「ニューロダイバーシティ」は障害名でも、何か特定の特徴を持った人たちをカテゴライズする名称でもないし、障害による困り感を軽減するための手立てを表す言葉でもない。それは障害の有無などのような二項対立的な捉え方ではなく、一人一人異なる心理的、身体的、認知的特徴をもっているという前提にたち、それぞれを尊重し、一人一人がより生きやすくなるような社会を目指すための旗印となる言葉。
人は皆正常。正常と異常に分けようと境界線を見つけようとする行為がニューロダイバーシティに反する。集団を2つに分けて捉えるのではなく、一人一人を分けて捉えるのがニューロダイバーシティ。
ただ学校現場の実際は、教師の特定の指示を理解できる児童とできない児童に分けられる。そして教師はできない児童には手立てを打って、できる側に寄せようとするもの。おそらくこの行為自体は間違っていない。だって理解できなかった児童は困ってしまうはずだから。
じゃあこの状況のどこに問題があるのか・・・?
多分理解ができた理由や理解できなかった理由を障害の有無に帰結させてしまうのが問題なのだろう。障害があるとかないとかというカテゴリーで括った見方をするのではなく、個の特徴にフォーカスした見方をすることが大切。そうしないと理解できた側は一括りにされて、今回はなんとか理解できたものの本来はもう少し手立てが必要な児童に意識が向かなくなって、次回は理解できなくなってしまうこともありうる。
社会のシステムを構想する上で土台になる考え方にはニューロユニバーサリティパラダイムとニューロダイバーシティパラダイムとがある。前者はみんな同じ人間なんだから、大体のことは同じ(共通)であるという考え方のことを、後者は人は皆異なる生き物だから、大体のことは異なってくるものであるという考え方のことを言う。前者の考え方をするのは定型発達者(全人口の85パーセント)。そして社会のルールやシステムを作り出すのはそういう立場の人たちだから残る15パーセントの人は不適応を起こす。これってただの数の暴力。多数派が正義になっている。85パーセントの人が作り出したルールが善で、それについてこれない人の能力が低いという見方は絶対的なものではないのに、数の暴力によって15パーセント側の人の苦しみは軽視される傾向にある。
ユニバーサルデザインは発達障害児(非定型発達者)を救うか?
A:現状の苦しみを緩和してあげることは大切。ただしUDは対症療法に過ぎない。救い切れない。
それこそニューロユニバーサリティパラダイムの考え方も相まって行われる一律一斉授業。それだと苦しい児童がいるという状況に対し理解が広がり、UDが意識されるようになってきた。しかしそもそもなぜ理解できない児童が授業の中で生まれるかを考えてみるとそこには同学年、同地域の児童であれば同じ説明をすれば同じように理解をするはずであるニューロユニバーサリティパラダイム的な考え方があるからである。つまり、本当に全員のつまずきを解消しようと思うならば一律一斉授業という授業のあり方を変えていく必要がある。これは授業の根本をひっくり返すような大きな改革である。しかし、個別最適化、自由進度学習、けテぶれなどの理念はこれを踏まえたもの。より早い普及が急務。UDとUDLの違いについても学ぶ必要あり。
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