日本キリスト教会小樽シオン教会

北海道小樽市に1892年2月に設立された長老派の日本キリスト教会北海道中会に属する小樽シオン教会です。

日本キリスト教会 小樽シオン教会 のページです。

2099-12-31 00:00:00 | トップ

■小樽シオン教会の歴史

伝道開始……1892年 2月11日
教会建設……1903年3月20日
現会堂献堂…1950年10月1日

 1892年2月、米国長老派ミッションの援助を受け、栗原宗治伝道師が派遣され、手宮町石山下の商店2階を借り受け講義所を開設。翌年、静岡より光小太郎牧師が着任。最初の会堂を1897年、稲穂町西8丁目に建築、定まった場所での伝道態勢が出来た。北海道中会が設立された1903年には、独立教会として日本基督教会に加わった。
 教会早創の時代24年にわたって活躍した光牧師健康不調のために辞任。渡辺重右衞門(在任1年)、西健二(在任4年)、村岸清彦(在任8年)牧師らが奉仕の後、1931年近藤治義牧師着任。満州事変に始まる日中15年戦争、そして1941年からの太平洋戦争という困難な時期を経、戦後のキリスト教ブーム時代、経済成長による繁栄の時代など、全く異なる社会状況下、困難な中にも一貫して神の言葉を語り続ける教会の姿勢がそこにはあった。近藤牧師は戦後の日本基督教団からの離脱、新日本基督教会結成発足に積極的に関わり、北海道中会を支え、かつ個人誌「ことば」による文書伝道と教会形成に忠実に仕えられた。1976年には、秦利器牧師を迎え、御言葉に忠実に聞く教会として成長した。日曜学校校舎建築、幼稚園園舎新築、1992年の教会伝道開始百年記念行事など、転機の時代内外の整備に力を注がれた秦牧師を苫小牧教会へ送り出した。
 1996年には、北村一幸牧師を旭川教会から迎え、第2世紀が始まった。教会併設のロース幼稚園創立百年の年、1997年、不思議な神の計らいにより、創立者ミス クララ・ロースの出身教会米国東部エルマイラ第1長老教会との関係が開け、その交わりが今日も継続されている。2002年小樽シオン教会は、伝道開始110年を記念して、会堂前に木製十字架を建設し、人々の罪の贖いと復活の希望を満たす福音の知らせを改めて高く掲げ続けている。2017年は教会伝道開始125年、併設幼稚園は創立120年の年であり、各々の歴史の重みを覚える年となった。 2019年4月から髙田昌和牧師が赴任した。

■集会の案内

聖日礼拝……毎週日曜日 午前10時30分
日曜学校……毎週日曜日 午前9時15分
祈り会………毎週水曜日 午後7時
木曜祈り会…毎月第一木曜日 午前10時30分
婦人会………毎月第三木曜日 午後1時
銭函桂岡集会 毎月第二木曜日 午後1時

■所在地 〒047-0033 小樽市富岡1-2-1 電話0134-32-7758

小樽シオン教会のYoutube のチャンネル(クリックするとページに飛びます)
聖日礼拝の説教をスマホで録画したものをアップしています。


24/10/20礼拝説教

2024-10-20 16:15:03 | 説教要旨
24/10/20(日)礼拝説教
旧約イザヤ24:17-20、新約ルカ福音書21:29-38
「人の子の前に立つ」

 イチジクや他の木々が緑を付け始めると夏が近づいたことが分かります。これと同じように、8節以降に記された主イエスが言われる患難=歴史的事件や天変地異を見たなら、神の国が近づいていると悟りなさい、と主イエスは言われます、しかしその時期は神にしか分かりません。しかし、主イエスはすべてのことが起こるまで、この時代は決して滅びない、天地は滅びるが、主イエスの言葉は決して滅びない、と言われます。故に、主イエスが与えて下さった言葉を胸に刻み、耐え忍びながら待ち続ける必要があることを説かれます。
 しかし、その時は突然到来するのでしょう。主イエスは、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と警告します。そして、その時が自身の救いの時になるように(人の子の前に建てるように)、「いつも目を覚まして祈りなさい」と勧告します。
 主イエスが言われるように、またパウロ書簡にみられるように、終末が近いと宣伝する者に注意し、終末がまだ来ないことでこの世的生に埋没しないように、心して常に備えていなければならない、と説かれるのです。
 終末はいつ来るかはわかりませんが、必ず来ます。それまでの生をどう生きるかはキリスト者のみならず、全ての民のすべての人々の課題なのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/10/13礼拝説教

2024-10-13 18:45:33 | 説教要旨
24/10/13(日)礼拝説教
旧約イザヤ13:6-10、新約ルカ福音書21:20-28
「解放の時」

 聖書箇所は、ルカと同じく終末について記されるマルコ13章、マタイ24章で、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、山に逃げなさい」と言われる個所の並行です。マタイとマルコでいう憎むべき破壊者というのは、紀元前二世紀にユダヤ人信仰者を徹底的に弾圧した自らを現人神と称するシリア王アンディオコスIV世のことを指しているのだと思います。あのような信仰をないがしろにし、自らを神と崇めながら破壊行為を行うような者が、終末には登場し、人々を苦しめる、というのです。ルカは、これを一歩進めて、エルサレムが軍隊に囲まれる、と言います。これは紀元66~73年まで起こったユダヤ戦争のことをさし、この戦争でユダヤ人が決定的な敗北をローマ軍になして、エルサレムを破壊されてしまい、その後、マサダ要塞まで残れる者が逃れましたが、そこで全滅して、残るユダヤ人は国外退去させられてしまいます。このような具体的なエルサレム陥落をルカは知っており、これが終末の一つの形である、と捉えているのでしょう。
 そしてこのことにより、時代やユダヤ人から異邦人に移り、異邦人の長い時代に入ります。
 しかし、そのような時代は終わり、エルサレム陥落以上の患難がやってくる。聖書によれば、太陽と月と星に徴が現れるとされます。宇宙規模の患難がやってくるのです。
 人々は何が起こるかとおびえて、恐ろしさのあまり気を失うと聖書には記されます。
 しかし、そのような患難の最後に、「人の子」すなわちメシアである主イエスが雲に乗ってやってくるのを人々は見る、とされています。しかし、これは患難からの救いであり、人の子の到来は神の国の到来を意味し、救いの時が来たことを意味するのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/10/06礼拝説教

2024-10-06 16:29:23 | 説教要旨
24/10/06(日)礼拝説教
旧約エレミヤ29:4-9、新約ルカ福音書21:7-19
「偽りの預言」

 民衆は主イエスに問います「そのこと(終末)はいつ起こるのですか」と。それに先立ってどのようなしるしがあるのかと。主イエスは、偽キリストの出現、戦争、暴動、民族間・国家間の対立、地震、飢饉、疫病などの天変地異が起こるが、それらは終末そのものではない。世の終わりがすぐに来ることを示すものでもない。キリストの名を名乗る者が大勢現れ「わたしがメシアだ」と言って多くの人を惑わすが付いて行ってはならない。これらの現象の前に、弟子たちへの迫害、投獄、裁きがある。またイエスの名のために総督や王の前で裁きを受け、そこで福音の証をすることになる。そのような時には聖霊がいうべきことを与えて下さる。無学で一般人であるはずの者たちが、議員達エリートの前で大胆に語り、反対者が反論できない知恵の言葉を語る。さらに主イエスへの従順のために家族との対立や決別があることを予告する。
 それでも、終末はまだこない、と言う事を主イエスは言われるのです。すなわち、人が考えている程簡単に終末が来るわけではないことを示されるのです。
 しかし、その厳しい現実の中にあるキリスト者は、髪の毛一本もなくならない、と言われ神のお守りの中にあることを主イエスは言われます。故に忍耐によって、命をかちとり、終末に備えなさい、と主イエスは言われるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/09/29礼拝説教

2024-09-29 15:50:53 | 説教要旨
24/09/29(日)礼拝説教
旧約列王記下12:8-10、新約ルカ福音書21:1-6
「やもめの献金」

 聖書箇所直前は、律法学者がやもめが相談に来ると法外な金銭を要求した、という文脈に続いています。
 やもめとは、夫に先立たれた女性のことで、ユダヤ社会では女性の社会的地位が低かったため、十分に働く術は社会によって奪われ、貧しく節制した生活をすることを強いられる立場にありました。主イエスはやもめの女性の病を癒やすなど、やもめに対しての配慮を見せていますが、このような社会情勢に対しての反発ということがその行為の背後に見られるのです。
 神殿には13個のラッパ型のさい銭箱が置かれていました。主イエスはその一つの近くに陣取り、さい銭箱に献金を入れる人々を見ておられました。そして、金持ちが献金を入れるのを見た直後、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを主イエスは見られて、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われます。
 レプトン銅貨はデナリオン硬貨の1/128の価値があります。デナリオンを一日の労働者の単価、10000円とすると、レプトン銅貨は100円硬貨くらいの価値です。
 しかし、金持ちは有り余る財産の中からわずかを入れたのに対して、やもめは日々の苦しい生活の中から切り詰めて二枚のレプトン銅貨をねん出して献金したのです。
 金持ちの献金に対する姿勢と、やもめの献金に対する姿勢には大きな違いがあることが分かるのです。
 主イエスはそのことを指摘し、やもめの信仰を褒めるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/09/22礼拝説教

2024-09-22 15:17:34 | 説教要旨
24/09/22(日)礼拝説教
旧約詩110編1-3、新約ルカ福音書20:41-47
「ダビデの子」

 主イエスはダビデの子として当初民衆に受け入れられました。人々は歴史上最大の繁栄をイスラエルにもたらしたダビデ王を特別と考えていました。それゆえに、ダビデ王を特別視し、ダビデの末裔からメシアが登場すると思っていたのでしょう。
 しかし、主イエスはダビデの主の子ども。神の子です。詩110編の冒頭の表現からも明らかなように、ダビデには「主」がいて、その「主」にも「主」がいる。すなわち神がいて救い主・メシアがいてそしてダビデがいる。という立場の関係がはっきりと記されているのです。すなわち、主イエスは「ダビデの子」ではなく「ダビデの主」なのです。十字架が近づく中で主イエスはもはや自らを偽らずにはっきりと人々に示されるのです。

 続いて主イエスは民衆に律法学者に気をつけるように語ります。律法学者は長い衣を着て目立ちたがり、尊敬されることを期待し、求めます。広場で目上の者としてあいさつされることを好み、会堂では上席、宴会では上座に座らせられることを当たり前としています。しかし、貧しく苦しいやもめが律法の専門家として期待して律法学者に相談しているのに、法外な相談料を要求しやもめの財産を食い物にする。それは偽善である、と主エスははっきり示され、神がお嫌いになられることであることを示します。これは単に律法学者に対する警告だけではなく、歴史上の教会や信仰の指導者たちにも投げかけられる言葉です。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/09/15礼拝説教

2024-09-15 15:35:44 | 説教要旨
24/09/15(日)礼拝説教
旧約申命記24:5-10、新約ルカ福音書20:27-40
「復活」

 サドカイ派という名が、ダビデ・ソロモン時代の祭司ツァドクによるのか、「正義のひと=ツァアデキーム」によるのかは不明です。宗教的には保守的、現世的で、ギリシア文化に対して開放的で世俗的でした。マカベア戦争時代は復活を否定するため冷遇されましたが、その後のハスモン王朝が世俗化するにつれて精力を伸ばし、ヘロデ王朝の親ローマ政策とも迎合して、神殿を中心に宗教的には祭司職として強化されましたが、民衆の生活からは遊離していました。現実的・合理的・世俗的な一面思想は保守的で、成文化したモーセ律法のみを認め、ファリサイ派の重視する口伝律法を全面的に否定していた。その結果、復活・天使・霊・応報・節理なども否定し、この立場から主イエスに反対した。主イエスは彼らを「蝮の子らよ」と呼んでいます。
 このサドカイ派が、七人の兄弟がいて、長男が妻を迎えたが子が無く死に、次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子を残さないで死に、最後にその女も死んだ。すると復活の時、その女は誰の妻になるのか、と復活を信じてもいない者達は主イエスに質問します。この主張は申命記25:5-10の家名の存続の律法に起因します。
 これに対して、主イエスは復活の時には結婚関係は存続しない、と断言されます。死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々、とは、誰もかれもが復活するわけではないことをサドカイ派に示しています。モーセ五書には復活の教説はないが、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はそれぞれアブラハム、イサク、ヤコブと契約し、彼らの地上の時を超えて子孫を守護するとともに、新約時代には彼らを死後の命へと迎えると信じられています。
 これを聴いてサドカイ派の反応は記されませんが、律法学者の一部は「立派なお答えです」と主イエスを認めます。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/09/08礼拝説教

2024-09-08 18:40:05 | 説教要旨
24/09/08(日)礼拝説教
旧約申命記10:12-22、新約ルカ福音書20:20-26
「神のものは神に返しなさい」

 神殿清め、権威についての問答、ぶどう園と農夫のたとえ、といいところが無かった神殿に住まう祭司長と律法学者たちは、自分達に恥をかかせた主イエスを、なんとしてでも陥れ、ローマ総督に渡して裁きたい(殺したい)と願いました。
 主イエスは神殿の本体の機能を回復させ、権威は神に返し、神が私達に期待して待っている時にはそれに応えなければならないと、聖書に従い信仰生活をしていれば当たり前のことをしているだけなのに、神殿サイドの者はそれらにより恥をかかされたと反発するばかりなのです。聖書箇所でも、心の底では恨んでいるのに、口さきでは「真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」とおべっかを使います。神殿という人々の信仰のよりどころにありながら、人々の信仰の指導者としてはたしてふさわしいのかという動向を見せているのです。
 その中で彼らは「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか、かなっていないでしょうか」という質問を主イエスに行います。これまでの様子を見てきて、主イエスであれば、皇帝への税金に反発するだろうという見立てをもって主イエスを陥れようとしているのです。
 これに対して主イエスは有名な言葉で対応します。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」「皇帝のものです」というやりとりの後、「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられます。
 神のものは神にかえしなさいという部分が後半に来ているのは、前半の皇帝のものは皇帝に返しなさいという言葉の比重を軽くするもので、神の権威は皇帝の権威の上にあることを暗に示しながら、教会と国家について政教分離に通じる考え方をここで示され、問題を解決されるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/09/01礼拝説教

2024-09-01 16:05:07 | 説教要旨
24/09/01(日)礼拝説教
旧約イザヤ書8:14-15、新約ルカ福音書20:9-19
「愛する息子を送る主」

 主イエスは「ブドウ園と農夫」のたとえを民衆に話始められましたが、そこには主イエスに批判的な律法学者たちや祭司長たちが同席していました。話を聞いて律法学者たちは主イエスに手を出そうとしましたが民衆を恐れたのです。このたとえがこれからエルサレムで起ころうとしていることの予告なのです。
 たとえは、ある人がブドウ園を作り、これを農夫達に貸して長い旅に出たところからはじまります。これは神が預言者達を遣わしてイスラエルを救おうとした長い時代を指します。収穫の時になったので僕を遣わしましたが農夫たちはこの僕を袋叩きにして侮辱して何も持たせないで追い返しました。主人は収穫を期待していたのですが、なすすべもありません。結果的に加えて三度僕を送りましたが、全て同じでした。最後に自分の愛する息子であればたぶん敬ってくれるだろう、と送り出しました。しかし、農夫たちは、これは跡取りで殺してしまえば相続財産は自分達のものになるとブドウ園の外に放り出して殺してしまいました。僕が預言者を、息子が主イエスを表しています。これを聴いていた律法学者や祭司たちは、息子を殺した農夫が自分達にたとえられていることが分かったでしょう。
 その殺した農夫たちがどうなったか。主イエスは、主人はこの農夫達を殺し、ブドウ園を他の人達に与えるにちがいない、と語ります。民衆は「他の人」をローマと捉え、そのようなことがあってはなりませんと言いますが、主イエスは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩118編22)を引用し、エルサレムで拒絶された方を神は祝福したまう、ということを示します。すなわち、主イエスの十字架と復活を示されるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/08/25礼拝説教

2024-08-25 16:17:55 | 説教要旨
24/08/25(日)礼拝説教
旧約エレミヤ書7:1-11、新約ルカ福音書19:45-20:8
「神殿清め」

 主イエスの旅の目的地はエルサレムですが、そのエルサレムの中でどこを目指していたのかがはっきりと分かります。
 神殿は元来、神と神髄に向き合い祈る場所です。しかし、それを人々は歴史の中で犠牲を捧げる場、犠牲を持っていない者は神殿に特別に許可をもらった商人から買い取って捧げえる場。その後、神殿で行うことは、ありとあらゆることが神殿商人によって整えられるようになり、神殿は商売をする場なのか、神に祈る場なのかが分からないようになっていました。
 これは人間社会も同じで、腐敗した神殿と、律法主義を掲げる律法学者やファリサイ派の一部によって、形骸化した信仰生活が送られるようになってしまっていました。
 主イエスはこれらに喝を入れて改革するためにエルサレムにやってこられたのです。権力者たちに睨まれて理由をつけて命を狙われるにもかかわらず、主イエスは神の命を受ける故にそのようにしたのです。
 そして、その結果主イエスは、人々が神の怒りに触れて審判に遭うのではなく、神の愛に触れて、罪赦され、新しい歩みへと向かうことを求められたのです。
 権威についての問答は、なんとか主イエスの上げ足を取りたいと思ったもの達による行動ですが、主イエスから逆に洗礼者ヨハネのことについて尋ねられ、答えに窮してしまい、主イエスに策略を巡らせた者が引き下がる様子が描かれています。
 このようにエルサレムで行動を開始された主イエスを止めることは人間にはできなかったのです。神のご計画によって十字架の救いの経過が始動していることを示しています。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/08/18礼拝説教

2024-08-18 15:57:17 | 説教要旨
24/08/18(日)礼拝説教
旧約詩118編26-28、新約ルカ福音書19:28-44
「主がご入用なのです」

 主イエス一行はエルサレムまで約3kmのベタニアさらにベトファゲに近づきました。ここはオリーブ山の山麓でした。ここで主イエスは向こうの村に行って、まだ誰も乗ったことの無い子ろばが繋いであるのをほどいて引いてきなさい。もし誰かに「なぜほどくのか」と聞かれたら「主がお入り用なのです」と言いなさい、と命じます。使いに出された者たちが行くとその通りでした。「まだ誰も乗ったことの無い子ろばは、まだ軛を負ったことがなく、無傷の家畜は特別な祭儀のために用いられたという旧約の記録があります。ここでは救い主の到来を意味する特別な場面であり、この特別な役割を預言者ゼカリヤのことばにある子ロバに乗った主イエスがエルサレムに入るのです。
 人々は道に自分の服を敷きました。弟子の群れは自分たちが見た奇跡のことで喜び、高らかに神を讃美しました。
 ファリサイ派の人々が群衆の中から主イエスに向かって「先生、お弟子達を叱ってく下さい」と言います。ファリサイ派には、主イエスへの讃美が、神を冒涜するものにしか聞こえなかったのです。しかし主イエスはいわれます。「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」は44節のエルサレムの石を残らず崩してしまう、という主イエスがエルサレムを裁いた言葉と連動し、新たに神の御心を理解し讃美する者たちを裁けば、自らが裁かれる、という厳しい返答を主イエスがファリサイ派に行っていることになります。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/08/11礼拝説教

2024-08-11 18:27:43 | 説教要旨
24/08/11(日)礼拝説教
旧約サムエル記上25:2-38、新約ルカ福音書19:11-27
「神の裁き」

 人々は弟子を含めてザアカイの家に留まっていました。そこで主イエスは人々が主イエスがエルサレムに入るとすぐに神の国が現れると思っていることを聴いて、王位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ主人の話をします。
 主人は家を離れる時に主人の僕に十ムナを渡し、主人が帰ってくるまでにこれで商売をするように命じます。
 主人が帰ってくると、僕たちを集めて、預けられていた資本(一人一ムナ)がどうなったかを聴きました。一人は一ムナで十ムナを稼ぎ、一人は一ムナで五ムナを稼ぎ、それぞれ十の町と五つの町を支配するように命じます。これに対して他の者は与えられた一ムナを布に包んでしまっておいたと言います。これに対して主人は「悪い僕だ」と評価します。主人は言います「わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに」。と断罪し、持っている一ムナを取り上げ、十ムナ持っている者に与えました。僕たちが彼はすでに十ムナ持っていると主張しても、「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と言います。
 言うまでもなく、この譬えの主人は主イエスのことを指します。十字架と復活の後、しばらくしてから神の御もとに昇天されてから、時が来るまで主イエスは地上から離れています。そして再び地上に降り立たれる時は、救済の時であり、同時に審判の時です。僕たちの中の主人の言う事を忠実に守る者と、そうでない者に分けられ、御国へと招かれるものと、そうでない者に分けられる、という厳しい現実をここで示されるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/08/04(日)礼拝説教

2024-08-04 15:42:17 | 説教要旨
24/08/04(日)礼拝説教
旧約列王記上01:22-29、新約ルカ福音書19:1-10
「失われたものの回復」

 18:18-では金持ちの議員が救いに与ることが出来なかったのに対して、金持ちのザアカイは救いに与ります。
 徴税人はローマ帝国の税金取り立て請負人手先であって、階級は低かったが、ローマ帝国に納める金額以上に出来る限り金を絞り集め、その分の金を自分の儲けとすることが多かったので、彼らの大半は民衆から排斥を受け、非難を受け、このためユダヤ人の仲間入りも出来ずに、友人となることもいやがられる存在でした。ユダヤ社会から排除されている…で物乞いの盲人と共通します。エリコに入った主イエスは町の中を通りました。ザアカイは背が低くて群衆にさえぎられて主イエスが見えなかったので、いちじく桑に登りました。盲人は人々にさえぎられて主イエスに近づけませんでしたが、ザアカイは背が低かったために人々に遮られました。
 そのようなザアカイの許に主イエスは近づかれ、木の上にいるザアカイを見上げて「あなたの家に泊まりたい」と言われます。神の御子である主イエスが徴税人ザアカイの下に来て見上げて言葉を掛けられたのです。常識では神が上で人が下です。主イエスはそのような常識を覆されたのです。
 人々は主イエスが「罪深い男」のところに宿をとったとつぶやきます。その中でザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と主イエスに言われます。律法によれば、犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに五分の一を追加して損害を受けた人に支払うことが決められています。しかしザアカイは四倍にして返すと言います。さらに全財産の半分を貧しい人に施すと言います。
 主イエスはこのようなザアカイを受け入れられ「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は失われたものを探して救うために来たのである」と言われ、ユダヤ社会から失われていたザアカイを救い出し、神の民として永遠の命の中に入れられることを言われます。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/07/28礼拝説教

2024-07-28 16:13:57 | 説教要旨
24/07/28(日)礼拝説教
旧約詩22編25-32、新約ルカ福音書18:31-43
「隠されていたものを見出す」

 主イエスは弟子たちを呼び寄せて三度目のエルサレムでの受難と復活の予告を行います。ここでは、異邦人に引き渡され、侮辱され、鞭うたれてから殺されるが、三日目に復活されることを述べられます。主イエスの受難の様子が具体的に明らかにされます。しかし、弟子たちには主イエスの言われていることが理解できていない様子であることが強調されます。預言書に書かれていたことが実現することを主イエスが言われているにもかかわらず、一番身近な弟子でさえ理解できなかったことが明らかにされています。主イエスはこれらのことを弟子たちに語りながらもエルサレムへと向かわれるのです。
 その途上、エリコに近づかれたとき、道端で物乞いをしていた盲人が、群衆が通り行くのを耳にして、主イエスがお通りになることを知ると、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。人々がしかりつけて黙らせようとしますが、盲人はますます声を高くして叫びます。すると主イエスは立ち止まり、盲人をそばに連れてくるように命じ、「何をしてほしいのか」と問います。盲人が素直に「目が見えるようになりたいのです」と言うと、主イエスは『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われると、盲人は目が見えるようになりました。盲人は主イエスを「ダビデの子」と呼び、ダビデの系譜に繋がるメシア像を意識しています。しかし、主イエスは、人々が意識するダビデ像を超える存在であると聖書箇所は示します。
 受難告知をされる主イエス、同時に盲人の目を開く主イエス。奇跡を起こす神の子としての力を持たれる主イエスは、あえて十字架の道を進まれる様子が描かれるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)

24/07/21礼拝説教

2024-07-21 15:59:27 | 説教要旨
24/07/21(日)礼拝説教
旧約ヨブ記42:10-11、新約ルカ福音書18:18-30
「欠けているもの」

 ユダヤの議会サンヘドリンの議員の一人が主イエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねるところから物語は始まります。
 しかし主イエスは議員にまず、「善い先生」と呼び掛けたことへのだめ出しを行われます。神おひとりのほかに善い者は誰もいない、と指摘されるのです。議員は当然ユダヤ人であり律法と御言葉に精通していて人々のリーダーとして立たなければなりません。それなのに、相手への呼び掛け一つをとってなっていない、ということを主イエスは指摘されるのです。それは、議員が上流階級で儀礼に生きてきたからでしょうが、それが虚偽に満ちているということを主イエスが指摘しているのでしょう。
 次に、主イエスは十戒の一文を示されます。
 すると議員はそれは子どもの頃から守ってきたと言います。
 しかし、主イエスはそれが見せかけだけの虚栄に満ちたものであることを見抜かれます。そして議員に「欠けているものがまだ一つある」と指摘し「持っている者をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と教えるのです。
 すると議員は非常に悲しみます。大変な金持ちであったからです。
 しかし、その金はどこから来たものか。上流階級の者たちの持つ富は税金など民から集め取ったものです。
 その富で贅沢な暮らしをしているのでは、神の示される御言葉は理解出来ないと主イエスは指摘されるのです。
 律法、十戒は神の民の共同体を形成するためのものです。神との関係の中にあり、人との関係の中にあり、共同体全体が祝福されるためのものです。
 それなのに、一部の上流階級だけが民から巻き上げた金銭で自分たちが贅沢をしながら幸せだと思っているのは的外れである、と主イエスは言われるのです。

※Youtubeに説教の動画をアップしています。→Youtube動画(クリックしてください)