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結局モルモン教義はデタラメなのか (トゥゲザー)
2006-03-07 01:48:05
>日本との相違が大きいようである。

>ユタ州の会員は実際的で、教育と信仰を調和させている、と

>言えるのだろうか。



同意できないです。

彼らは日本を含む外国に宣教師としてやってきて

真面目で誠実そうな顔つきで、自分達が信じても

いない教義を宣べ伝え、証し、会員獲得ゲームを

やって帰っていくのです。

モルモン教義を本気で信じたものはバカを見る、

そういうことではないでしょうか?



>あるいは整合性をはかった信仰の持ち方に至っているというべきか。



よく言えば世渡り上手、悪く言えば不誠実

そう思います。

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Unknown (あんのうん)
2006-03-07 07:21:40
>「福音」は

地球(とそこに生息するもの)が創造された目

的を述べており、「進化論」は地球(とそこに

生息するもの)がどのように創造されたかを述

べている、と見ている」とあった(Colleen Kay

Porterさん)。



共通の知人を介してある禅寺の老師(カトリックの修道院長に相当か?)と1日随行(運転手兼かばん持ち)する機会があった。

意地の悪い質問も投げかけ殺生について聞いてみた。「殺菌も殺生ではないか?」など。

老師の応えは「(教理への)厳格さよりも思いの細やかさにシフトしないと本来の目的から乖離しオカルトにならざるえないだろう。」との事。

この老師も雲水(専修修行僧)になる以前の寺の小僧(一般の禅寺の修行僧)であったころカトリックの神父の薫陶を受けて雲水になる決意をしたとの事。
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本来の目的 (オムナイ)
2006-03-08 18:06:55
>老師の応えは「(教理への)厳格さよりも思いの細やかさにシフトしないと本来の目的から乖離しオカルトにならざるえないだろう。」との事。



よい言葉ですね。

進化論や創造論もさほど福音の目的・本質には関係ないように思います。福音の目的とはそれこそ「創造された目的」なのでしょう。



聖書やモルモン書はその目的を探る読み方をせねば・・と感じるのです。

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最近思ったこと (トゥゲザー)
2006-03-09 00:05:40
ある人の発言より(抜粋)

-------------------------------

会員の中でさえもモルモン書の真贋を疑い「JSの創作物」だと主張するかたがおられると聞きます。



また、モルモン書を否定する会員は進化論にも傾く傾向にあるようです。進化論とはロレックスの時計を分解して缶に入れて何億回、何千億回振り続けて元のロレックスに組み立てるようなものだといわれています。つまりあり得ない仮説なのです。



そしてその有機物に落雷などの刺激が与えられ突然、単細胞が発生した。これも絶対にあり得ないことなのです。太古の昔にあり得たことならば、現在も並行して発生しているはず。そしてサルからヒトへの進化もどこかの動物園で起きているはず。太古の昔だったから起きていたのでしょうか?そんなことはない。全て都合の良い仮説に過ぎないのです。進化論を完璧に証明する証拠など何一つないのです。北京原人とかの骨だってあくまでも進化論を前提にしただけであって、その前後の化石もありません。



ヒトがサルから進化したというならば天父もサルの末裔だということになります。



人間ひとりの知識や力は主には全く及ばないのです。全てを明かしてしまおうという考えが高慢だと思います。

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モルモン会員の典型的な思考です。

この方も子供のときは進化論を学んでいたのでしょう。

しかしモルモンに入って、進化論は間違い、神が全てを創造された、と考えを改めさせられることになったのでしょう。



しかし、本場(笑)ユタ州のモルモンたちはこれは古い考えだとか、モルモンの教義にそぐわないとか言い出す始末。彼らが日本にやってきてモルモン教義を信じさせ、考えを変えさせたくせにねぇ・・・



全くデタラメもいいところではないでしょうか。

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創造論は間違い (トゥゲザー)
2006-03-09 00:43:18
進化論をこともなげに受け入れながら、一方では神による創造の御業を証する

末日聖徒の二面性には同意できませんが、さりとて創造論が正しいと

言ってるのではありません。

創造論とは古代の人間の豊かな空想の産物であって、真実ではないのです。



創造論者を信奉する人が進化論を批判するときに持ち出す紋切り型の指摘は、

ほとんどが誤解、曲解によるものです。



ロレックスの時計を分解して缶に入れて振り回すのが進化論とか、

人間はサルから進化したなら、動物園のサルが将来人間になるのかetc



いちいち解説してもいいのですが、メンドクサイし、非常に良くまとめたサイトがありますので以下に紹介しておきます。

 ↓

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/kgh_main2.html

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誤解について説明させてください (トゥゲザー)
2006-03-10 09:42:23
>ある反モルに近いかたが、あるかたのブログで、

>私のこの論理が末日聖徒の典型だと主張し、

>またアメリカの宣教師が日本にきていい加減なことを

>教え伝えていくと(創造説)言われました。

>反モルというより、宗教否定の立場におられるようですね。

>カソリックが進化論に対してどのようなスタンス

>でいるかは分かりませんが、このかたは、どんな宗教も

>そぐわないでしょうね。



前々回の私が某掲示板から引用した内容を、元の発言

をされた方がご覧になっておられたようで

上記のようなコメントをいただきました。



誤解されているようですので訂正と補足をさせていただきます。

まず私は「反モル」でありません。モルモン会員です。

「私のこの論理が末日聖徒の典型」というのは全く

そのとおりです。モルモン教会の出版物、予言者、

多くの会員の発言に同様の考え方が見られます。

「宣教師が日本にきていい加減なことを教え」という

部分には誤解が見られます。

私がいい加減だと言ったのは創造論のことではありません。

宣教師たちの中には伝道期間が終われば手のひらを返した

ように宣教師のときとは異なる考え方に切り替わることを

指しています。その実態というのが今回のNJWindowさんが

取り上げている「ユタで反ダーウィン法否決」なのです。



「宗教否定の立場におられるようですね」というのも

誤解です。モルモン教会員として物事の真実を追究した

ゆえの結論を受け入れているだけです。



「このかたは、どんな宗教もそぐわないでしょうね」

これは何が仰りたいのか不明です。

宗教と言うものが、ウソをつき事実を捻じ曲げても教義や

教団組織を守るものだとすれば(私はそういうのは

大嫌いですから)、私には宗教いかなる宗教も

そぐわないでしょう。

私にモルモン会員でいることがそぐわないのなら

モルモン教会がそういうものだからでしょう。

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Unknown (禅の老師の講演)
2006-03-11 15:21:47
福祉医療関係者、近県の禅寺の住職、座禅の会衆が集った2時間の講演が終わると質疑応答の時間となった。

いくつか質問の後に生真面目な50代後半と思われる紳士が質問。

どういう理由からか会場の一部から(おそらく座禅の会の衆か)失笑が漏れ聞こえた。

禅や上座部(小乗)仏教独特の止観という考え方についての質問で長年座禅を組んでいるが一向に悟りが開けないという内容の質問だったと思う。

このやりとりは10分ほど続き、禅を知らない私には大変勉強になったが同時に失笑の理由も分かってきた。

彼は最初の先入観(おそらく禅のステレオタイプのイメージ)を捨てられない譲らない質の人だと想像した。

このやりとりは私には教訓になった。

会の後、内輪の会食時にこの質問者と毎週末接する寺の住職が「あの方は10年同じ質問をして一歩も進もうとしない」と語った。

老師の応えは「あの方に必要なのは宗教ではなくおそらくセラピストでしょう。」との事。

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禅の老師のお話 (NJWindow)
2006-03-11 21:37:02
Unknown さん、禅の老師のお話、興味をもってよませていただきました。ああでもない、こうでもない、としばしばむきになるような議論していると、低い凡夫のレベルになりさがってしまっていることに気づきます。同時にお話に登場するような人物のことを聞くと、衝撃を受けるような思いがします。
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Unknown (あんのうん)
2006-03-14 00:19:31
この講演には禅の他真言宗他の僧侶も数名出席しており、このうち会食には1名参加された。

ある禅僧が今後の宗教の流れについて憂慮される発言をされた。

私は檀家制度の形骸化もしくは崩壊について触れた。

真言僧は「それは違う」と異を唱えた。

彼としては個人の信仰は信仰、一族のルーツを刻む檀家制度は三代無意味と判断すればそのようにすれば良いという考え方だった。

個人一代の勝手な判断で先祖が崇敬してきた(たとえ檀家制度が江戸幕府の治安維持政策が当初目的であったとしても)ものを廃するのはよろしくないとのことだった。

「(一族の長いルーツを思えば檀家制度廃絶云々など)大したことではない」

印象的な言葉だった。



禅僧は修証を経て悟りに至るとする。

その修行の激しさは筆舌に絶する。

老師の供として同行した雲水は藍色一色の歌舞伎舞台から抜け出たような衣装で、中世肖像画の仰々しい衣装は決して誇張ではなかったと感じた。

衣装と同じく禅の価値観には今なお中世的な香りがする。

そこにはキリスト教的な愛の観念は存在せず自己への厳しさのみが存在する。

それ故にキリスト教的愛の観念について再考を促された。

愛には必ず体験と思慮深さが伴わなくてはならない。安易な儀式的な愛は愛ではなく、むしろ冷淡である方が救いになると。

圧倒的多数のキリスト教信者の日常会話的愛の発露が軽薄に思えてならない昨今である。
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