マリアは自分の財産を使ってスピケナードをイエス様に塗りました。スピケナードとは、「インド北部の山地に生育するナードという植物の根とスパイク(髪の毛の茎)から採れる香りのよい油」のことです。彼女が選んだスピケナードは約300デナリであった(John 12:5; Mark 14:5)。1デナリは1日の労働の対価であり(マタイ20:2)、200デナリで5,000人分の食事ができるとすると(マルコ6:37、44)、マリアの捧げ物は1年分の賃金に近いものでした。
ユダは、マリアの贅沢について聖人君子のように文句を言っていました。翌日以降、銀貨30枚(推定100デナリ)でイエスをユダヤ人指導者たちに裏切ることになる彼が、マリアが救い主を敬うために貴重な香油を使ったことに文句を言ったのは皮肉なことです。ユダの不満にもめげず、イエスはマリアを叱ることなく擁護し、彼女の弟子としての行動を受け止め、彼女の行動を預言的だと称賛しました。「彼女は、私の埋葬の形見として私に油を塗るために、この軟膏を今まで取っておいてくれたのだ。貧しい者はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも持っているわけではない」(JST, John 12:7-8)。
イザヤ書の研究発表会を準備されるとのこと楽しみにしています。できれば、ファンダメンタルな立場に立つ研究や書物についてもあげていただければ幸いです。個人的にはアモッの子イザヤが全預言の著者であるとの立場で学んできました。自分が参考にした図書をいくつか紹介します。 EJ.ヤング「旧約聖書緒論」(301p)一つの理由として、「新約聖書には、イザヤ型の預言者より多く引用されている。このことは、新約聖書の見地ではイザヤが全預言の著者であったことを疑う余地のないものとして引用したのである。 WT.パーカイザー「旧約聖書の探究」(479p)結局、問題はこういう形に絞られることになる。すなわち、紀元前八世紀に生きていたイザヤが神の霊感を受けて、100年以上も後の捕囚の状態をあのように正確に予言し得たことを、われわれが認めようとするかどうかである。福音的な学者たちは等しくイザヤ書のこの部分を「予告的預言の驚異」として受け入れている。 トーレイフ.ボーマン「ヘブライ人とギリシャ人の思惟」神がイスラエル民族と人類に宗教的、倫理的活動において自らを啓示し、この活動によって神は人間を目指す目的へと導くとすれば、人間の生活は神の最高の思慮と意図が働いている究極の大きな目標を持たなければならない。それゆえ、ギリシャ人が宗教的に思惟する場合変化なき彼岸性が帰結となるように、終末論はヘブライ他人の宗教的思惟における帰結である。・・・・・・・・・・・・・両者の歴史把握の態度は厳密に区別される必要がある。もし、双方を混淆させるならば、両方とも傷うことになる。このことは現代において二度、ヘーゲル主義と進化論のうちに、すなわち、科学としての近代の発展への信仰の中に起こったのであった。謝りはいずれの体系においても同じである。(283P)末日生徒の研究者の著書としては、 Sidney B.Sperry "The Literary problem of Isaiah"(187 ~191p) Monte S.Nyman "The Great are the words of Isaiah" Authorship of Isaiah (253 ~258) イザヤ書の文献批判から離れて新しい取り組みを感じたのが L,La Mar. Adams "A Scientific Analysis of Isaiah Authorship"(151 ~163p)です。そして今回翻訳されたアブラハム・ギレアディの「終わりにことを初めから」です。17pに「イザヤ書の著者は一人であるという証拠」に説明されています。 紹介した書物は古いものであり、21世紀に入っての研究がどのようなものであるのかは知りません教えをいただければ幸いです。
大根大さんへ 9/6, 7日の書き込みに対するお返事です。遅くなってすみません。大変よく研究しておられる様子が分かり、驚き、また敬意を表します。 イザヤ書に関する、保守的な立場からの参考文献について。 Edward J. YoungのAn Introduction to the Old Testament は持っていて、しばしば参照しています。イザヤの複数著者説など頁を割いて詳しく論じていますね。 Sidney B. Sperry のThe Spirit of the Old Testament も所有しています。イザヤ書に2章割いています。昔読みました。 Monte NymanはBYUに留学した時、クラスを受講しましたが、典型的護教の姿勢で彼の立ち位置が分かった経験でした。
21Cにどのような参考文献が出ているかについて。Grant HardyのUnderstanding the Book of Mormon, David Bokovoy の“The Truthfulness of Deutero-Isaiah: A Response to Kent Jackson” 2016.をあげることができると思います。
しかし、カウドリ家は「聖なる棒」を使って宝探しをする地元の宗教的なグループのメンバーであり、そこでジョセフ・スミス家の人々と知り合いであった、と歴史学者のマイケル・クイン氏(元BYU教授)が指摘しています。 Quinn, D. Michael, Early Mormonism and the Magic World View, Revised and enlarged (Salt Lake City: Signature Books, 1998), 36-39.
失礼しました。
>I, IIの参考書籍をもとに、私なりに「イザヤ書をどう読むか」まとめてみたいと思っている。
イザヤ研楽しみです。
とかくキリストの救いへの興亡の予言だなーで終わりがちな書ですが、奥深いんですね。
それが、「預言」となり、旧約聖書の随所に出て来る。
詩編、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、等等
それで行きついたのが、「イエス=キリスト」
だが、皮肉な事に、現在イエスをメシアと認めているのは、ユダヤ人以外の民族である。
キリスト教では、イエスをメシアだとする根拠を旧約聖書の予言に求めているので、未だにユダヤ教の聖典をキリスト教の聖典の中に残している。
私が不思議に思うのは、「油注がれし者」とされているイエスが、油を注がれていない事だ。
世界最大の聖書アプリ「ユーバージョン」は2日、旧約聖書のイザヤ書41章10節が、
2020年に最も人気のあった聖句だったと発表した。
また今年は、新型コロナウイルスが世界的に猛威を振るったことなどにより、
アプリ内の検索件数が前年に比べ80%増え6億件近くに上ったという。
・・・
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ41:10、新共同訳)
ーーー
モルモン書では41章は引用されていません。
おー。確かにそんな箇所聖典にでてこないかも。
ユダヤ教からキリスト教の聖書解釈を見れば。。
いやいいや、なにその解釈?となるんでしょうね。
たぶん、油注ぎの代わりに、バプテスマだったんでしょうが、水と油ですね。
36: あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37: するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
38: 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
出エジプト記30章23節からに、油注ぎに使う油の調合法が書いてあります。
主がモーセに直接言われてるので、これが油注ぎの起源だと思います。
同じ30章の33節には、一般人がこれを造ると「民のうちから断たれる」と書いてありますので、イエスに塗られた香油は、正式な油注ぎのものでは無いと思います。
さて?油注がれていないイエスが何故「油注がれし者」と言われるようになったのか???
それは知りませんが、私が何故「油を売ってる」って言われるかは分かりますよ。
仕事しないで、このブログに書いてるから・・・。
そんな油をオッサンに塗ってもらうより、女の子に塗ってもらうほうがよっぽど良いでしょ!
しかしまぁこのルカ7章の記述って考えようによっちゃマニアックなプレイのような雰囲気ですねぇ・・・
ルカにはマニアックプレイの事しか書いてないですが、マタイとマルコには、「ナダルの香油」として知られてる話が出てきますね、元は同じ話だったんでしょうか?
ナダルの香油は女が壺を壊して頭からぶっかけたようですが、こっちもマニアックかも?
旧約の神殿では人間だけではなく、そこいら中に香油をぶっかけたようですね。
神殿と言うところは、臭かったんでしょうね。
生贄の動物を屠るのですから。
神殿が血なまぐさいのは、現代も同じなのか?
すみません、テニスの話になってました。
ナルドです
ヨハネの福音書では、マリアと言う名前が出てきます。
年収分ぐらいの高い香油の様です。
油売ってる場合じゃない。