 見えると言い張る所に罪がある。
 そのようなことからすれば、ファリサイ派の一部の者も、神の国がいついつどこどこに顕れるなどという虚言を言う者があったのかもしれません。
 神の国は主イエスがこの世にもたらそうとする神の国の具現です。
 それは段階を踏んで実現可能なのですが、律法主義という自分たちの価値観に凝り固まったファリサイ派、何でも分かる、何でも見えると言い張るファリサイ派には、目の前に神の国が到来してもそれを神の国と認識することが出来ないだろうということを主イエスは言うのです。
 厳しいファリサイ派批判です。

 弟子達には、人々が「あそこだ」「ここだ」と言っても信用せず、動かずにいるようにと諭します。
 その時には、天の神の許に戻られた主イエスが再び現れる、故に、それを待ちなさいということを教えます。

 しかし、その前にはノアの時代にあったように、人々が堕落することが起こると聖書個所では言います。
 ノアの時代、神の目に悪と映ることを行う者ばかりが増えたため、唯一正しいノアの家族以外を神左派は滅ぼそうとされたのです。
 洪水を起こし、ノアの家族と、すべて命あるもの、すべて肉なるものから一つ害ずつ箱船に入れて洪水の災いから逃れさせるようにして、神様は、堕落した人類を滅ぼされた歴史があります。

 しかし、終末時には、ノアの時代と同じような人類の堕落が起こると言われます。その時、堕落した人々はノアの洪水の時と同じように滅ぼされるのでしょう。
 さらにソドムが罪を犯し神の怒りに触れて天から硫黄を落とされて滅ぼされてしまった時のことが事例に出されます。
 ソドムとゴモラのように人々は乱れる。そして乱れた人々は滅ぼされる。そのようなことがある。
 しかし、それが終わったからといって、後を振り向くなと言われていたのに後を振り向いて塩の柱にされてしまったロトの妻のように、神様の言いつけに背いて、主イエスが再び到来する前に不用意に出て行ってはならない、と示します。
 神の国の到来は神の救いの計画の完成ですが、その前に、神の審判が行われる。その審判に当たらないように、神の御心に従った備えをなすことが大切であると主イエスは言われます。

 さて、終末のことを聴くと、少し怖いですし、同時に身を引き締めなければ、と思います。
 しかし、一般の日本人にとっては、終末の聖書の記述は恐ろしいものとして映ります。
 同時に、この恐ろしさを利用する、カルト組織のような存在が生じる要因にもなります。
 カルト組織は、現代の社会が、如何に聖書に記される終末時と同じ状況なのかを語り信じさせるのです。
 疫病が絶えない。新型コロナウイルス感染症に代表されるように、現代では治療が難しくなってきた病が流行することが多くなって来ています。
 戦乱が絶えない。ロシアのウクライナ侵攻によって、再び世界はかつての冷戦時代のような世界を大きく二分した緊張関係の中に入れられるような予感があります。
 またハマスとイスラエルの戦闘だけではなく、世界中に宗教や政治などにまつわる、あるいは、人間の欲望、覇権争いに端を発した戦闘が頻発しています。
 そして、カルトのような、終末待望の組織が台頭してきています。
 そこに、聖書にこう書いてあるが、その通りでしょう、と言う人々が、人心を惑わし、人々を不幸にする事態が多々発生しています。
 日本を見れば、政治と金の癒着の問題があり、そのような問題がもう長い間継続しているにもかかわらず、抜本的な見直しがなされる兆しが見えず、そのようなことに失望した人々が多々あります。
 また地震という天災が相次いで起こり、常に、人々はこの天災の恐怖と向き合わなければなりません。
 テクノロジーは発展してきましたが、それらを利用する詐欺被害などがあとをたちません。
 そのようなことから、早くこのような時代が終わってしまえば良い、という考えに到達する人々も少なくないのです。

 そのような中で、私たちは、一人一人が、この時代の中をどのように生きるのか、ということに聖書を通して、信仰を通して強く示唆を頂き、それを自身の生き様に現していかなければならないのでしょう。そうしなければ、聖書を通して様々なことを示されている私たちのアイデンティティーが無くなってしまうからです。
 神の御旨にし難い歩みたいものです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)
※この日の動画は10:45で切れてしまいます。スマホの調子が悪いのだと思います。撮れたり撮れなかったり、と、買い替えを検討しなければならないのかもしれません。そのため、説教全文を掲載しました。ご参照下さい。

24/06/16礼拝説教

2024-06-16 16:00:27 | 説教要旨
24/06/16(日)召天者記念日礼拝説教
旧約イザヤ書25:6-9、新約ヨハネ福音書11:32-44
「信じるなら神の栄光がみられる」

 主イエスはエルサレム近郊で活動中でした。
 その中、かねて知り合った姉妹マルタとマリアから兄弟ラザロが病気であるとの連絡が入りました。
 このため、弟子達はラザロの許へ急行しようとします。しかし、主イエスは何らかの意図があるのか、その時滞在されている場所に二日間滞在され、あえて寄り道をしながら時間をかけてラザロの許へと行こうとされます。そして、弟子達にはラザロは眠っているのだから起こしに行くのだ、と言われていました。

 さて、主イエス一行がマルタとマリアとラザロが生活している村、ベタニアに着くと、ラザロは墓に入れられてから四日も経過していました。
 主イエスがのんびり歩んでいる間に亡くなったということです。
 弟子たちは言葉には出しませんでしたが、知らせが来てすぐに行動すれば、死ぬ前にラザロのもとに着いて、主イエスの力で癒すことが可能だったと思ったでしょう。
 すなわち、この段階では、弟子たちは、死んでしまったら、それで終わり、と思っていたのです。誰も、死んだ状態から復活することがあるなどということは考えていませんでした。
 死は神のみが司ることが赦される事柄であり、主イエスがいくら奇跡を起こしてきたからといって、死んだ状態の者に、主イエスの力が及ぶとは考えていなかったのです。

 主イエスが到着すると、表向きは、マルタもマリアも主イエスが来られたことに感謝します。
 しかし、ラザロは死んでしまって今更どうにもならない、という想いを抱いていました。
 マルタに呼ばれたマリアも同じ想いを抱いていたのでしょう。
 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉がそれを表すでしょう。
 そして、マリアも集まったユダヤ人も皆泣きました。
 ラザロを失って、悲しみから泣くしかなかったのです。

 しかし、主イエスはこのように皆が泣くだけなのを見て、心に憤りを覚えられたと聖書には記されています。
 そして、主イエスは言われます「どこに葬ったのか」と。
 彼らは「主よ来てご覧ください」と言い、主イエスを案内します。
 すると主イエスは涙を流されます。

 この主イエスの涙は、マルタやマリア、集まったユダヤ人達が流した涙の意味とは違うのだと思われます。
 人々が、よみがえり、すなわち復活のことを信じていなかったことへの悲しみと言えるのでしょう。
 このあたり聖書にはコメントはありませんが、人々の悲しみを受けてそれに同情するお気持ちはお持ちだったと思われます。しかし、単に同乗して悲しむということは神の子主イエスにはあり得ないはずです。なぜなら神と等しい力を持たれる主イエスは、神と等しいことを行えるわけです。
 ですから、そこから推測すれば、人々が不理解なことを悲しんだということになるのでしょう。

 しかし人々は誤解します。ラザロをどれだけ愛していたか、だから涙を流されるのだ。と受け取ります。また一部の心ない人は、盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようには出来なかった、と受け取りました。

 そのような中で主イエスはマリアにラザロを葬った場所を聞き、そこに向かい、墓を塞ぐ石を取り除かせました。
 人々は、これを見て不思議に思いましたが、盲人の目を開けた人でも、ラザロが死なないようには出来なかった、と考えていました。故に主イエスの行動の意味がわからなかったのです。

 主イエスは心に怒りを覚えられながら、天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです」と言われてから「ラザロ、出て来なさい」と言われました。
 すると死んでいた人が布に包まれたまま出てきました。
 死んで四日経ったラザロが蘇ったのです。
 主イエスは冷静に覆われた布をほどいてやって行かせなさい、と言われます。
 人々はこれを見て、主イエスを信じ、復活を信じたのです。

 本日の聖書箇所では大きく二つのことを言いたかったのでしょう。
 主イエスは事あるごとに弟子たちに、自分は十字架に掛かり三日目に復活する、ということを教えておられましたが、弟子たちは理解していませんでした。しかし、このラザロの復活を目の当たりにして弟子たちは主イエスの言われることは事実だと受け入れざるを得なかったのです。復活はある。復活は起こる。主イエスは言われているように、十字架に掛かり復活される。これは神の御個であるゆえに起こり得ることである、ということを主イエスは示し、弟子たちは理解したのです。

 二つ目は、神の前では死が人の生の終わり、というわけではない、ということ。
 人は、死んでも神の力によって蘇えらされる可能性があるし、何より、神の前では、死は人の生の終わりではない、ということ。
 これまで人々は復活と言う事を旧約の記述などからおぼろげに理解はしていました。
 しかし、完全には信じていなかったのでしょう。
 しかし、今、それがあることが分かった。これにより、私たちの生は死で終わるわけではない。
 死んだら終わり、ということにはならない。
 所以、生き方、どのように生きるか、ということについて考え直さなければならない、ということを示すのです。

※録画を忘れてしまいました。召天者記念日で礼拝堂いっぱいの人を前にして緊張していたのがあるのだと思います。録画のことがすっかり頭から抜け落ちていました。代わりに全文掲載します。

24/06/09礼拝説教

2024-06-09 18:30:20 | 説教要旨
24/06/09(日)礼拝説教
旧約レビ記13:2-13、新約ルカ福音書17:11-19
「清められたサマリア人」

 聖書で重い皮膚病と記される個所は、以前はらい病と記されていました。太古では医療技術が進んでいませんでしたので、重い皮膚病もらい病も一緒くたに扱われていたのです。
 らい病はらい菌による感染による慢性病ですが、感染力が非常に低く、一般の生活をしていれば感染することはまずありませんし、現代では治療薬もあります。
 しかし、人は見た眼で判断してしまいます。故に見た目が病と分かるらい病や重い皮膚病の患者は律法でも隔離しなさいとされていました。しかし、経過観察をして、回復したことが分かれば、隔離から解放しなさい、と定めていました。
 しかし、現代に至るまで、重い皮膚病特にらい病は非道な差別を受けることになりました。
 主イエスは、あえてそのような差別を受ける人々が隔離されていた村に立ち寄ったのでしょう。その時、10名の人が主イエスを出迎え、感染を心配してか遠くに立ち止まったまま、声を張り上げて「わたしたちを憐れんでください」と申し出ました。
 これに対して主イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。これは病から回復していることを律法に従って祭司にみてもらい、清くなったという証明をもらい一般の生活に復帰しなさい、ということです。
 それで人々は祭司のところに急ぎましたが、一人だけ、神を讃美しながら戻ってきて、主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。
 サマリア人は元は同じユダヤ人でしたが、長い間に元々地に住んでいた人々と混血して、さらに、ユダヤ教の一部だけが残るという歴史的経緯があり、ユダヤ人はサマリア人は不信仰との烙印を押して差別していました。
 しかし、そのサマリア人が神を讃美しながら主イエスの許に来てひれ伏したのです。ここに信仰があるのです。
 信仰は人々の偏見や差別などは関係なく宿ることが示されるのです。

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24/06/02礼拝説教

2024-06-02 15:49:38 | 説教要旨
24/06/02(日)礼拝説教
旧約レビ記19:17、新約ルカ福音書17:1-10
「つまずきは避けられない」

 聖書箇所は、前週の、この世では贅の限りを尽くした金持ちでしたが、モーセと預言者の言葉に耳を傾けなかった者が、死後天の国に入るのではなく、陰府でさいなまれる、ということが記されていました。
 主イエスは弟子たちに「つまずきは避けられない」と言われます。これは人間である限り避けられないということです。神によって土から創造された者の限界です。しかし、他者をつまずかせる者は不幸である、ということをはっきりと述べます。特に、この世で小さくされている貧しい人々、病人、障碍者、子どもなどの社会的弱者とされる者を躓かせるものへの警告はきわめて厳しいです。
 しかし、罪科に関わらず、悔い改めるならば、赦してやりなさい、と主イエスは勧めます、それは一日に七回あなたに罪を犯しても、七回「悔い改めます」と言ってくるなら赦してやりなさい、というものです。これは人の力だけで出来るのではなく、神との関わりなしには難しいことです。人はそれほど強くないのです故に弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と願うのです。
 しかしそのような弟子たちに「もしあなたがたにからし種一粒程の信仰があれば」との有名な言葉を弟子達に与えます。からし種は非常に小さいです。しかしその小さな種が大きな木を作り出す。神から与えられている信仰とはそのように可能性の非常に大きなものであることが主イエスによって示されるのです。

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24/05/26礼拝説教

2024-05-26 15:59:40 | 説教要旨
24/05/26(日)礼拝説教
旧約ダニエル6:1-29、新約ルカ福音書16:19-31
「悪しき行いをなす者の末路」

 旧約のダニエル書は、バビロン捕囚の時代状況を前提に記されたように見えますが、書かれた時代は弾圧を加える王の名などを記して見つかれば即死罪という暗黒の時代でしたので、そのような偽装をしてダニエル書は成立しています。
 具体的には紀元前二世紀前後のシリアの王で、自らを現人神として崇めよと命じた王、アンティオコス・エピファネスIV世前後の時代を描いたものと捉えられます。

 聖書箇所でダニエルは敬虔なイスラエルとして描かれていますが、捕虜の身でありながら王に重用されていました。しかしこれを面白く思わない家臣によって罠に掛けられ、獅子のいる洞窟に閉じ込められることになります。しかし神の守りにより無傷で洞窟を出た結果、王は驚き回心し、ダニエルを陥れようとした者たちが逆に罰せられ一族もろとも獅子のいる洞窟に投げ入れられ処刑され、ダニエルの潔白が証明されるという物語です。

 しかし、先に述べた通り、これは言いたいことをそのまま書くと弾圧されてしまう暗黒の時代に記されたものです。それゆえに、分かる人には分かる、というように偽装して描かれています。これは紀元前2世紀頃のイスラエルにおいて、支配者である王は自身以外を神とする者を厳しく罰し、その刑罰の一つが獅子のいる洞窟へ投げ込まれて殺されるというものであったことを指しています。そして、その者たちが、次々に殺されていく。そのような悲しみとむなしさを描いています。そして、あの敬虔な者たちは、あの悪魔のような王のせいで犬死にしたのではなく、忠実な信仰者として神に守られながら神の許へ向かったのだ、ということを示すものです。
 神に忠実であったものは、それで終わるわけがない、という信仰がその背景にあるのです。
 それがこのダニエル書や新約のヨハネの黙示録にみられるように、一見すると別の時代を描いているかのように見える文書の背後に、真実を暗号のように、見る人が見ればわかるように記した文書(黙示文学)である、ということです。

 神に忠実で敬虔な者たちが次々と弾圧され殺されてゆく。その中で人々は何故ですか、と神様に問います。しかし答えはありません。神様は黙しておられるかのように見えるわけです。しかし神様は一見して黙しておられるような中で何かを示されようとしている、と敬虔な人々は考えたのです。そのような人々の信仰によって描かれたのがダニエル書であり、ダニエル書の中に記される死生観なのです。

 これに対して本日の新約のルカですが、ユダヤにあって信仰よりも経済力を求めて贅沢の限りを尽くし、神への信仰も、奉仕も、施しも行わなかった者が死んだ後どうなるかが描かれます。
 金持ちの者は、この世においては贅沢の限りを尽くしました。
 その金持ちの家の門前に、ラザロを言うできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる者で腹を満たしたいと思っていました。犬もやってきてラザロの出来物をなめたと記されていますので、本当に貧しく厳しい生活を余儀なくされていたのでしょう。
 やがてラザロは死に、金持ちも死にました。
 すると生前、病で貧しく厳しい生活を余儀なくされたラザロは、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。
 しかし、金持ちだったものは陰府でさいなまれながらの苦しい歩みを与えられました。

 この差はどこから来るのでしょうか。
 ダニエル書では信仰故に、この世で弾圧を受けた者が、死後の世界では神と共にある生を送ることが出来るに違いない、という信仰的な確信を持っていました。
 しかし、ラザロについては、信仰の有無については記されていません。故に信仰的であったゆえにアブラハムと宴席についたわけではないようです。
 逆に金持ちだった者は、生きている間は良いものをもらっていた。しかし、門前で苦しみ悶えていたラザロを見て見ぬふりをした、ということが責められているのでしょう。ラザロを助けることが出来たのにそれをしなかった、というところに神様は視線を向けられたのでしょう。

 神様との対話で自身の至らなかったところを理解した金持ちだったものは、ラザロを家に遣わして生きている兄弟五人に、死後自分と同じような陰府の苦しみをしないように伝えて欲しいと懇願します。
 しかし、アブラハムが答えます。聖者には、モーセと預言者がいる。すなわち聖書があり、掟がある。それを守っていれば、金持ちだった者のような末路はたどらない、と示します。
 そして、さらに金持ちだった者は食い下がりますが、アブラハムは、生前、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ使者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう、と厳しく示します。それは復活の主イエスのみ言でさえ聞かないということです。

 ラザロは、病故に苦しみ悶えるだけの人生でした。
 金持ちは、余裕があり、その気になれば信仰を持ち、信仰故に自らの富を神様が求められるように用いることが出来たのでしょう。
 しかし、それをしなかった。
 贅沢を行い、門前にいた病で苦しみ悶えているラザロを見捨てた。
 そのことの故に、陰府でさいなまれる道へと落とされたのです。

 そして、そのようにならないように、生きている親族に伝えて欲しいという願いは、聖者にはモーセと預言者がいる、という言葉によって、否定されます。
 生きている内に、モーセと預言者の言葉に従う、すなわち神のことばとしての聖書に従い、主イエスの言葉に従うならば、その限りではないが、そのチャンスがあるのに生かすことが出来なければ陰府に下ることになる、ということを言います。
 そして、そのような者には、十字架の後復活された主イエスの言葉も届かないだろう、ということを神様は示されるのです。

 許されるならば、ダニエル書に記される信仰者のような強い信仰によって立てられるように、祈り求めましょう。

※ビデオはまた調子が悪くて撮影記録が出来ませんでした。困りました。

24/05/19礼拝説教

2024-05-20 18:50:40 | 説教要旨
24/05/19(日)礼拝説教
旧約詩104編1-4、新約Iコリント12:1-11
「霊の賜物」

 本日はイースターから50日目のペンテコステ、聖霊降臨日です。この日に弟子たちが集まって祈っていると、天から炎の舌のようなものが下ってきて、聖霊が下ったとされています。この聖霊は、ヨハネ福音書では、主イエスが天の神の許へ挙げられた後、私たちを助ける弁護者として共にあってくれると約束してくださったものです。
 本日の聖書箇所では、初代の教会で、聖霊がどのように捉えられていたかということが分かります。
 異教徒の法廷で信仰の有無を尋ねられた時、信仰の弱い者は迫害を恐れて「イエスは神から見捨てられよ」「呪われよイエス」と語っていたことが記されます。これは誰も聖霊によらなければ「イエスは主なり」と言えないということと対に記されます。故に、聖霊に満たされた者は、たとえ迫害にあっても、主イエスを否定しない、ということを言っています。すでにキリスト教弾圧があったのでしょう。そのような中、聖霊の守りを求める祈りがなされていたことを思わせます。弾圧の中にあっては弁護者としての聖霊に全てを委ねて、主イエスを呪うのではなく、主と告白できるように聖霊の守りを祈り、聖霊の導きに従ってその通りに告白できるように訓練することが必要であると聖書箇所前半では言うのです。
 しかし信徒には賜物、勤め、働き、がありますが、それぞれ霊が、主が、神が与えられるものです。それは信徒全体に等しく与えられるものです。しかし、ある人には同じ霊によって信仰が、人には霊によってそれぞれ、病気を癒す力、奇跡を行う力、予言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力が与えられ、個々人が異なる力を持つようにされ、教会は多様性に満ちた様々な能力を与えられた者によって構成されていることを現します。このような多様性を認めて、人の集まりは、多にして一つ、一つにして多であることを受け止める必要があることを示します。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/05/12礼拝説教

2024-05-12 19:04:36 | 説教要旨
24/05/12(日)礼拝説教
旧約箴言16:18、新約ルカ福音書16:1-18
「不正な管理人の知恵」

 ある金持ちの管理人が主人の財産を無駄使いしていることを告げ口され会計の報告を求められます。
 するとこれまで不正を行っていた管理人は、自身は仕事を奪われ、そうなると文官で非力な自身は物乞いをするしかなくなってしまう、と悲嘆します。そのような中、管理人は、仕事を辞めさせられても自身を家に迎えてくれるような者を作れば良いと考え、主人の財産を使って色々な工作をします。
 主人に油100パトス借りがあるものには50パトス借りとさせ、小麦100コロスの者には80コロスと証文を書き換えさせた。
 これは管理人が主人の財産を不正に操作する好ましくない行為なのですが、主人は管理人の抜け目ないやり方を褒めたと聖書には記されます。
 この世的な価値観からすれば、管理人の行いは道義的に道徳的に否定されるべきことです。しかし、主人である神様の価値観からするとそれは異なって見えるようです。
 着目すべきは管理人の「抜け目のなさ」です。これは神の国に属する者たちが、この世の人が世の利益のために抜け目なく賢くふるまうように、それ以上に神の国のために賢く振る舞うべきである、という使信となります。
 金持ちとラザロの譬えでは金持ちはこの世で友を作らなかったために永遠の住まいに迎え入れてもらえませんでした。それよりも、この世の富を使って、それが不正にまみれて得た富であっても(不正をしたから金持ちになったということを暗に示している)、友を作り、神の目に留まることを行った方が良い、という意味です。
 大変分かりにくい譬えですが、聖書の内容は、分かりやすいところよりも分かりにくいものの方が重要と言われる神学者もいらっしゃいます。この分かりにくい譬えの意味を追い求めたいと思います。

※ビデオの撮影に失敗しました。一時期調子が悪く、撮影が失敗することが多かったのですが、アプリを変えてから調子が良かったのですが、二階連続で撮影が途中で止まってしまうことになりました。何が悪いのか分かりません。スマートフォン自身が長子が悪いのでしょうか。もう少し調べてみます。

24/05/05

2024-05-05 16:19:12 | 説教要旨
24/05/05(日)礼拝説教
旧約申命記21:15-17、新約ルカ福音書15:11-32
「放蕩息子の帰還」

 二人の兄弟がいて、弟が父の生前に財産分与を求めたところから物語ははじまります。財産分与は長子は二倍と律法に定められていますので、2/3が長子、1/3が次男へということになります。しかし、生前分与を受けた弟は財産をすべて売却し遠い国に行って放蕩の限りを尽くすことになります。この弟の行為は父に恥をこうむらせることになります。すなわち、弟は放蕩を尽くしたことと、父に恥をこうむらせたことの二つの罪を犯したことになります。
 しかし、弟は全財産を使い果たして食べるものにも困り、ある人のところに身を寄せ、豚の世話をしたとされます。場所がイスラエルであれば豚は食べられませんから飼いません。故に、イスラエルではない、遠く離れた場所ということになるのでしょう。
 そこで弟はイスラエルでは汚れた動物として犠牲にも食用にも許されない豚に触れながら世話をして、豚の食べるいなご豆を食べたいというほどに空腹となります。弟はイスラエルとして禁を犯し、どん底に追い込まれたことをここに来てやっと理解するのです。そして、ここで悔い改め、本心に立ち返り、父を想い、父のもとに帰ります。
 弟を見つけた父は駆け寄り抱きしめ接吻します。弟は神と父に深く誤り、懺悔し、自身は息子としての資格がないことを自覚していることを告げます。
 しかし、そのような弟を父は子として迎え、肥えた小羊を屠ります。大量の食糧です、食べきるためには大勢を招く必要があります。父は失われた者が、見つかった。死んでいたのに生き返った、として弟の帰還を心から祝うのです。

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※ビデオが15分で切れていて、最後の部分が飛んでいます。申し訳ありません。

24/04/28

2024-04-28 16:09:06 | 説教要旨
24/04/28(日)礼拝説教
旧約イザヤ書49:22-23、新約ルカ福音書15:1-10
「一匹の羊の為に」

 聖書箇所は徴税人や罪人が話を聞こうと主イエスに近寄ってきたというところから始まります。徴税人は、ローマ帝国という異邦人たちのために同胞から税を奪い取るという意味で、ユダヤ人たちからは裏切り者として見られ、さげすんで見られました。罪びとというのは、徴税人と同じように、ユダヤ人基準からすれば神から見捨てられたかのような存在とされている人々のことを指すのでしょう。
 これをファリサイ派や律法学者は「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたとされます。不平を言いだしたのではなく、ユダヤ人の常識から主イエスがかけ離れたことを行われることに怒りを覚えながら、これまでの経緯からその怒りを表出することが出来ずに不満を持った、ということです。
 そこで主イエスは有名な羊飼いが九十九匹の羊を置いたまま、見失った一匹の羊を探し、見つけて喜ぶ、というたとえ話をします。
 主イエスにとって、この百匹の羊は、自らの「家族」を意味しています。すなわち、自らが牧して、喜びも悲しみもすべて分かち合う共同体を形成する者たちを指します。そして、その中の一人がもしも迷い出たら、それが罪を犯したということであれ、探し出して回心を求め、赦しを与え、再び共に歩もうという決意を新たに、その恵みに感謝するのではないか、ということを言います。失った一人を見出すことは、主イエスにとってそれだけ大きな喜びであり涙すべきこととして捉えているのです。その一匹は特にファリサイ派や律法学者が蔑んでいる人々(罪人)を指しています。

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24/04/21礼拝説教

2024-04-21 15:42:10 | 説教要旨
24/04/21(日)礼拝説教
旧約申命記33:8-11、新約ルカ福音書14:25-35
「弟子になる決断」

 主イエス御自ら語られる、主イエスの弟子となるための条件です。それは人にとって大変厳しい決断を有するものです。
 第一の条件は、一切の家族の絆との決別。父母、兄弟は言うに及ばず、妻と子ども、さらに自分自身の命であろうが、これを憎む、捨てる覚悟がなければならないと言われます。
 第二に「自分の十字架」を背負ってついて来るものでなければならないといわれます。
 第三に、自分の持ち物を一切捨てなければならない、と言われます。
 現代とは異なり、まだまだ経済成長が無い経済的に貧しい時代でした。故に家族や親族の絆が強く、協力し合って生きなければならない時代です。そのような絆を捨て去って主イエスに従うということは、その時代に生きる者にとっての常識から言えば「あり得ない」ことです。しかし、主イエスに従う、すなわち神に従い、神の求められる価値観に従うためには、これまで身にまとっていたこの世の価値観を捨て去らなければなりません。故に、その第一歩として絆を捨て去りなさいと言っています。
 「自分の十字架を背負う」とは、自らを捉ええなおし、悔い改めと懺悔の歩みをなさなければならないことを言うのでしょう。
 そして自身の持ち物を一切捨てる。経済的に発展しない時代故に、所有物は少なく故に捨てがたいでしょう。そのような想いを振り切って主イエスの弟子となることを選択する。
 主イエスはこのような厳しい条件を主イエス一行に追従する群衆に突きつけ、中途半端な決意が失敗や敗北に至るであろうことを、二つの譬えを用いて教えるのです。

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24/04/14礼拝説教

2024-04-14 18:26:43 | 説教要旨
24/04/14(日)礼拝説教
旧約箴言25:6-7、新約ルカ福音書14:7-24
「神の国の常識」

 聖書箇所は宴会に招待された場合、上席を好む人がいることへの非難に集中しています。11節にあるように「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主イエスは言われます。これは人間社会の価値観と全く逆です。主イエスが言われているのは神の前での私たちの在り方に他なりません。この世では富を持ち権力を持つ者たちが肩で風を切って歩き、貧しいものは社会の片隅で隠れるように暮らさなければなりません。しかし、これは富の一極集中が起こっている故のことであり、このような社会状況を是正する必要が、本来であれば社会で実権を持つものが行わなければならないのです。それは富を持つ者であり権力を持つ者です。しかし実際は、富を持ち権力を持つ者は自らのそれを誇ることにしか興味がない、という現実を主イエスは言われます。このような状況はダメであると主イエスは言われ、天の国に入るのはそのような高ぶる者ではない、と主イエスは言われるのです。
 そして実際神の国での祝宴で招かれるのは、いろいろな理由をつけてこの世の諸事に関わり利益を貪ることに執着して神へ振り向きもしない者ではなく、貧しい者、体の不自由な者、目の見えない者、足の不自由なものが神のもとに集められる。この世と神の国での価値観は全く逆であること。この世の常識は天の国では全く受け入れられず、神に疎まれるものである、ということがはっきりと記されます。
 このように主イエスによって権力者は、天の国での常識を告げられたのち、どうしたのでしょうか。それはこの常識を知らせた主イエスを抹殺して亡き者にしようとした。すなわち神の言をなきものにした、ということなのです。

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24/04/07礼拝説教

2024-04-07 16:38:56 | 説教要旨
24/04/07(日)礼拝説教
旧約申命記22:1-4、新約ルカ福音書14:1-6
「安息日問答」

 主イエスはファリサイ派の議員に食事に招かれました。ユダヤの食事は、通常は二食で朝と昼遅くの二食で昼の食事が主たる食事でした。しかし安息日には朝と昼前と礼拝後に行われ、礼拝後の食事は客を招いてもたれることが多かったようです。
 ファリサイ派が安息日に主イエスを招いたのは、主イエスが安息日にファリサイ派が考える何らかの律法違反をしないかということを監視するためであったと思われます。
 そのようなとき、主イエスの前に水腫を患っている人がいた、と聖書にしるされます。ファリサイ派の悪意からすれば、主イエスがこの水腫の人を癒して安息日の律法を違反する様子を見て告発しようとする悪意があったことは明白です。
 しかし、主イエスは人々に「安息日に病気を癒すことは律法で許されているのか、いないのか」と問います。するとファリサイ派は「黙っていた」と記されます。これは良い意味での沈黙なのではなく、答えられなかったということでしょう。ファリサイ派が律法の上に解釈を加えたものでは、かなり狭い範囲でしか行動できないのです。しかし旧約での本物の律法では緊急事態のことも記されています。故に、沈黙を守るファリサイ派を前に主イエスはあえて安息日に、水腫の病人の手をとり(伝染することをいとわず)病気を癒されてお返しになられました。
 主イエスはファリサイ派に、あなたたちの息子や牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げない者があるだろうか、と言い、ファリサイ派の律法主義が行き過ぎていること。また、悪意をもって主イエスを食事に招いたことを暗に批判されます。悔い改めを迫っていたのでしょう。

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