太田小中学校・太田コミュニティセンターの復帰を祝う会 2006-08-26 23:45:19 | 太田地区 太田小中学校・太田コミュニティセンターの復帰を祝う会が開かれました.コミュニティセンター長,長岡市長,連合町内会長,PTA会長の祝辞に続いて,小中学校生徒の発表がありました. 小学生は「オー・シャンゼリゼ」のギター演奏. 演奏の動画 中学生は,総合学習「太田学」の2年目の中間まとめ.今年は地名について調べています.竹之高地,蓬平,濁沢の地名の由来やそれにまつわることがしっかり調べられていました. 竹之高地班の発表の動画 筑波大学 谷川先生からも言葉を頂きました. « 盆踊り | トップ | 田崎商店の草餅 »
3 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 TBありがとうございました。 (地理佐渡..) 2006-09-03 05:51:06 おはようございます。何よりであります。一つ一つ再建・再開の話題があるごとに、地域の復旧・復興の足音を確かめられます。ただ、一方で生活上のそれにはまだまだ困難な道があろう事とも思います。些細なことかも知れませんが、今後も震災被災地の現状を世にお届けできればと思っています。今後ともお付き合いを..。8月23日は20名ほどの仲間を連れまして、蓬平、濁沢界隈を案内しました。今の風景からは想像できないであろうと、直後の風景をプレゼンしてからの訪問でした。 思い出 (ルーク) 2006-09-25 23:12:33 初めてコメントします。時々拝見させて頂いていました。震災から長い時間が過ぎましたが、ようやく大田地区の避難勧告が全面解除になったんですね。ご苦労様でした。私は、東京の中目黒に住んでいる者で、実は濁沢の生まれです。と言っても現在78歳になる母が濁沢の出身で、今から51年前に私を出産するために里帰りしたことにより、濁沢の母の実家で私が生まれたというわけです。私は小学校のころ夏休みのほとんどを濁沢の母の実家で過ごしました。朝早くから旧濁沢小のグラウンドでラジオ体操をして、棚田にある鯉の養殖池に行き、鯉に餌を与えるというのが私の仕事でした。その後朝食を済ませ母の弟(旧濁沢小と後に大田中の教師をしていた叔父)から教育を受けました。母が私を毎年濁沢に送り出した大きな目的はそのことにあったようです。ちなみに叔父は教育熱心な人でしたが、現在は引退して長岡市内に住んでいます。最近ブログにアップされていた盆踊りの動画を母に見せたところ大変懐かしがっていました。「ずいぶん人数が少なくなってしまったんだね」と母が寂しそうにつぶやいたので、大田地区の避難勧告が全面解除され、ようやく盆踊りも再開された事などを説明したところ大変喜んでいました。これからもまだまだ不自由な生活が続く事と思いますが希望を持って頑張ってください。そして、いまだ濁沢に思いを馳せる私や母に濁沢をはじめとする大田地区の情報をお届けください、楽しみにしております。 Unknown (norik) 2006-10-01 00:17:03 ルークさん,コメント有難うございました.地元の方と一緒にこのホームページの更新を続けている者です.今春までは,斜面の崩落や道路の崩壊が何度もあり,道路が不通になり,住民の方は不便を強いられました.工事も進み,漸く安心して街との行き来が出来るようになってきました.濁沢は,震災前約60戸あったのが,30戸に減りました.残るのはお年寄りばかりという声も聞きます.冬の歳の神の時は,未だ避難勧告が掛かっていたためか,ほんとに寂しい限りでした.が,盆踊りは,それに比べて随分賑やかでした.平場に降りた若夫婦や子供の姿も見られました.私は,長岡生まれでもなく,太田地区とのつながりも震災後ですが,皆太鼓をたたき,唄う姿は,街には無いものです.こうした伝統芸能・文化,手作りの愉しみは,都市のコンビニ文化には無いものです.子供の育つ場としても大事です.長岡の街中とも近いですし,街の人がこの地区の良さを知るきっかけ,架け橋になればと思います.少しずつ更新を続けていきたいと思います.今後とも宜しくお願いします. 規約違反等の連絡
何よりであります。
一つ一つ再建・再開の話題があるごとに、
地域の復旧・復興の足音を確かめられます。
ただ、一方で生活上のそれにはまだまだ困
難な道があろう事とも思います。
些細なことかも知れませんが、今後も震災
被災地の現状を世にお届けできればと思っ
ています。今後ともお付き合いを..。
8月23日は20名ほどの仲間を連れまして、
蓬平、濁沢界隈を案内しました。
今の風景からは想像できないであろうと、
直後の風景をプレゼンしてからの訪問でし
た。
私は、東京の中目黒に住んでいる者で、実は濁沢の生まれです。と言っても現在78歳になる母が濁沢の出身で、今から51年前に私を出産するために里帰りしたことにより、濁沢の母の実家で私が生まれたというわけです。
私は小学校のころ夏休みのほとんどを濁沢の母の実家で過ごしました。朝早くから旧濁沢小のグラウンドでラジオ体操をして、棚田にある鯉の養殖池に行き、鯉に餌を与えるというのが私の仕事でした。その後朝食を済ませ
母の弟(旧濁沢小と後に大田中の教師をしていた叔父)から教育を受けました。母が私を毎年濁沢に送り出した大きな目的はそのことにあったようです。
ちなみに叔父は教育熱心な人でしたが、現在は引退して長岡市内に住んでいます。
最近ブログにアップされていた盆踊りの動画を母に見せたところ大変懐かしがっていました。「ずいぶん人数が少なくなってしまったんだね」と母が寂しそうにつぶやいたので、大田地区の避難勧告が全面解除され、ようやく盆踊りも再開された事などを説明したところ大変喜んでいました。
これからもまだまだ不自由な生活が続く事と思いますが希望を持って頑張ってください。
そして、いまだ濁沢に思いを馳せる私や母に濁沢をはじめとする大田地区の情報をお届けください、楽しみにしております。
地元の方と一緒にこのホームページの更新を続けている者です.
今春までは,斜面の崩落や道路の崩壊が何度もあり,道路が不通になり,住民の方は不便を強いられました.工事も進み,漸く安心して街との行き来が出来るようになってきました.
濁沢は,震災前約60戸あったのが,30戸に減りました.残るのはお年寄りばかりという声も聞きます.冬の歳の神の時は,未だ避難勧告が掛かっていたためか,ほんとに寂しい限りでした.
が,盆踊りは,それに比べて随分賑やかでした.平場に降りた若夫婦や子供の姿も見られました.私は,長岡生まれでもなく,太田地区とのつながりも震災後ですが,皆太鼓をたたき,唄う姿は,街には無いものです.
こうした伝統芸能・文化,手作りの愉しみは,都市のコンビニ文化には無いものです.子供の育つ場としても大事です.
長岡の街中とも近いですし,街の人がこの地区の良さを知るきっかけ,架け橋になればと思います.
少しずつ更新を続けていきたいと思います.
今後とも宜しくお願いします.