マリアは自分の財産を使ってスピケナードをイエス様に塗りました。スピケナードとは、「インド北部の山地に生育するナードという植物の根とスパイク(髪の毛の茎)から採れる香りのよい油」のことです。彼女が選んだスピケナードは約300デナリであった(John 12:5; Mark 14:5)。1デナリは1日の労働の対価であり(マタイ20:2)、200デナリで5,000人分の食事ができるとすると(マルコ6:37、44)、マリアの捧げ物は1年分の賃金に近いものでした。
ユダは、マリアの贅沢について聖人君子のように文句を言っていました。翌日以降、銀貨30枚(推定100デナリ)でイエスをユダヤ人指導者たちに裏切ることになる彼が、マリアが救い主を敬うために貴重な香油を使ったことに文句を言ったのは皮肉なことです。ユダの不満にもめげず、イエスはマリアを叱ることなく擁護し、彼女の弟子としての行動を受け止め、彼女の行動を預言的だと称賛しました。「彼女は、私の埋葬の形見として私に油を塗るために、この軟膏を今まで取っておいてくれたのだ。貧しい者はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも持っているわけではない」(JST, John 12:7-8)。
イザヤ書の研究発表会を準備されるとのこと楽しみにしています。できれば、ファンダメンタルな立場に立つ研究や書物についてもあげていただければ幸いです。個人的にはアモッの子イザヤが全預言の著者であるとの立場で学んできました。自分が参考にした図書をいくつか紹介します。 EJ.ヤング「旧約聖書緒論」(301p)一つの理由として、「新約聖書には、イザヤ型の預言者より多く引用されている。このことは、新約聖書の見地ではイザヤが全預言の著者であったことを疑う余地のないものとして引用したのである。 WT.パーカイザー「旧約聖書の探究」(479p)結局、問題はこういう形に絞られることになる。すなわち、紀元前八世紀に生きていたイザヤが神の霊感を受けて、100年以上も後の捕囚の状態をあのように正確に予言し得たことを、われわれが認めようとするかどうかである。福音的な学者たちは等しくイザヤ書のこの部分を「予告的預言の驚異」として受け入れている。 トーレイフ.ボーマン「ヘブライ人とギリシャ人の思惟」神がイスラエル民族と人類に宗教的、倫理的活動において自らを啓示し、この活動によって神は人間を目指す目的へと導くとすれば、人間の生活は神の最高の思慮と意図が働いている究極の大きな目標を持たなければならない。それゆえ、ギリシャ人が宗教的に思惟する場合変化なき彼岸性が帰結となるように、終末論はヘブライ他人の宗教的思惟における帰結である。・・・・・・・・・・・・・両者の歴史把握の態度は厳密に区別される必要がある。もし、双方を混淆させるならば、両方とも傷うことになる。このことは現代において二度、ヘーゲル主義と進化論のうちに、すなわち、科学としての近代の発展への信仰の中に起こったのであった。謝りはいずれの体系においても同じである。(283P)末日生徒の研究者の著書としては、 Sidney B.Sperry "The Literary problem of Isaiah"(187 ~191p) Monte S.Nyman "The Great are the words of Isaiah" Authorship of Isaiah (253 ~258) イザヤ書の文献批判から離れて新しい取り組みを感じたのが L,La Mar. Adams "A Scientific Analysis of Isaiah Authorship"(151 ~163p)です。そして今回翻訳されたアブラハム・ギレアディの「終わりにことを初めから」です。17pに「イザヤ書の著者は一人であるという証拠」に説明されています。 紹介した書物は古いものであり、21世紀に入っての研究がどのようなものであるのかは知りません教えをいただければ幸いです。
大根大さんへ 9/6, 7日の書き込みに対するお返事です。遅くなってすみません。大変よく研究しておられる様子が分かり、驚き、また敬意を表します。 イザヤ書に関する、保守的な立場からの参考文献について。 Edward J. YoungのAn Introduction to the Old Testament は持っていて、しばしば参照しています。イザヤの複数著者説など頁を割いて詳しく論じていますね。 Sidney B. Sperry のThe Spirit of the Old Testament も所有しています。イザヤ書に2章割いています。昔読みました。 Monte NymanはBYUに留学した時、クラスを受講しましたが、典型的護教の姿勢で彼の立ち位置が分かった経験でした。
21Cにどのような参考文献が出ているかについて。Grant HardyのUnderstanding the Book of Mormon, David Bokovoy の“The Truthfulness of Deutero-Isaiah: A Response to Kent Jackson” 2016.をあげることができると思います。
しかし、カウドリ家は「聖なる棒」を使って宝探しをする地元の宗教的なグループのメンバーであり、そこでジョセフ・スミス家の人々と知り合いであった、と歴史学者のマイケル・クイン氏(元BYU教授)が指摘しています。 Quinn, D. Michael, Early Mormonism and the Magic World View, Revised and enlarged (Salt Lake City: Signature Books, 1998), 36-39.
失礼しました。
>I, IIの参考書籍をもとに、私なりに「イザヤ書をどう読むか」まとめてみたいと思っている。
イザヤ研楽しみです。
とかくキリストの救いへの興亡の予言だなーで終わりがちな書ですが、奥深いんですね。
それが、「預言」となり、旧約聖書の随所に出て来る。
詩編、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、等等
それで行きついたのが、「イエス=キリスト」
だが、皮肉な事に、現在イエスをメシアと認めているのは、ユダヤ人以外の民族である。
キリスト教では、イエスをメシアだとする根拠を旧約聖書の予言に求めているので、未だにユダヤ教の聖典をキリスト教の聖典の中に残している。
私が不思議に思うのは、「油注がれし者」とされているイエスが、油を注がれていない事だ。
世界最大の聖書アプリ「ユーバージョン」は2日、旧約聖書のイザヤ書41章10節が、
2020年に最も人気のあった聖句だったと発表した。
また今年は、新型コロナウイルスが世界的に猛威を振るったことなどにより、
アプリ内の検索件数が前年に比べ80%増え6億件近くに上ったという。
・・・
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ41:10、新共同訳)
ーーー
モルモン書では41章は引用されていません。
おー。確かにそんな箇所聖典にでてこないかも。
ユダヤ教からキリスト教の聖書解釈を見れば。。
いやいいや、なにその解釈?となるんでしょうね。
たぶん、油注ぎの代わりに、バプテスマだったんでしょうが、水と油ですね。
36: あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37: するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
38: 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
出エジプト記30章23節からに、油注ぎに使う油の調合法が書いてあります。
主がモーセに直接言われてるので、これが油注ぎの起源だと思います。
同じ30章の33節には、一般人がこれを造ると「民のうちから断たれる」と書いてありますので、イエスに塗られた香油は、正式な油注ぎのものでは無いと思います。
さて?油注がれていないイエスが何故「油注がれし者」と言われるようになったのか???
それは知りませんが、私が何故「油を売ってる」って言われるかは分かりますよ。
仕事しないで、このブログに書いてるから・・・。
そんな油をオッサンに塗ってもらうより、女の子に塗ってもらうほうがよっぽど良いでしょ!
しかしまぁこのルカ7章の記述って考えようによっちゃマニアックなプレイのような雰囲気ですねぇ・・・
ルカにはマニアックプレイの事しか書いてないですが、マタイとマルコには、「ナダルの香油」として知られてる話が出てきますね、元は同じ話だったんでしょうか?
ナダルの香油は女が壺を壊して頭からぶっかけたようですが、こっちもマニアックかも?
旧約の神殿では人間だけではなく、そこいら中に香油をぶっかけたようですね。
神殿と言うところは、臭かったんでしょうね。
生贄の動物を屠るのですから。
神殿が血なまぐさいのは、現代も同じなのか?
すみません、テニスの話になってました。
ナルドです
ヨハネの福音書では、マリアと言う名前が出てきます。
年収分ぐらいの高い香油の様です。
油売ってる場合じゃない。
うまい!!
誰でも水と霊から生まれなければ神の国に入ることは出来ないと言われてます。
末日聖徒では水のバプテスマと按手礼(聖霊の賜物)になりますか。
油注ぎの儀式の象徴するものは、火(油)による清めでしょうから、聖霊を象徴するのでしょうね。
イエス様はバプテスマを受けた後、鳩のような聖霊を受けています。
それが油注ぎを象徴するのかもですね。
油。。よく燃えますからね。
」
「2. イエスの死とマリヤの準備のための油注ぎ
マルタの妹であるマリヤは、他の弟子たちがイエスの死を防ごうとする中、救い主が命を捧げなければならないことを受け入れ、イエスの死に備えて油を塗ったというユニークな方法をとりました。
マリアは自分の財産を使ってスピケナードをイエス様に塗りました。スピケナードとは、「インド北部の山地に生育するナードという植物の根とスパイク(髪の毛の茎)から採れる香りのよい油」のことです。彼女が選んだスピケナードは約300デナリであった(John 12:5; Mark 14:5)。1デナリは1日の労働の対価であり(マタイ20:2)、200デナリで5,000人分の食事ができるとすると(マルコ6:37、44)、マリアの捧げ物は1年分の賃金に近いものでした。
マルコによると、マリアはキリストの死が間近に迫っており、その後に香油を塗ることを認めるために、スピケナードの純粋な原液を入れたアラバスターの「箱」をキリストの頭に塗って差し出しました。アラバスタは半透明の石で、彫刻を施すことで美しい容器を作ることができます。古代の近東では珍しくなかったが、アラバスタはかなりのコストをかけないと手に入らなかった。
ヨハネの福音書によると、マリアは油を取ってイエスの足に塗りました。そして、自分の髪の毛でイエスの足を乾かすことで、自分の頭にもイエスの油を塗ることができました。古代では、生きている人の頭には油を塗り、死体の足には油を塗りました。つまり、埋葬の際に受けるのが一般的な油注ぎだったのです。
ユダは、マリアの贅沢について聖人君子のように文句を言っていました。翌日以降、銀貨30枚(推定100デナリ)でイエスをユダヤ人指導者たちに裏切ることになる彼が、マリアが救い主を敬うために貴重な香油を使ったことに文句を言ったのは皮肉なことです。ユダの不満にもめげず、イエスはマリアを叱ることなく擁護し、彼女の弟子としての行動を受け止め、彼女の行動を預言的だと称賛しました。「彼女は、私の埋葬の形見として私に油を塗るために、この軟膏を今まで取っておいてくれたのだ。貧しい者はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも持っているわけではない」(JST, John 12:7-8)。
マルコとマタイは、マリアの奉仕に対する救い主の尊敬の念を、さらに別の形で示しています。イエスは出席していた弟子たちに向かって、マリアが生前に啓示に心を開いていたことで、後世に影響を与えたことを強調しました。「マリアはできる限りのことをしてくれた。そして、彼女が私にしてくれたこのことは、私の福音が伝えられるところであれば、代々思い出されるであろう。確かに彼女は、埋葬するために私の体に油を塗るために、前もって来てくれたのである」(JST、マルコ14:8、マタイ26:12-13)。
イエスによれば、マリアの行動は、すべての人が生きるために死ぬという救い主の使命を早くから理解し、支持していたことを示しています。彼女がイエスに仕えるために選んだ、敬虔にイエスの足元に注目したことは、イエスが死ぬこと、そして再び生きることを知っていたことを示しています。そして、香水の良い香りが家の中を満たしたように、イエス・キリストの福音の力が世界に広がり、主を愛し従う人々に深い理解をもたらしたのです。
」
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
>マリアの行動は、すべての人が生きるために死ぬという救い主の使命を早くから理解し、支持していたことを示しています。
ーーー
ナルホドそうなんですね。
そうですか足元に塗ったことには、そんな意味が。
一つ一つのエピソードに深い意味がある。
Amazonでクシロ薬局というところで売ってました。
・イエスが十字架に掛けられる前にマグダラのマリアが高価な石膏のつぼに入った
ナルドの香油を死での旅路に向かうイエスの足に塗ったことで有名になった香油です。
・少しカビ臭い香りが死の旅路に向かう人への手向けに使用され、亡くなる、亡くなった方に塗られていました。
http://huntsmanseasonal.blogspot.com/2013/03/the-anointing-in-john.html
最後の段落
https://www.ldsliving.com/Jesus-Women-4-Powerful-Moments-from-the-New-Testament/s/78224
の
2. Jesus’s Imminent Death and Mary’s Preparatory Anointing
から
S・検索は https://search.yahoo.co.jp/search?p=anoint%20jesus%20lds&ei=UTF-8
で御座ったとでんがな・・
なかなか前進しない私ですが、ここ(コメント欄)で引っ張ってもらってます。
Monte S.Nyman "The Great are the words of Isaiah" Authorship of Isaiah (253 ~258)
イザヤ書の文献批判から離れて新しい取り組みを感じたのが L,La Mar. Adams "A Scientific Analysis of Isaiah Authorship"(151 ~163p)です。そして今回翻訳されたアブラハム・ギレアディの「終わりにことを初めから」です。17pに「イザヤ書の著者は一人であるという証拠」に説明されています。 紹介した書物は古いものであり、21世紀に入っての研究がどのようなものであるのかは知りません教えをいただければ幸いです。
つまり書いた人(編纂した人)は、その預言がどうなったかを知ってる人ですからね、つじつまの合うように書くのが自然じゃないかな?
如是我聞でしょ?
仏教の経典は「如是我聞」で始まるとか聞きました。
釈迦の弟子が「私はこのように聞きました」と釈迦の教えを伝えるようです。
私がこの言葉が好きなのは、実に正直だからです。
自分はこのように聞いた、は「私はこのように解釈した」とも取れます。
私が思うに、預言者も「私はこのように聞きました」「私はこのように解釈しました」と言う事なんじゃないでしょうか?
その預言者の言葉を何世代にもわたって伝承し、それを一定の目的で編纂したのが旧約聖書だと思っています。
そこには、何千年にもわたる民族の歴史とその思いが有り、民族の誇りと苦悩と希望が織り込まれているのでは無いでしょうか?
私は、それを「神の言葉」と言う一言に帰してしまう気にはなれません。
「神の言葉」にしてしまうと、人間にはただ受け入れるしか方法が無いからです。
私は神がそんな事を望んでいるとは思えないのです。
モルモンの基本理念の一つは「自由意思」です。
聖典がただ「神の言葉」であるなら人間は「信じるか、信じないか」を選ぶ自由しかありません。
私は別のスレッドで、「聖典は問題集です」と書きました。
聖典は、地図でもなく、ガイドブックでもなく、辞書でも法律書でもないと思っています。
聖典は、「どう生きるんだ?」「今何をすればいいのか?」「何が正しいの?」といくつもの問いを突き付けてきます。
もし、聖典が「神が書いたもの」なら、そこには答えしか書いていません。全く考える余地が残されていないことに成ります。
ただ、聖文の解釈と言う実に退屈な作業をするだけで終わってしまいます。
しかし、もし聖典が人間が書いたものなら、民族の歴史の中の出来事や、その時々の思いを書いたものなら、その中から人間の知恵を探し、人間の本来の姿を想像し、人間の未来を作り上げると言うワクワクする作業が生まれてきます。
私は聖典の価値はそこに有るのだと思います。
イザヤは何を聞いてどう思ったのか?なにを訴えたかったのか?それはイザヤと言う一人の人間がしたことなのか?長い時代と多くの人の思いが「イザヤ書」の中にどうかかわっているのか?
私はそう思って飲む方が楽しい気がします。
飲むじゃなくて「読む」です。
酔っぱらって書いてるんじゃないって・・。
旧約聖書はどう読んでも「イスラエル」と言う一つの民族の話です。
そこにはバール神をはじめ多くの神が出てきます。
エロヒムか、エホバかヤハウェか?どの呼び方が適切なのかは分かりませんが、この方は間違いなく「イスラエル民族の守護神」です。
その、ある民族の守護神が時代を経て「唯一神」に変わっていきます。
旧約の中では、他の神と同列に置かれている神が、いつどうしてなのか?「全人類の唯一神」になってしまうわけです。
私も教会に入った当初は、キリストの贖い、神の御子キリスト、等等の話を聞き、いやその前から概念として「この世を作った神は唯一方」と考えていました。
しかし、聖書を読んでそこに書かれている神が私の概念の中に有った神とは一致しないと思うようになりました。
モルモン教会では、そこに、イスラエルとの養子縁組だとか、色々と整合性を取ろうとしているのですが、深く納得がいくものでは有りません。
と言う事で、今のところの私の考えは、聖典は人間が書いたもの、と言う理解です。
人間が書いたものでも、先に書いた様に、神が書いたものと考えるより、有益だと思います。
あ、
大根大 (Unknown)さん、名前とタイトル入れ替わってます。
名前(Unknown)だとよろしくないいんです。。
>入谷の鬼子母神 (豚)
2021-09-07 16:42:35
私が聖書が人間によって書かれたものだと思うのは、そうあって欲しいと言う願望と、
もう一つは「唯一神」と言う概念に対する論理的矛盾です。
>
神様・仏様・キリスト様。。
末日聖徒だと「誰がホントの唯一神」なんて古臭いこと教えませんよ。
割と日本人的でまぁ、それぞれ信じたい神を信じて仲良く信仰しましょう。な感じでいきましょうよ。的かな。
預言者オムナイ様のご託宣が下った!!!
マジ、ラーメン食いテー!
ソーメン?
きしめんかも。
>マジ、ラーメン食いテー!
どーしてもラーンが食べたい!!という発作きますよね。
つけ麺ってラーメン界の異端かも。
食えねぇ。
モルモン教は異端なのでキリスト教ではありません。
つけ麺はラーメンではありませんと同義語かな。
スープカレーもカレーじゃないとか。。
うまけりゃそれでいい。
食えねぇ。
会社のすぐ近くにつけ麺の店が有りますが、いつも満員で、食えねぇ。
並んで待ってまで食べるのは嫌な性格でして。
食べ物に「異端」は無いです。
食品開発は、ありとあらゆるものを試してみるそうです。
その中で美味いものが残るんですね。
モルモン書も、美味ければ残るでしょう。
聖書も美味かったから残ったのだと思います。
豚骨ラーメン食いたい!! 共食いだけどー。
教会幹部も神殿で第2の油注ぎの儀式(第2のエンダウメント?)を受けたからといって選ばれてるというのはどうなのかなぁぁ??
聖文では主イエスからの永遠の命を授かるとの約束の言葉を直に受けることが選びとありますな(聖句ガイド p257 召しと選び)
たまWEBさんって、モルモン書がフィクションかどうかという点をしばしば口にされるようにお見受けしますが、気にしておられるのですか?
私はモルモン書はジョセフの創作だろうなって思ってますけど、ここでそれをあまり強く主張することは色々と面倒を引き起こすので差し控えますが、創作物でも聖典であるって受け止め方はアリなのではないかと。
モルモン書は真実(ノンフィクション)だから信じなさい、でないと救われません、救われたければ信じなさい、って論法は今の時代では通用しないと思うんですよねぇ・・・。
信ずるものにはしるしが伴うと聖文にはありますが、フィクションであるということは(フィクション信仰?)そのしるしの意味はどんなふうになるんでしょう?? 目に見えない事柄、たとえば霊の存在や死後の世界等はフィクションとはあまり聞かないですが・・
しるしとは霊的な事柄??
ウソ・いつわり vs 真実・真理のものさしからは、フィクションとなればモルモン書の主張するところは限りなくうそにイコール、ジョセフは偽予言者だったということになるんでしょうかね・・現代のモルモン教会員の中に現れ出でし新しい証人たち、モルモン書はフィクションであると証しする?!・・
そうした話題については、私には持論もありますし、説明もできますが、ここでそれをすると非常に嫌がる方がいますので、差し控えさせていただかざるをえません。
いつかどこかで適当な機会があれば、また。
「あなたは、アメリカに行ったことが有りますか?行った事が無くてもアメリカが有ることは信じているでしょ。神様を見たことが無くても信じることは出来ます。」
確かに、これも理屈だ。
人はほとんどの事を確認しないで信じている。
1192年鎌倉幕府誕生・・なんて覚えたけど、教科書に書いてたのを信じただけで、何の確認もしていない。
全ての事を確認したから信じようとすると生きて行けない。
でも、確認しなくても信じていい物かどうかはおおむねわかるものだと思う。
気になる事や細かい事は色々な情報を集めて、信じるべきかどうかを判断すればいい。
最近は便利なWEB検索と言うのも有る。
ただ便利では有るけど、確実ではない、そこに出て来る情報の吟味はやっぱり自分でしなければならない。
情報が多すぎて、余計にわからなくなると言うのが現状かも知れない。
WEB上の情報を集めるのが好きな人が、その情報を正しく分析できないのは何故だろうか?
それは、自分についての情報が不足してるからではないだろうか?
多くの情報の真贋を判断してるのは自分なのだから。
やっぱりどうしても創作という結論・結果になるケースが多い?!
使徒で教会歴史全6巻執筆したB・H・ロバーツ(1857 - 1933 あ、使徒でなく七十人幹部だったね 1888 - 1933)は最後はモルモン書はフィクションと確信するで終わった御仁だったんでは?!
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=b%20h%20roberts&ei=UTF-8
>やっぱりどうしても創作という結論・結果になるケースが多い?!
どうでしょう・・・
学術的に探究して失う程度のものであれば、それは信仰と言えないのでは?もちろん学術的な研究に対して、屁理屈をこねまわして護教するのも信仰とは言えないと思いますが。
教義と聖約88:118には「研究によって,また信仰によって学問を求めなさい」とあります。これは信仰を持っていれば学問を身に着ける必要はないという意味ではないし、信仰のほうが学問より上という意味でもない、と私は理解しています。
その88章の場合、ジョセフの言説に反するような前提での学問研究は矛盾なのでしょうし、意味としては学問という信仰通じて新たな啓示に導かれるといったことなのかも。
その話、昔どこかで読んだような記憶があります。彼は少なくともモルモン書の記述内容が実際のアメリカの歴史とは合わない部分があることには気づいていたようです。信仰の危機に陥るかどうかは、モルモン書をどう受け止めるかに掛かっているのではないでしょうか。
クリスチャンの中には、人類の起源がアダムとイブであるとかノアの洪水が実際に起こったと文章通りに受け入れている人もいれば、聖書を学術的に研究してあれは伝承や寓話をまとめたものだと理解する人もいるわけです。でもどちらもクリスチャンとして信仰は持っているのですね。
日本神話ではイザナギとイザナミが日本を作ってその子孫が天皇なのですが、この話を真実だとして受け入れない者は反日主義者である、日本から出ていけ、って無茶を言う人はいないでしょう。モルモン書についてもそんな感じの受け入れ方は許されるのかどうか・・・
おっと、ついしゃべりすぎてしまいました!
と話題が流浪しはじめたので、多少戻しておきますね。
旧約聖書のイザヤ書はアモツの子イザヤ一人が書いたように偽装してあるわけですよ。
なので、イザヤ書もフィクション
しかし、人を救いに至らせる尊い聖典の書と多くの人に受け入れられている。
聖書もそう、モルモン書もそう。
したがって、フィクションか史実かではなく、宗教書としてどうなのか?が問われなければならないのでしょうね。
モルモン書は実に有益な宗教書ですね。
実感も統計もそれを示している。
「71 さらにまた、わたしたちは月の栄えの世界を見た。見よ、見よ、これらの者は月の栄えの世界に属する者であり、その栄光は、月の栄光が大空の太陽と違っているように、御父の完全を受けた長子の教会の栄光とは違っている。
・・
75 これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。
」76
❝「1892年の注解書の中でルター派神学者ベルンハルト・ドゥーム(Bernhard Duhm)が、56-66章を第三の預言者に帰されると主張して以来、バビロン捕囚からの帰還の時期に活動したと考えられる預言者による『第二イザヤ書』(40~55章)とさらに後代の預言者によるとされる『第三イザヤ書』(56~66章)が自由主義神学では区別される。
」
高等批評って・・学者さんは高い所目線ピッタリの言葉・・
学者さんが勝つのか、それとも回復の予言者が勝つのか??
❞
クリスチャンはベルンハルトの弟子になるんでしょうか・・ベルンハルトと同じ栄光を受け継ぐのか?!
ベルンハルト・ドゥーム
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%A0&ei=UTF-8
イエスやイエスの教えに従った人たちは、当時のユダヤ教指導者から見れば「信仰の危機」の人達に見えたことでしょう。
しかし、後の世の私達は、当時のユダヤ教指導者の方を「信仰の危機」と見ているのでは無いですか?
主教指導者から「信仰の危機」って言われるようになれば、一人前の信仰者なんでしょう。
信じて疑わなければ、何の真理も見えてこない。
14才のジョセフスミスは間違いなく「信仰の危機」だったでしょ?
宗教指導者から です。
最近間違いが多いな~ 危機ですか?
以上のような聖書に関する学術的通説と、ジョセフが空想した古代アメリカ世界を同列にフィクションと呼べるかどうかという疑問はさておき、fairlatterdaysaints.org などのモルモンの護教派サイトでも最近はイザヤ書の全てをイザヤが書いたのではない説(説というか聖書学ではほぼ常識ですが)については受け入れているようです。
ただし彼らは、第2イザヤという人物の存在は認めても、第2イザヤが書かれたのがバビロン捕囚後だとは決して認めません。それを認めると、なぜバビロン捕囚前にエルサレムを出たリーハイ一行がその書を持っていたのか、という矛盾を説明できないからです。そこで彼らは「第2イザヤも含めてすべてはバビロン捕囚以前に予言として書かれた、だから何も矛盾はない」という主張をしていているようです。
ということで、それまで、モルモンのよりもクリスチャンの教えを受け入れ改宗ということでいいのかな。
その時真実と明らかになったとしたら、また、何かの縁があって?!そこからモルモニズム信仰再度スタートしたらいいんでしょうかね・・
まずはその前に、再臨だとか福千年だとかを信じるか信じないかじゃないかな?
こんな言葉を残しています。
「モルモン書は人を救いに至らせる霊感された虚構(フィクション)と見ることができるか?」答えは「もちろん」である。
私はモルモン書の叙事詩的な物語に深い関心を覚える。
史実性を巡る論議は周縁的、偏狭的で、取るに足りないことに思われる。
-北カロライナ大学グラント・ハーディ教授(LDS教会員)-
ーーーーーー
私自身もモルモン書には史実が含まれると信じていますが、
信仰に対する優先順位はだいぶ下の方です。
しかし、かつてはそのことが信仰の危機を招く重大問題でした。
言い換えれば、史実性の問題で信仰の危機を招くというのは、
まだまだ「ひよっこ」ってことなんでしょうね。
「56 しかし、わたしを畏れず、わたしの戒めを守らず、利を得ようとして自分のために教会を築き上げる者、また悪を行い、悪魔の王国を築き上げるすべての者を、まことに、まことに、わたしはあなたに言うが、わたしはこれらの者を乱し、おののかせ、中心までも震わせよう。
・・
67 見よ、これはわたしの教義である。すなわち、だれでも悔い改めてわたしのもとに来る者は、わたしの教会である。
68 だれでもこれ以上のこと、あるいはこれに及ばないことを告げる者は、わたしにつく者ではなく、わたしに反対する者である。それゆえ、その人はわたしの教会に属する者ではない。
」10
この場合、教会員一人々が、或いは “だれでも悔い改めてわたしのもとに来る者”が教会って。
どちらかといえば教義と聖約もフィクションや宗教書というより、聖典・神の言葉と受け取ってるほうなので・・
将来の長子の教会は、末日聖徒イエス・キリスト教会がそのまま移行ではなく、毒麦と小麦のたとえ話の事象等々を経てのことだったりで、やっぱ個々人だよね・・
たとえ話 毒麦 小麦
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88%E8%A9%B1%20%E6%AF%92%E9%BA%A6%20%E5%B0%8F%E9%BA%A6&ei=UTF-8
唯一神の教会、完全な書物、最も正確な書物・・
何て言いまくってたのが、「史実かどうかはどうでも良いのよ・・・」なんて言い出すような宗教は、「取るに足りない」と言われても仕方ない。
オムナイさんも取るに足りる人間になってくださいね。
と、こんな感じでモルモン宣教師はモルモン書の証を伝えるじゃないですか。
これ、どう考えても同調圧力で求道者を追い込んでいますよね。
こういうのってもう止めたほうがいいと思うんですよね。
聖書は神の言葉だから、そのまま歴史的事実に決まっている。キリスト教徒は長い間こう信じてすませてきたが、今日こう考える人びとは少数派だ。19世紀から発掘が進み、ノアの洪水がバビロニアの洪水神話に由来することなどが明らかになったからだ。
天地創造やエデンの園、バベルの塔などの物語は、神話である。
ではそれに続く、族長(アブラハムら)の物語、モーセと出エジプト、
サムソンら士師たちの活躍、ダビデ王やソロモン王の繁栄、王国の分裂とバビロン捕囚、神殿の再建……
といったユダヤ民族の歴史は、どこまでが証拠のある歴史的事実なのか。
《いまだに日本の歴史教科書の中には、モーセの出エジプトを史実として、具体的な年代とともに記述をしているものがある》
ーーーー
「救いの教義」にはノアの洪水が地球のバプテスマである。とか、
宇宙の恒星は太陽も含めてすべて日の栄の状態である。とか
創造の業は6千年で行われてとか書いてありました。
預言者の著作でです。
「神の言葉」は時代を反映し、史実を教えてくれないのは明らかですね。
末日聖徒の中に2、3イザヤを認める人々が多く出てきているということは宗教として健全に成長していると感じます。
そういや私の若いころモルモン書のタイトルはモルモン経で、各ページの上のほうには紀元前○○年~○○年って堂々と書いてありましたなぁ・・・(笑)
まぁここのコメント投稿者の方々は皆さんご存じですよね?え、もう忘れた?そんな細かいところまで読んでない?
はっきり「歴史的事実」だって言ってたからね。
でも、分が悪くなってくると
>史実性を巡る論議は周縁的、偏狭的で、取るに足りないことに思われる。
卑劣だね。プライドも信念も何にも無い。
そんな豚さんに懐かしい映像を・・・
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「古代アメリカは語る(Ancient America Speaks)」1972年制作
https://www.youtube.com/watch?v=_I9LDLcIh9g
「古代アメリカは語る」は、モルモン書に記録されている時代と同じ時代に焦点を当てた、中央アメリカと南アメリカの考古学ツアーです。ブリガム・ヤング大学の古代聖書学准教授であるポール・チーズマン氏が司会を務め、各地で撮影されたツアーでは、高度に発達した文明の証拠を見ることができます。
主な発見や遺物を見ていくと、「古代の住民は、優れた金属職人、職人、建築家であることに加えて、驚くほど医療技術に長けていました。麻薬を使いこなし、異常妊娠を治療し、頭蓋骨の手術を成功させた」。
この映画は、現代人の発見を追いながら、学者がこれらの人々について明らかにしたことの多くが、何世紀も前に金属板に記録され、それがモルモン書に翻訳されたことを指摘しています。また、これらの過去の文明の人々は、「...宗教に大きな関心を示していた」ことを示しています。多くの興味深い発見によると、宗教は彼らの生活の中心でした。彼らの宗教的行為には、高度に組織化された神権があったことを示す多くの証拠があります。これらの初期のアメリカ人は、世界の創造、大洪水、閉じられた箱舟、高い塔の建設、言語の混乱などの物語を、旧約聖書に書かれているのと同じように理解していました。
この映画は、聖霊から得た知識に基づくモルモン書の真実性の証言で締めくくられています。
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・・・だそうです。
後世になってイザヤの弟子たちはバビロン捕囚を、イザヤの予言的中としてイザヤ書に織り込んだ。ってことでしょうね。
これは古代の宗教指導者にとって適切な表現方法だったと思います。
ユダヤ人の紡いだ新・旧の聖書は、長い間史実と多くの人々が思い込むくらいシステマチックにできているということでしょうか。
さすが、優秀な民族。
一般的には、ね。そういう理解。
でもだとするとバビロン捕囚前にエルサレムを出発したはずのリーハイ一行がその記述されたものを持っているのはおかしい、つまりモルモン書は・・・
という指摘なんですよね。
>という指摘なんですよね。
それは、ジョセフスミスが、イザヤショは全部イザヤが書いたって思ってたんやから、しゃーないんちゃうの?
ここで論じ合っている皆さんのような層が、日本ではなかなか見られないのが残念です。(私が知らないだけかもしれません。あるいは表に出てこないか、層をなす前に教会から去ってしまうのだと思います。)
モルモン書やイザヤ書についてここで交わされている議論、私もほぼ同じ理解で受け止めています。
Twitter やfacebookのようにその都度、likeなどの反応ができれば、多く「同意」「同感」のコメントがあり、有難く思っています。
>という指摘なんですよね。
>それは、ジョセフスミスが、イザヤショは全部イザヤが書いたって思ってたんやから、しゃーないんちゃうの?
第二イザヤについても様々な考え方があるみたいですね。
・モルモン書はジョセフ・スミスの創作物だから、脱出後の記述があるのはその証拠
・コンピュータ解析によるとイザヤ書は一人(一団体)の著作物だから、問題ない。
・ラバンの真鍮版には初期のイザヤ書が載っていて、JSはそれを金版から欽定訳を参考にして翻訳した。
(イザヤ1章は後年の加筆であるが定説だがモルモン書のイザヤ引用は2章から始まっていることは、それを証明している)
モルモン書には史実が含まれる私には最後のが、しっくりきます。
おそらく、JSにモルモン書を構築する力はなかったでしょう。
個人的にはモロナイの存在が怪しい。
彼は連綿と金板を引き継いだニーファイの子孫かもしれませんね。
金板を引き継ぐまでの数年間トクトクと自分の先祖の歴史を聞かされたのかも。
ほとんど金板を見ずに語る姿はそれを示していると思います。
予言者・預言者ジョセフに降りた主からの啓示はやはりそのように将来成就するんでしょうかねぇぇ・・
「75 これらは、世の高潔な人々でありながら、人間の悪巧みによって目をくらまされた者である。
」
やはり、月の栄光受け継ぐ人たちなのかなぁぁ・・
諸行無常とか色即是空とか。。あの世の存在も「知らんけど。。」みたいな哲学でしょうか。
キリスト教はその辺りが思い込みが激しいというか、ガンガン追求する感じ。
間違いを気にしないで探求する感じ。
科学的事実も真理の一側面であって、古代にはお盆のような大地も「球体」だと証明されれば、受け入れる。
進化論も矛盾しないと受け入れる。
キリスト教あればこそ、科学は発展したのでしょう。
末日聖徒も見習って、過去のハズレ予言など気にせずトライアンドエラーでガンガン真理追求してほしいです。
ホントのホントを知りたいオムナイです。
間違いを気にしないで探究する・・
キリスト教あればこそ、科学は発展した
大胆なオムナイさんです。
9/6, 7日の書き込みに対するお返事です。遅くなってすみません。大変よく研究しておられる様子が分かり、驚き、また敬意を表します。
イザヤ書に関する、保守的な立場からの参考文献について。
Edward J. YoungのAn Introduction to the Old Testament は持っていて、しばしば参照しています。イザヤの複数著者説など頁を割いて詳しく論じていますね。
Sidney B. Sperry のThe Spirit of the Old Testament も所有しています。イザヤ書に2章割いています。昔読みました。
Monte NymanはBYUに留学した時、クラスを受講しましたが、典型的護教の姿勢で彼の立ち位置が分かった経験でした。
Avraham Gileadi は私と同時期に在学していた、ユダヤ人で改宗した人物でした。ヘブライ語聖書やイザヤ書に精通し、著書も多いですが、独特の解説や註解を出していて、必ずしも展開する説はldsの学者が受け入れるものではなさそうです。彼のイザヤ書は一人の著者によるという説は無理だと感じます。彼のレベルは非常に高いですが。
21Cにどのような参考文献が出ているかについて。Grant HardyのUnderstanding the Book of Mormon, David Bokovoy の“The Truthfulness of Deutero-Isaiah: A Response to Kent Jackson” 2016.をあげることができると思います。
このブログの8/31 「イザヤ書理解を深めてくれた参考文献10点 [ 1 ]」をご覧ください。
「油そそがれたクロス 」 イザヤのメッセージ(31 竿代 照夫牧師
イザヤ書45章1-7節
・・・
イザヤ書後半部分がバビロン捕囚からの釈放をテーマとしていることは、今まで何度かお話しました。今日取り上げるのは、その釈放の立役者となったクロスという人物です。ペルシャ王クロスは、BC550年ごろ活躍し、イスラエルの釈放を行いました。そのクロスがイザヤ書では3箇所(44:28、45:1,13)名指しで預言されています。今日は、最初にイザヤが描いているクロスについて学び、それから歴史の中で活躍したクロス王とを比較します。
A.イザヤ書の描くクロス
1.これは予言か、事実の記述か?
・150年後の予告はあり得るか:
イザヤが活躍した年代はBC700年ころ、クロス王が活躍した年代との隔たりは150年にもなります。そんな昔のイザヤが、クロスの名前と人物像を予告するなんて、常識では考えられません。その「常識」に従う人々は、このクロスの予言は予言ではなく、クロスの同時代に生きた「第二イザヤ」が、予言の形を装って書いたのだと主張します。
・歴史を見渡しなさる神:
しかし、この議論は、将来のことを言い当てることは不可能であるという「常識」に囚われた議論です。神は歴史を動かし、時間を越えたお方です。丁度高い山から、はるかふもとの列車を見ていると、その行く先が手に取るように分かるように、神は人間の時間・空間をはるかに越えたところから歴史を見ておられます。150年の差は何も問題ではありません。
・神の予知の強調:
さらに文脈的には、三箇所の「クロス予言」は、偶像の虚しさとの対比でなされている点に注目しなければなりません。44:9の「偶像を作るものはみなむなしい。・・・彼らの仕えるものは、見ることも出来ず、知ることも出来ない。」と偶像の無知ぶりを示し、将来を予見なさる真の神を強調します(44:7)。つまり、偶像は将来を予言し得ない、それに比べて、真の活ける神は将来を予言し得給う、というのがクロス予言の中核なのです。もし、クロス王を知っている「第二イザヤ」が、将来を予言し得給う神の力の例としてこの記事を書いたとすれば、その第二イザヤは大変な詐欺師と言うことになりましょう。
2.クロスの呼び名
44:28-45:7は、クロスへの呼びかけです。その中でクロスの呼び名が二つありますので、注目しましょう。
・「わたしの牧者」(44:28):
これは、「わたし」と自らを呼びなさる神が、その民を牧するために立てなさった羊飼いという意味で使われています。良く考えると、これは不思議です。旧約聖書を見ると、この称号は、ダビデ王が受けたもの(2サムエル5:2)、ダビデに続く王たちが受けたもの(1列王22:17)、そして、来るべきメシアを予告したもの(ミカ5:2,4)と同じです。その名誉ある称号が、異邦人であるクロスに与えられることにイスラエル人は違和感を覚えたことでしょう。実はそこにこそ、イザヤのメッセージがあるのです。ダビデの家が神に対する忠誠を捨てるならば、神は異邦人の中からダビデ的なメシアの役割を担う人物を起こし得給うというのがこの場所での大切なメッセージなのです。
・「主に油注がれた者」(45:1):
この言葉も、イスラエルの王、祭司、預言者に使われるものです。この場所の特徴は、それが選民以外の人に当てはめられたことです。それは神がイスラエルだけの神ではなく、全世界の神であることを示します。正にクロスは、メシアの一つの側面を示します。
3.クロスの神との関係
クロスは、神に近い人物として紹介されます。
・「神に右手を握られている」(45:1):
クロスの活動は、彼自身の野心や資質に基づくものではなく、神の導きと力づけによることを示します。いつぞや、私が小学三年生の折、習字の展覧会用に字を書かされた話をしました。私の背後に居た先生がぐっと私の右手を握り、「もみじ」の三文字を書かされました。私の技量とは関わりなく、船橋市の展覧会で銅賞を貰いましたが、その時のことと重ね合わせてクロスの活動が想像されます。正に彼は神の用い給う器だったのです。
・「神に名を呼ばれる」(45:4):
クロス自身が主を知らない人物であることが4節、5節で繰り返されていますが、しかし、主は彼を知り、呼び出しなさいます。そして、彼を通して大いなる業がなされるときに、彼は、その神を認め、その神に動かされているという自覚を持つようになるのです。それをしめすのが3節後半です。「それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」この真理は私達にも当てはまるのではないでしょうか。私達は多く神を知らず、神の道に離れて生きていました。神なんかいない、いても私達は知られていない、と。しかし、私達が神を知らなくても、神は私達を知っておられ、導いてくださいます。それどころか、「私達がまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかに」(ローマ5:8)されたのです。何と素晴らしいことでしょうか。
・「神に奮い立たされる」(45:13):
「わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ、・・・」と記されていますが、これもクロスのことです。自分の頑張りではなく、神の霊感が与えられて、クロスはその業を成し遂げます。
4.クロスの役割 ・・・・
」
http://igmtokyo.com/sermon/2008/09/sermon080914.html
聖書の読み方「バビロン陥落のダリウスは何者」(聖書の考古学」2019.8.11(B)
投稿者
作成者: ykamada
投稿日
2019年10月22日
https://okicochrist.org/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E8%AA%AD%E3%81%BF%E6%96%B9%E3%80%8C%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%B3%E9%99%A5%E8%90%BD%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85%E3%81%8B/
懐かしい・・・
この頃ってたしかモルモン教会ではアメリカ先住民はレーマン人の子孫であるって声高に言ってたような気がします。キンボール大管長に至っては、ハワイの現地人はモルモン書に登場するハゴツの子孫である、と宣言したのでしたね。
その後DNAの研究が進み、アメリカ先住民とユダヤ人の血縁関係が否定されてしまったので、教会は「全てのアメリカ先住民がレーマン人の子孫であるなどとは言っていない」と態度を変えたのでした。現在では「ごく一部の地域か民族がレーマン人の子孫であるのだろう」と言うことらしいですが。
でもこの「古代アメリカは語る」ではメキシコや南米にある遺跡を紹介してモルモン書との関連を匂わせていますね。この映画の最初にはでかでかと「末日聖徒イエス・キリスト教会 大管長会ならびに十二使徒定員会監修って出てくるんですが・・・
こうした経験の積み重ねが私に「モルモン書は創作」と確信させたのでした。
んがしかし、ニーファイはもち予見していたんでしょう、モルモン書には
「31 人に頼る者、すなわち肉を自分の腕とする者はのろわれる。すなわち、聖霊の力によって与えられる訓戒ではなく、人の訓戒に耳を傾ける者はのろわれる。
」2ニーファイ28
とはありますな・・
言語の面では・・
「歴史言語学者ブライアン・スタブズ氏によると、過去30年ほどの比較研究の結果として言えることは、アメリカ・インディアンのナバホ族やホピ族等の言葉を含むところのユト・アステカ語族とヘブライ語やエジプト語とは、音韻、意味や文法的なのも含め、かなり、超、決定的といっていいくらい、似かよってるっちゅう話です・・・・ヘブライ語とは600、エジプト語とは400近くの例証挙げられるって・・・・先住民の言語研究は遅々として進んでないということだ、一つの語族で100年くらいかかるみたいなこと言ってます。
ブライアン・スタブズ氏の発表(2006)を筆記したもの(英語)
http://www.fairlds.org/wp-content/uploads/2011/11/2006-Brian-Stubbs.pdf
たまWEB、もち、学者じゃないですから、詳しくはわからないし、完訳もできませんが、斜め読みしてて、例によって、直感で、すげぇぇと感動したわけです。いかにモルモン書が、神聖な書物であるかと、いたく感じ入ったというか・・・・上記の英語サイト、たまたま先週みかけたばかりですが、何故、多少ともわかりやすいかというと、一般向けに、発表したものですね。視覚教材とかないけど、録画も(YOUTUBEのURL、下のほうに出てます)。スタブズ氏、著書刊行したようで、そういったのも日本語に訳されたのあれば一応斜め読み挑戦したいなぁぁと・・・・誰かぁ、日本中の学者さん、翻訳家さん、お願ぁぁい・・・・
それと、スタブズ氏については、去年9月、図書館で、飛鳥昭雄氏の『失われた天空のピラミッド「ラピュタ」の謎』(学習研究社 2011/7/20)を拝見、情報得てましたんです。ちょいと引用しますと、
「・・・・インディアンやインディオの言語は北米で200~400、南米で450ほど確認されている・・・・最古のインディアンを自称するホピ族の言語はユト・アステカ語に属するといわれている。興味深いのは、最新の研究によると、このユト・アステカ語が古代セム語、とりわけヘブライ語に非常に近いことがわかってきたのである。言語学者ブライアン・スタッブズによると、原ユト・アステカ語と原ヘブライ語の間には意味が同じ単語の音韻がきれいに音律対応するという。音律対応するということは、両者の類似性がたんなる語呂合わせや偶然の一致でないことを意味する。」(p110)
ユト・アステカ語族の地理的範囲は、おおざっぱに、アメリカ合衆国西部(北はアイダホ州)からメキシコ西部にかけて。この語族の言語を話す人口は、メキシコ側では130万人くらいか。
南北アメリカ・インディアン/先住民の言語は約2000種に及ぶと、そのうちほぼ半数は過去2,3世紀のうちに消滅。で、この2000ほどの言語は157の語族のどれかに属する。んで、この157の語族の一つが、ユト・アステカ語族というわけ。157もあるなんて、超多すぎじゃぁ・・・・
ユト・アステカ語族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB%E8%AA%9E%E6%97%8F
」https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/10d87524c569d7b8866a044d628f12a5
といったのも・・
ガリレオの例を挙げるまでもなく、キリスト教は科学の発展を妨げこそすれ、手助けには成っていない。
モルモンの護教系サイトでしかお名前を見つけることはできませんでした。
ところでこんな興味深い記事を見つけました!
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<日本語とヘブライ語の共通点>
日本語とヘブライ語の共通点は多く、
「ありがとう」、
「さようなら」、
「悪(ワル)」、
「憎む」、
「困る」などと挙げればきりがない程多く、なんと、約3000語も共通する言葉あることが解っています。また、カタカナとヘブラ
イ語は、とてもよく似ています。
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(http://wtar00.seesaa.net/article/471896944.html)
でもねぇ・・・日本人がイスラエルに行ってそのまま会話が通じたという話は聞きません。同様にアメリカ先住民の言語とヘブライ語に類似点があると言ったところで、果たしてアメリカ先住民がユダヤ人とそのまま話ができるのでしょうか?
「日本人とユダヤ人」がベストセラーになったころ日ユ同祖論というのが流行しまして、日本語とヘブライ語には共通点がたくさんあるという言説がまことしやかに流布されていましたが、日本語学者の金田一京助氏によれば、そうしたこじつけを行えば万葉集は英語で書かれていたと強弁することも可能だとか。
金田一京助氏ではなく、息子の金田一春彦氏でした。
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国語学者の金田一春彦氏は、昭和31年7月号の『文藝春秋』に、「万葉集の謎は英語でも解ける」という軽妙な批判文を発表した。
「安田徳太郎博士のメスの使い方は無茶苦茶だ。あの方法でやれば日本語は地球上の何語とでも結びつく。」とリードのついたこの文章のなかで、金田一氏は、たとえば、つぎのような例をあげる。
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http://www.yamataikokunokai.com/yasumoto/tyosyo49.htm
波多力 ・・ アブラハム、イサク、ヤコブなどイスラエルの「族長(パトリアーク)」の意
波多力 景教
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E5%8A%9B%20%E6%99%AF%E6%95%99&ei=UTF-8
新撰姓氏録 秦 波多
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2%20%E7%A7%A6%20%E6%B3%A2%E5%A4%9A&ei=UTF-8
(聖武天皇 詔(741年)にある景福も景教用語・・
聖武天皇 詔 景福
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%20%E8%A9%94%20%E6%99%AF%E7%A6%8F&ei=UTF-8
"景福" ネストリウス
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E6%99%AF%E7%A6%8F%22%20%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9&ei=UTF-8
)
秦の始皇帝の父、呂不韋はイスラエル人レビ族説も・・
秦氏 呂不韋 ”レビ族”
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%A7%A6%E6%B0%8F%20%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B%20%E2%80%9D%E3%83%AC%E3%83%93%E6%97%8F%E2%80%9D&ei=UTF-8
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%22lu%20buwei%22%20levi&ei=UTF-8
秦氏 弓月君 イスラエル
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%A7%A6%E6%B0%8F%20%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B%20%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB&ei=UTF-8
東国に多い人物埴輪・・ユダヤ人そっくり・・
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%20%E5%9F%B4%E8%BC%AA&ei=UTF-8
「『DNAでわかった 日本人とユダヤ人の親戚関係 ~40%の日本人DNA遺伝子(Y染色体DNA、YAP(ヤップ)遺伝子)はユダヤ人との強いつながりを示す~ 久保有政』 古代ユダヤ12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統
」http://aikokutaro.blog.fc2.com/blog-entry-263.html
yap de ユダヤ 遺伝子
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=yap%20de%20%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%20%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90&ei=UTF-8
↓
波多力(はたりょく)
↓
秦氏(はたし)
ヨシ!これだけ言葉が似てるぞ、これが日本語とヘブライ語の類似性の証拠だ!
と言うのなら何でもアリですね・・・
ありがとう
↓
アリゲーター
おはようございます
↓
オハイオ州
ヨシ、これが英語と日本語の類似性の証拠だ!と言ってるみたい。
大根大さんが聖典理解の面でますます前進されますように。
肩凝りから右腕の痛みに広がり、苦労しています。
私の発信はlds(日本)であまり見かけない方向からのものですが、へえ、と思いながら見ていただければ有難いです。
・・・
日本の法然(1133〜1212)と親鸞(1173〜1263)らは善導の著作から多大の影響を受け、法然は自著の『選択本願念仏集』(1198年作)の最後に、善導は阿弥陀如来の化身と書いたほどで、親鸞も『高僧和讃』(1248年ごろ作)で同様のことを書きました。・・
"
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29724/20210714/shin-keikyo-55.htm
音楽法要
https://www.youtube.com/watch?v=wdNvX6fa_lw
http://j-soken.jp/ask/6897
↓
>アリゲーター
>おはようございます
↓
>オハイオ州
>ヨシ、これが英語と日本語の類似性の証拠だ!と言ってるみたい。
これって、原田伸郎の得意分野?
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%8B%82%E8%8F%BB%E7%8E%8B%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E5%8A%9B&ei=UTF-8
「Bō-duō-lĭ波多力(MC *pa-ta-lik, *pa-ta-lik; LMC *pua-ta-liəˆk)という名のFúlínの王(王wáng)が最初の使節を送ったと記録されており(A.D.643)、最後の使節(A.D.742)には無名の王が言及されています。 フーリンの送り主は
」Deepl
lmc late middle chinese 近中世中国語
波多力 nestorian
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E5%8A%9B%20%20nestorian&ei=UTF-8
個人的には同祖ではないだろうなとは思うものの、神道の儀式や神社の共通性は何がしかの関係があったことは確かでしょうね。
エルサレムの近くに塩湖である死海あり。
ソルトレークにシオンあり。
平安京の近くに琵琶湖あり。
ナザレの近くにガリラヤ湖あり。
ガリラヤ湖はキネレット湖とも呼ばれ意味は「竪琴」
古代ユダヤ教が日本に持ち込まれ、エル・サレム(平和の町)を作るとき同じ竪琴の形をした淡水湖の琵琶湖の側に「平安京」を建設しようとしたのでしょうか。
イスラエル最大の淡水湖、竪琴の形をしたガリラヤ湖の側にあったエル・サレム(平和の町)の記憶はシルクロード通ってジパングに具現化したのでしょうか。
時は流れて、異邦人のイスラエル末日聖徒は奇しくもアメリカ最大の塩湖(ソルトレーク)の側にシオンを建設したのでした。
それは元祖イスラエルに死海(塩湖)との不思議な関係を見出します。
中東にシオンあり、極東にシオンあり、西の果てアメリカにシオンありですね〜。
エルサレム神殿の南側の壁の下を掘ったところ、イザヤの名前が書かれた粘土製の印章が見つかったのです。マザー氏は『Biblical Archaeology Review』誌で、このイザヤのビラの音訳を「Yesha'yah[u] Nvy[?]」としています。括弧内は粘土の損傷による不明な文字を示しています1。もしヘブライ語のアレフが欠落した文字「[?]」の代わりになるとすれば、「Isaiah」の後の単語は「預言者」となります。もしかしたら、イザヤ自身の手でこの印章が作られたのかもしれない。
聖書によると、預言者イザヤはヒゼキヤの治世に仕え、王と直接交流していたとされています。
聖書によると、預言者イザヤはヒゼキヤの治世に仕え、王と直接交流していました。このことは、ヒゼキヤの治世が紀元前729年から687年であったという聖書の記述と一致しています3。このように、今回発見された2つの遺物は、旧約聖書に登場する人物が、聖書に書かれている時代に実際に生きていたことを裏付けるものです。
これらの2つの遺物は、旧約聖書に登場する人物が実際に生きていたことを裏付けています。ツイート 共に発見されたこれらの2つの遺物は、それらの旧約聖書の人物が、聖書に書かれている時間に本当に生きていたという事実を裏付けています。
預言者イザヤの考古学的証拠: https://www.icr.org/article/archaeological-evidence-for-prophet-isaiah
ICRS-Science @icrbthomas
この2つのブルレは、何十年にもわたって聖書を疑ってきた学問を覆すものです。例えば、懐疑論者は長い間、未知の著者がイザヤ書を編纂したのは、ヒゼキヤが生きていた聖書の時代から何世紀も後の、バビロン捕囚時代のいつかだと主張してきました。おそらく、バビロンの神話を参考にして、世界の始まりから王の時代までの聖書の出来事を捏造したと考えられています。しかし、これらの推測の背景には、貧弱な学問があります。
イザヤは存在しなかった」という、聖書にはない、考古学的にも不正確な主張は、イエスの正確な予言を阻止したいという思いが込められているのかもしれません。
予言の成就という奇跡を消そうとする一つの方法は、予言された出来事のずっと前に聖書が書かれたことを否定することです。天地創造、大洪水、出エジプトなど、他の奇跡を消そうとする同様の試みは、ペテロが予告していたように存在しています。4 一握りのイザヤ書の予言は、新約聖書に記録され、多くの目撃者によって確認されたイエスの生涯の詳細を顕著に裏付けています。
イエスの生涯の詳細 預言の成就
処女から生まれた イザヤ7:14 マタイ1:18
処刑の際に黙っていた イザヤ53:7 マタイ26:63
罪人のように死んだ イザヤ53:8 マタイ27:50
金持ちの墓に埋められた イザヤ53:9 マタイ27:57
死者の中からよみがえった イザヤ53:10 マタイ28:6
罪人を救う イザヤ53:11 使徒5:31
これらの発見以前に、イザヤを本物の預言者として認めていた人々は、イザヤの預言的な言葉を証明する新約聖書を持っていました。今、彼らは新約聖書に加えて、2つの素晴らしい考古学的発見を手に入れたのです。
参考文献
マザー、E. 2018. これは預言者イザヤの署名なのか?Biblical Archaeology Review. 44 (2): 64-73, 92.
エルサレムの神殿山の南にあるオフェル発掘で発見されたヒゼキヤ王の王印の印影。ヘブライ大学エルサレム校ニュース。Posted on new.huji.ac.il February 12, 2015, accessed February 23, 2018.
Steimann, A. E. 2011. アブラハムからパウロまで。セントルイス。Concordia Publishing House.
第二ペテロ2:1-2; 3:1-7。
ステージイメージ。エルサレムの神殿山の南壁。
Stage Image Credit: Wikipedia © 2009. O. Rozen. 連邦著作権法(フェアユース・ドクトリン)に基づいて使用されています。ICRによる使用は、著作権者を支持するものではありません。
*ブライアン・トーマスはInstitute for Creation Researchのサイエンス・ライターです。
ニュース
インサイド 2021年9月号 Acts & Fac
」
MARCH 22, 2018
https://www.icr.org/article/archaeological-evidence-for-prophet-isaiah
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
ビラ、ブレレ ーー> ブッラ(Bulla)とは古代メソポタミアを中心に使われていた粘土製の遺物を指す
How Can I Understand Isaiah in The Book of Mormon?
」
https://www.youtube.com/watch?v=HNcV45Pnnys
」
https://www.youtube.com/watch?v=QG_7c2AgD1A
「Evidences of the Book of Mormon: Plates
」
https://www.youtube.com/watch?v=Mm-AXJNXiB8
設定によっては出来るのかもですね。
だとしたら、もう少し分かりやすい字幕も登場するのかも。
deeplがGoogleに買収されなければ良いが。。
オリジナルのイザヤの存在の可能性が高まった、ことと第二イザヤの存在とは直接関連はないように思いますが。。
新約聖書もまた新約時代のユダヤ人によるフィクションであれば理屈が通ってしまう。
つまりは、一人が書いたように捏造されたイザヤ書の記述に合わせて、イザヤの予言が成就したかのように物語を紡いだのではないでしょうか。
人間キリストの実在は史実でしょうが、新約の物語は旧約と同じように宗教的啓発本であって史実そのものではないでしょうね。
それでも世界最高の宗教書であり、最も普及した本であることには違いありません。
同じことがモルモン書に言えると思います。
アラビア語での意味は「神に祝福された地」となり、それから転訛したものと言えましょう。
モルモン書の翻訳では「Zarahemla ゼラヘムラ」と発音され、綴られています。
ジョセフはこのような言葉を見たことがなかったので、
学校の先生である友人(オリヴァー・カウドリ)に説明したところ、
彼らは自分たちができる推測でそう綴ろうとしたのでしょう。
”
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20代初期の1828年,オリバー・カウドリは,ニューヨーク州西部に移り住み,パルマイラに近い学校の教職に就きました。そこでジョセフ・スミスと金版についてのうわさを耳にします。ジョセフ・スミスが最も初期に書いた歴史記録によると,主はカウドリに御姿を現され,「示現の中で彼に版をお見せになり,御業が真実であることをも示されました。」
マンチェスターでジョセフ・スミスの両親のもとに少しの間下宿した後,カウドリはジョセフに直接会うために,ペンシルバニア州ハーモニーに旅立つ決心をします。到着するとすぐさま,カウドリはモルモン書を翻訳するジョセフの筆記者として働き始めました
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https://www.churchofjesuschrist.org/study/history/topics/oliver-cowdery?lang=jpn
しかし、カウドリ家は「聖なる棒」を使って宝探しをする地元の宗教的なグループのメンバーであり、そこでジョセフ・スミス家の人々と知り合いであった、と歴史学者のマイケル・クイン氏(元BYU教授)が指摘しています。
Quinn, D. Michael, Early Mormonism and the Magic World View, Revised and enlarged (Salt Lake City: Signature Books, 1998), 36-39.
なぬー!!?
ゼラヘムラはグアテマラだったのでしょうか?
おもしろい記事を見つけました。
https://www.deseret.com/2018/2/8/20639691/national-geographic-discovery-of-mayan-ruins-not-proof-but-very-interesting
末日聖人のイエス・キリスト教会の多くのメンバーは、
トム・クラインスが2018年2月1日にnews.nationalgeographic.comにオンラインで掲載した、
「レーザースキャンでマヤのメガロポリスを明らかにする」というタイトルの
独占的なナショナルジオグラフィックの記事に興奮しています。
・・・
何世紀にもわたって隠されてきた60,000を超える家、宮殿、道路などの人工的な特徴を特定しました。
・・・
古代グアテマラの低地が1,000万〜1,500万人を支えた可能性があると述べています。
「マヤの古典時代(およそ西暦250年から900年)のピーク時には、
文明は中世のイングランドの約2倍の広さの地域をカバーしていましたが、
はるかに人口密度が高かった」とナショナルジオグラフィックは要約しています。
ーーーー
「D.マイケル・クインは、ウィンチェルがスミス家にオカルトの指導をしていた可能性が高く、オリバー・カウデリーの「棒術」の才能は、ウィンチェルがウィリアム・カウデリーに影響を与えたことによってもたらされたと考えている。
これらの結論に至るまでに、クイン氏は、(1)ウィリアム・カウデリーはウッドスクレイプに関与していた、(2)ウィリアム・カウデリーはウィンチェルからロッドを使う知識を得て、その知識をオリバーに伝えた、(3)ジョセフ・シニアは1800年頃にバーモント州東部から西部に一時的に移動し、ウッドスクレイプにも関与した、(4)ジョセフ・シニアは1820年代初頭にニューヨークでウィンチェルと再会した、と仮定している。しかし、現存する資料を精査しても、これらの仮定を裏付けるものはない。
(1)ウイリアム・カウダリーは実際にはロッドマンとしてもウッドスクレイプの参加者としても確認されていない。ウイリアムがバーモント州の隣人たちから占いのロッドマンとして描写されていたというクインの主張は正確ではない。Frisbieは、ウィンチェルがウッドスクレイプの3年前に一時的にカウダリーの家に滞在したと主張しただけであり、ミドルタウンの歴史家は、ウィンチェルがその時にロッドを使ったかどうかは不明であった。 したがって、オリバー・カウダリーの父親がウッドスクレイプに参加していたと主張したとき、Frisbieは結論を急ぎすぎたのであり、Quinnは、カウダリーがバーモントのロッドマンとして認識されていたと頻繁に主張することで、この誤りをさらに深めている。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
」Oliver Cowdery's Vermont Years and the Origins of Mormonism larry e morris
https://search.yahoo.co.jp/search?p=Oliver%20Cowdery%27s%20Vermont%20Years%20and%20the%20Origins%20of%20Mormonism%20%20%20%20%20larry%20e%20morris&ei=UTF-8
ダウジング 空海
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%80%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0%20%20%E7%A9%BA%E6%B5%B7&ei=UTF-8
ダウジング 水道
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%83%80%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0%20%E6%B0%B4%E9%81%93&ei=UTF-8
ゼラヘムラ == 命を恵まれたミュレクの子孫 ?!
「The Meaning of Zarahemla from The Book of Mormon
8,635 viewsFeb 23, 2017」
https://www.youtube.com/watch?v=q8sLVt2qZmE
https://onoma.lib.byu.edu/index.php/ZARAHEMLA
ただねぇ・・・モルモン書が歴史的事実って護教は、すべてが推測じゃないかな。ちょっと人名や地名が中東風で似ていたり、ごく一部の文法が聖書の写本に似ていたりするだけで証明された、って言っちゃうような人たちが、クイン氏の指摘にただの推測だろって反論するのはブーメランだと思うのですよ。
「4 また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
5 そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。
6 善いものは何であろうと、正しくて真実である。したがって、善いものはキリストを否定することなく、キリストがおられることを認める。
」モロナイ10
に帰結、要約されるのでしょう。
他宗教同様、学問的事実からは否定される除外される場合もありでしょう。結果、創作と判断されたりするのでしょう。
いやー。めちゃくちゃ面白いですね。
knowhy.bookofmormoncentral.org/node/138
エレミヤ38章は、預言者エレミヤがどのようにして「ハンメレクの子マルキアの地下牢[ヘブライ語:「穴」]に投げ込まれたか」を語っています(KJVエレミヤ38:6)。
欽定訳聖書はそれを固有名詞として不適切に表現しましたが、ヘブライ語のハンメレク(ha-melech)は「王」です。
これは現代の聖書翻訳に反映されています。
「それで彼らはエレミヤを連れて行き、王の息子であるマルキアの貯水槽に彼を投げ入れました」(NRSV)。
・・・
ミュレクという名前は、欽定訳聖書にはありません。
それでも、末日聖徒の学者の中には、ミュレクがマルキア/マルキヤフの人名短縮形(省略形または短縮形)、
または神の名前(yhw)要素を削除してmlk(「王」を意味する)だけを残したこの名前の形であると提案している人もいます。 )
ーーーー
列王紀下25・7
ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目めの前で殺ころし、
ゼデキヤの目めをえぐり、足あしかせをかけてバビロンへ連つれて行った。
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確かに息子全員とは書いてない。。
王子マルキヤだけは逃げ延びてミュレクの民の祖先となったというわけですか。
やっぱりね。モルモン書は史実の部分がある可能性が非常に高いと思います。
ですね。
それにしても教会員って、超常現象や似非科学や疑似歴史とか大好きな人が多いです。一時は、飛●昭●氏の講演会を教会で開催して伝道していたりしましたから、80年代東京南伝道部の拙速伝道なみの酷さでは?
もっともジョセフ・スミス自身がもともとそういう人でしたから、モルモン教会に集まる人たちも「類は友を呼ぶ」なのでしょうか。かく言う私も若い頃はUFOとかに興味がありました。
ジョセフが当時流行していた迷信と宗教の入り混じった信仰に傾倒していたことはクイン氏が言ってるのですけれど、別にクイン氏はそれを批判はしていないのですね。当時のアメリカはそれが一般的だったと、どちらかと言えばジョセフを擁護しているのです。
ただ21世紀の現代にもなって科学的視点に耐えられくなった迷信はさっさと捨ててしまうか、別の意味付けをしていかないといけないのではないかと私は考えます。とは言うものの、すでに伝統となってしまった迷信を好む人たちがいるのもまた事実。
2つの異なる立場の共存は果たして可能なのか、所詮は無理なのか。
「主体的な人は、与えられた課題に対して自ら問題点を見つけ出し、改善点を探ります。
たとえば、やるべき仕事をこれまで通りただ実行するのではなく、
よりよいものにするために自らアイデアを出して行動できます。
・・・
ジョセフ・スミス曰く。
「わたしは人々に正しい原則を教えて,自らを治めさせます」
」ともあります・・
飛鳥昭雄
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%98%AD%E9%9B%84&ei=UTF-8
https://tocana.jp/2018/01/post_15580_entry.html
https://tocana.jp/2021/09/post_221323_entry.html
このマルキヤフはゼデキヤ王の息子だったのでしょうか?いくつかの要因が、彼がそうであることを示しています。一つは、「王の息子」という称号は、古代近東では、王の息子であっても、王政の最高責任者を務める者を指す言葉として使われていたことです。
王の息子」という称号は、古代の近東では、王の息子であっても、帝政の高官を務める者を指す言葉として使われていた。
聖書においても同様で、王の息子が刑務所を運営していました(1 Kings
22:26-27、エレミヤ36:26、38:6参照)、あるいはその他の公的機能を果たしている(第2列王15:5、第2歴代28:7参照)。さらに、アラド(ユダ南部)の2つのオストラカからマルキヤフという名前が見つかったことから、テルアビブ大学考古学部の故ヨハン・アハロニ部長は、「マルキヤフは一般的な名前であり、ゼデキヤ王の同時代の息子が名乗っていたこともある」と述べています。"
しかし、このマルキヤフはムレクと同一人物なのでしょうか?これらの名前を調べてみると、その可能性が高いことがわかります。例えば、エレミヤの書記であるバルークの場合、彼の名前の長い形であるベレクヤフが印章に発見されています。
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エルサレムにあるヘブライ大学の Nahman Avigad 氏が作成したものです。このフルネームは、エレミヤの記録ではバルークと短縮されています。
他の多くの聖書の名前と同様に、この短縮形を考慮すると、Mulekのような短縮形が可能ではない理由はありません。実際、古風なヘブライ語のqutlという形で説明できますし、mulkはウガリット語やフェニキア語にも登場し、「王族、王子のサクリチェ、トフェットの誓い」を意味します(=プニク語のmolk/ヘブライ語のmolek[レビ記18章21節、第2列王記16章3節参照])。 また、アラビア語では「統治、主権、支配」を意味します(アモリ人のムルク=アッカド人とエブラーイ人のマリク)。ちなみに、これをマヤのムルクと比較してみるといいかもしれません。マヤのムルクは、東洋の赤いバカブで、デビッド・H・ケリーは「血」と「子供を食い尽くす者」と関連づけています。"
モルモン教徒ではない著名な古代近東の専門家は最近、モルモン書が「ムレック」をゼデキヤの息子としていることについて、「もしジョセフ・スミスがあれを考え出したのであれば、彼はかなり良い仕事をしたと言えるでしょう」と述べています。「さらに、この名前の母音はフェニキア式の発音であると説明しています。そして、「王の息子マルキヤフ」はゼデキヤ王の息子である可能性が高く、この名前の短縮形は確かに「ムレク」である可能性があるということで、大方の意見は一致しました。
ロバート・F・スミスが1984年2月に行った調査に基づき、ベンジャミン・ウルティアが1985年2月の「洞察」で補足しました。
Insights』(1985年2月号)に掲載されています。MulekとMulekitesに関する最新の記述については、Macmillan 's Encyclopedia of Mormonism (1991)のCurtis WrightによるMulekitesの項目と、John L. Sorensonによる記事、"The Mulekites, " BYU Studies 30 (Summer 1990):6-22を参照してください。
脚注
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
」https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=Malchiah%20the%20son%20of%20Hammelech%20mulek%20byu&ei=UTF-8
エイリアン・テクノロジー、UFOとかって、飛鳥氏の著作読んでの、たまWEBの想像では、大洪水以前の人たちが(子孫?)地底に生き残ってて、ナチスが接触、空飛ぶ円盤をゲットしたと・・エイリアンではなくアダムの子孫、地球人だにゃ、で、おそらく彼らはエノクの民とは敵対であったのかも・・
イザヤ書/ 11章 01節(聖書協会共同訳)
エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち
ーーー
天使モロナイはイザヤ書11章を引用し、福音の回復がジョセフ・スミス(エッサイの若枝)を通して行われることを示唆したと言われます。
なるほど、なんとなく、そのようにも読めてしまう。。のが予言書なのでしょう。
しかし、当然ながら近未来に行われる「イザヤ研」では伝統的キリスト教解釈を学ぶわけですから、
JS=エッサイの若枝を一度リセットして読み、学ばねばとググると。。
まー。たかがこの1節に様々な解釈があるのですね。
見つけた解釈の中でも特に興味深かったものを紹介します。
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/28456/jinbun0001101020.pdf
イザヤ書 11 章 1 節における「若枝」のマリアと「花」のキリスト
―古ラテン語訳聖書とウルガタ 井阪民子
1.古ラテン語訳の本文の保持
以下に示すのは,イザヤ 11:1 のウルガタ,古ラテン語訳,七十人訳聖書,ヘブル語原典の各本文とその邦訳である。
ウルガタ
「そしてエッサイの根から若枝が出てくるであろう.
そして彼の根から花が上に伸びるであろう」
古ラテン語訳、七十人訳
「そしてエッサイの根から若枝が出てくるであろう.そしてその根から花が上に伸びるであろう」
ヘブル語聖書
「エッサイの根株より一つの若芽が生え,彼の根から一つの若枝が出て実を結ぶ」(関根清三訳)
イザヤ 11:1 は中世の教会のステンドグラスや写本の挿絵に見られる
「エッサイの木」―横たわるエッサイの体から一本の木が生えており,それによってキリストの系譜が樹形で示され,
梢にはマリアとイエス・キリストがいる―との関連でもよく知られている.
・・・そこで,先行する教父たちのイザヤ 11:1 に関する解釈,およびヒエロニュムス自身の解釈を確認することによって,これを明らかにしたい.
ーーーー
ギリシア教父では「若枝」もイエス・キリストの比喩とされたのに対し,
ラテン教父ではテルトゥリアヌス以来,マリアの比喩という解釈が行われた.
マリア崇拝がますます高まっていた 4世紀末に,アンブロシウスとヒエロニュムスはこの解釈に基づき,マリアの処女性を称揚した.
ーーーーー
https://news.yahoo.co.jp/articles/e0270db9073389e75cbb85df63f31233f3c41383
イザヤの予言と言うのも、神と人間との話になっているが、ひょっとしたら、もっと身近な人間同士の話なのかもしれない・・・ってふと思いました。
ソドムとゴモラを連想させられますね。
決して振り返るべからず。さすれば塩の柱にならん。的な
ロトの妻の教訓。
つまり、災害の時「大切なもの」を取りに行ってはいけない。
という教訓を織り込んだのでしょうか。
死海の底には塩の結晶が柱のように積層していることを連想させられます。
モルモン書には聖書とは対照的な教訓の物語が。
ミュレクの民は聖典を持って行かなかった為に危機的状況に。
ニーファイの民はリスクを冒してエルサレムに真鍮版を取りに行き、優位な状況に。
逃れるか引き返すかは「状況次第」ですかね。
今回研究チームやマスコミは、「トール・エル・ハマムこそソドムとゴモラではないか?」と言ってます。
ただ、聖書の記述とは年代がずれています。
私は、聖書の記述者が、年代を変えて話の中に入れたのではないかと思っています。
発掘結果の中で気になってるのは、「隕石の爆発によって、塩がその地域に大量にばらまかれたのではないか?」と言う記述です。その為以後長い間農作物が採れなかった。
現地に行った事が無いので想像できないですが、カナンの地は「肥沃な土地」って聖書には書いてますが、イメージ的に聖書に出て来る風景は「肥沃」とは思えないんですよね。塩のせいなのか??
現地に行ったNJさんに聞いて見ないと?
ギルガメシュ叙事詩にノアの洪水に似た話があるように実際に起こったことが神話的伝承となったのでしょうね。
ノアの洪水もソドムとゴモラも民族の罪による神の天罰ではないということでしょう。
聖書の著者は道徳的な行いの大切さを教えるのに神話的手法を取ったのでしょうね。
この教訓的教えを最も効果的に受け入れる人は、おそらく史実として信仰してきた人々でしょう。