長戸大幸は音楽プロデューサー・企業経営者で、大手音楽会社ビーインググループの創業者で取締役。小室哲哉よりも早くに「音楽プロデューサー」という職業を世間に認知させた。
1969年5月、京都で5人組のロックバンドFeedBackを結成。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ京都公演の幕開けで出演。ドラム担当。1971年9月までにメンバーチェンジを経て3人組となり「赤と黒」というバンド名で1972年2月1日に京都をフォークロックのメッカとすべ く、デビューシングル「Mr.D.J.」をテイチクのBLACKレーベルよりリリースした。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、 ギター、作詞、作曲を担当。
1975年、フォーライフの第1回新人オーディションに入選したのがきっかけで、阿久悠の事務所オフィス・トゥ・ワン(連絡先はユニオン出版)に 入り、作曲活動を開始する。デビュー作は1976年12月のシーチャン・ブラザーズ。また和田アキ子、舘ひろしなどの楽曲に作曲家、編曲家、プロ デューサー、ライターとして活躍する。一方でフォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFEFresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定されていたが、諸事情により、発売中止となった。ツ アーも途中降板した。また、マネージメントオフィスBIG MUSICを設立し、妹尾隆一郎のマネージャーを引き受ける。スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」を「Danny Long」名義(後に判明)で制作して、ヒットさせたことから、1978年11月、織田哲郎、月光恵亮らとビーイングを設立。その後三原順子、浜田麻里、 本城未沙子、秋本奈緒美などをデビューさせたりと、様々な活動をする。
長戸大幸
1969年5月、京都で5人組のロックバンドFeedBackを結成。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ京都公演の幕開けで出演。ドラム担当。1971年9月までにメンバーチェンジを経て3人組となり「赤と黒」というバンド名で1972年2月1日に京都をフォークロックのメッカとすべ く、デビューシングル「Mr.D.J.」をテイチクのBLACKレーベルよりリリースした。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、 ギター、作詞、作曲を担当。
1975年、フォーライフの第1回新人オーディションに入選したのがきっかけで、阿久悠の事務所オフィス・トゥ・ワン(連絡先はユニオン出版)に 入り、作曲活動を開始する。デビュー作は1976年12月のシーチャン・ブラザーズ。また和田アキ子、舘ひろしなどの楽曲に作曲家、編曲家、プロ デューサー、ライターとして活躍する。一方でフォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFEFresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定されていたが、諸事情により、発売中止となった。ツ アーも途中降板した。また、マネージメントオフィスBIG MUSICを設立し、妹尾隆一郎のマネージャーを引き受ける。スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」を「Danny Long」名義(後に判明)で制作して、ヒットさせたことから、1978年11月、織田哲郎、月光恵亮らとビーイングを設立。その後三原順子、浜田麻里、 本城未沙子、秋本奈緒美などをデビューさせたりと、様々な活動をする。
長戸大幸