2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
言語学の限界 ()
2015-10-28 09:32:53
人間は、ある方向に思考が固まると錯覚を起こす。

教会では、聖書の内容について勉強研究する。
それは、聖書に何が書いてあるかを知るのが目的のはずだ。
所が、それを「真理を知る事」と勘違いする人が出て来る。
「聖書の中に何が書いてあるか」と、「真理を知る」とは全く違った行為である。
もちろん、聖書が「神から来た真実の書物である」と信じる人にとっては、それは同一の行為であるが、少なくとも、言語学的に聖書を研究する人たちは、「聖書は人間が書いた物」と言う前提で研究をしているはずだ。

とすれば、聖書の記述を言語学的にさかのぼり、研究をしても、「初期の聖書には何が書かれていたのか?」と言う疑問には答えられても、「真理は何か?」と言う答えには行きつかない。

語学に無知な私などは、日本語の聖書を読んで、その内容を知る事しかできない。そのような人間が、「この聖句の意味は本当はこう解釈すべきなのだ」と言語学的に説明されると、「ああ!それが真実か!!」とふと思ってしまう。

しかし、よく考えると、言語学的に、聖書のルーツをたどってみても、分かるのは「聖書を書いた人は、こういうう意味で書いたのだ」と言う事だけに過ぎない。

本当に何が真理なのかは、物事を論理的に思考し、矛盾のない答えを導き出すことでしか出来ない。

もし、聖書の記述を根拠として、「これが真理だ!」と言う人が居れば、それは、最初に聖書を書いた人に対する信仰でしかない。

聖書の言語学的研究は無意味だとは言わないが、聖書の原文にいかに忠実に解釈をしても、それは「真理」とは別のものだと言う事を、頭に中に持っておかないと、真理とは違った方向に行ってしまうのだ。
返信する
分かります (NJ)
2015-10-28 10:41:30
お説ごもっとも。II で同じ方向の答えを多少見出していただけるのではないかと思います。言語面・文法的分析の限界について。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。