株式会社 大山建築設計事務所

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阪神淡路大震災の報告

2011年08月25日 | 進行中物件


1995/1/17 阪神淡路大震災 視察のご報告。    
1995/1/17 午前5時30分 何時ものように愛犬のノー君と散歩していたので、「阪神淡路大震災」には全く気が付かなかった。早朝のニュースでは災害の報告は「大震災」とは伝えていなかった。が、夜が明けると伴にその激震ふりを伝え、まさに未曾有の大災害を生々しく伝えてきた。アナウンサーの興奮した声とともに情報が全身に飛び込んできた。
 大地が揺れ山が吼えた「驚天動地」とはこの事か。瓦礫と化した都市住宅地から人々の阿鼻叫喚の断末魔の叫び声が伝わってくるように思え、全身震える思いで目が離せなかった。

 これが大都市「神戸」の現実の姿なのか信じられない思いであった。まさに平和な日本のど真ん中に,メガトン級爆弾を予告無しに投下された姿である。地中に埋設された,電線、ガス管がいたるところで火を噴き10数個所で火災が同時に発生した。当然の事ながら水道管も破断し避難する人々や車で消防車は現場に駆けつけることが出来ず、ただ唯街が燃え尽きるのを見守るしかなかった。悲惨極まりなかったのは、瓦礫の下敷きの身内を救助できず、迫り来る炎を止められず泣き叫ぶ家族の姿には筆舌にしがたい状況であった。悔しさと無念さと茫然自失の思いで立ち尽くされていた。2日間に渡って炎は暴れまくり神戸の町は一面焼け野原となってしまった。繁華街のアーケードは、通路と思しき骨組みの鉄骨だけが僅かながら位置を知らせ、周りは全く跡形も無く、全ては灰燼と帰した。それにしても驚きだったのは公共施設、高速道路、新幹線私鉄の高架橋全てが震災の洗礼を受け倒壊崩落の現場がいたるところで見受けられた事である。現実は建築構造物の設計基準を見事に打ち砕き、正直一体どう設計したら善いのだ!の思いがよぎった。まさか馬鹿な信じられない。高速道路の倒壊、直径2M鋼管支柱肉厚60mm程が横一文字に介錯されたように見事にせん断していたのは目が点になった。三宮の交差点角に建つ総タイル張りの生保系の8階建て鉄筋コンクリートビルの5階部分だけが押しつぶされていた。ビルの真中をだるま落ししたような被害もやはりええ!と目が釘つけられた。まさかまさかの言葉が何度も繰り返された。(施工不良手抜き工事らしき現場も見受けられた)連日報道は犠牲者の数を刻々と伝えて遂に5000名を超えそうな勢いであった。罹災者は30万人に近く、関東大震災並みの災害が発生した事を否応無しに我々に通告した。
 地震発生から7日目の1月24日被災者の皆様に迷惑にならない様にと、震災の生々しい現場を見ておかなければならない思いとで「神戸」に行ってきた。
 新大阪迄は新幹線を利用することが出来た。途中彦根付近は大雪の為徐行運転で30分遅れの昼少し前についた。列車内新大阪以西は不通の為かなり空いていた。早々に在来線乗り継ぎJR尼崎まで直行した。その先は不通である。とにかく行ける所まで行こう。山陽線に乗り換えてから、列車内の異様な乗客に驚いた。乗客の半数以上が防寒服にリュックを背負い、スニーカーを履いていた。映画やテレビドラマで見たことがある「買出し風景」を、まさか平和日本のこの時代に見るとは思いもよらなかった。スーツに皮のコートを羽織っている私のほうが浮き上がっているように感じた。歩く事だけは覚悟してスニー
カーは履いてきたのでクツだけが連帯感を作ってくれ少々救われた思いである買出し姿の老若男女の人々は、震災から7日過ぎている為か、震災には負けられない思いが勝っているのか、顔つきは元気で逞しさが見受けられた。尼崎駅に近つくと街の景色は一変した。木造住宅アパートマンション商業ビルと無差別に震災の洗礼を受けている。18年前視察した仙台宮城沖地震の比ではなかった。走る電車内から夢中でシャッターを切った。倒壊した建物はやはり「新耐震設計基準」以前の老朽建物が集中している。が、仙台宮城沖地震の時は住宅の倒壊はこれほど見られなかった。せいさ、瓦のずれ,棟瓦の飛散、外壁の剥離脱落程度であった。もっとも鉄筋3階建てのバランスの悪い且つ柱の帯鉄筋の間隔が300ミリの物は見事に捩れ倒壊していた。が木造住宅の完全倒壊するまでには至っていなかった。今度の「阪神淡路大震災」で報道関係者の伝えるアングルもそれなりに貴重な資料で有るが、実際可能な限り己の目で確認したかったし,するべきだとつくづく思った。尼崎の駅から三宮へ行きさらに、西宮から徒歩で関西学院より北西に2キロメートル程奥の「仁川」の住宅団地の崩落現場も視察した。南斜面の雛壇の造成地は頂上には学院の体育館が建っていた、その支えと成る10メートル程の杭が基礎下に10数本ぶら下がっていた。正に完全な手抜き工事を発見した(地耐力0に等しいただの砂山)。建物の恐らく1/5程度が支持地盤も無く庇のように飛び出していた。さらにその下には仁川の団地があった。頂上付近から始まった大量の土砂崩れは一気に200メートル下まで流れたように思われる。幾重かの宅地は麓に団子状態に固まっていた。当然、コンクリートの擁壁と建物や車が混在し固まっているのだから凄惨極まりない。引きちぎられた衣類、布団、車種も全く分らない赤い乗用車が胸に突き刺さり思わず合掌してしまった。余りの悲惨さに写真をとることさえはばかられた。
* 私見、仁川と名前がつくのだから小さい沢水が放射状に有ったのかもしれない勾配も30度近くあったようにも思える隠れた水道(みずみち)と急勾配、頂上の無理な造成手抜き工事でこの崩落は起きた可能性が非常に大きいと思える。安全安心であるはずの住まいの中で。一瞬のうちに絶命した人々の無念さは想像を絶する。
 阪神淡路大震災は5000人を超える犠牲者を出した。「尊い命」人柱には我々建設業界に携わる者は厳粛に受け止めなければならないとつくづく感じた次第である。帰路、新幹線の車中にてこのリポートを記す。

被災者の皆様が一日も早く立ち直られますように念じご報告申し上げます。
 合掌!  1995/1/24      建築家 大山光広
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