6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 山口の力 (落伍者) 2015-10-24 19:15:17 あの時代に外国で博士号を得るということは浅田氏の努力と力量によるところが大きいのでしょうが、国のバックアップもあったのかなと感じます。 浅田氏は長州藩に属する家系らしいので、留学費用などの援助もあったのでしょうか? 山口の方は維新の関係か、新政府の加護を受けて様々な特権を有していたのかなと感じます。 自分の力だけで留学するということはまず無理でしょうから、国の期待と援助を受けていた逸材だったのでしょうね。 新政府の重鎮は長州藩の人々であったでしょうから山口は文化や産業の面で既得権を持っていたのかなとも感じます。 山口には浅田氏以外にも国の加護を受けて育った方がおり、その人が文化や産業を作り出していったような気がします。 そして人脈・・・・ 恐るべし、山口です。山口の工業はすごいですよね。かなり税金が投入された地域だと思います。 私は高知と山口のハーフですが、まったく維新の恩恵を受けておりません。 返信する Half of .... (NJ) 2015-10-24 21:47:25 それは残念!頭脳と心意気の面では受け継いでおられる!浅田が国の援助を受けていたかどうか、気がつきませんでした。調べてみす。 返信する 旧知の友 (NJ) 2015-10-24 22:57:09 この催しを実現させる影の主役となった、友人河口昭氏からいただいた案内に次のようにあった。「30年近く前、浅田を最初に世に問いかけた時、その道を開き後押しして頂いたのが沼野さんです。」氏の研究に多少なりともお役に立っていたら、光栄である。彼は文武両道に励んで来られた、紳士である。 返信する 少しだけ背景がわかります (落伍者) 2015-10-25 09:05:10 シカゴ大学図書館 日本研究部門主任司書の奥泉 栄三郎のコメントです。 例えば藩 士・士族の息子たち、殿様の子息など日本に居れば悠々自適で遊んで暮らせるような若者がアメリカに来て、皿洗いからはじめて博士号まで取って日本に帰る。昔は故郷に錦を飾るという気概が強かった。大ロマンがありました。女子留学生も地下鉱脈のように跡を追いました。 「帰米二世」と呼ばれる人達ですが、このようなやり方は必ずしも特殊ではない。頻繁におこなわれていた形跡があります。そういう事をする民族・国民は少なかったんですね。日本人の場合、自分を試してみるという気持ちと、祖国を思う気持ちがあったんですね。 それでは今の若者はダメかというと、そんなことはない。一種の平衡感覚をもって成長していますよ。・・・・・同志社大学をおこした新島襄・太平洋の架け橋となった新渡戸稲造・医学界の野口英世・民間外交を推進した高峰譲吉などなど、それは多彩です。・・・浅田栄次はシカゴ大学で初めて博士号(PhD)を授与された明治の国際人です。明治26年(1893年)6月23日のことでした。今でも毎年のシカゴ大学カレンダーにこの事実が印刷されています。日本の英語達人の三傑の一人と呼ばれ、東京外国語学校(現・東京外国語大学)設立に際し尽力し、数多くの優秀な英語教師を育成したことで知られております。日本における旧約聖書研究やエスペラント語普及の先駆者でもあります。山口県徳山市(現・周南市)の出身ですが、山口には明治の初めに既に英会話学校がありました。山口県の殿様は先見の明を持っていたんですね。海にも面し後ろは山という立地条件は、必然的に青少年を中央に出す、外に出す土壌にもなっていたんです。 シカゴ大学開学第一号の博士論文となった、浅田栄次博士の旧約聖書研究論文を2001年に電子復刻しました。同時に本書には、浅田栄次コレクション(マイクロフィルム)の内容細目早見表と英文評伝などを加えておきました。この作業も浅田家の皆様の協力を欠いては実らなかったことです。浅田博士の孫が現在北米で二つの会社を経営しており、親しく家族付き合いをしてます。 浅田氏にはいい土壌があったのですね。キリスト教と知り合ったことも留学への後押しになったことと思います。 返信する 貴重な補足 (NJ) 2015-10-25 16:35:07 貴重な補足に感謝致します。それにしてもすごい発掘力ですね。 返信する 感謝 (落伍者) 2015-10-27 19:10:16 NJ様、いつも暖かいコメントをありがとうございます。 重箱の隅をつつく性格ですが、その性格が災いすることが多い上、表面的な探究しかできませんのでお恥ずかしい次第です。 この性格が山口に起因しているのか、探究してみたいです。 NJ様は長年山口にお住まいだったそうですが、県民性はどのような感じでしょう? イギリスと喧嘩したり、幕末の志士を輩出した土地ですので、特別な気概≪別の言い方では反骨精神≫を持っているのでしょうか? 私は、不従順で反抗心はありますので、DNAが悪い形で出ているのかもしれません。(T_T) 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
浅田氏は長州藩に属する家系らしいので、留学費用などの援助もあったのでしょうか?
山口の方は維新の関係か、新政府の加護を受けて様々な特権を有していたのかなと感じます。
自分の力だけで留学するということはまず無理でしょうから、国の期待と援助を受けていた逸材だったのでしょうね。
新政府の重鎮は長州藩の人々であったでしょうから
山口は文化や産業の面で既得権を持っていたのかなとも感じます。
山口には浅田氏以外にも国の加護を受けて育った方がおり、その人が文化や産業を作り出していったような気がします。
そして人脈・・・・ 恐るべし、山口です。
山口の工業はすごいですよね。
かなり税金が投入された地域だと思います。
私は高知と山口のハーフですが、まったく維新の恩恵を受けておりません。
浅田が国の援助を受けていたかどうか、気がつきませんでした。調べてみす。
「30年近く前、浅田を最初に世に問いかけた時、その道を開き後押しして頂いたのが沼野さんです。」
氏の研究に多少なりともお役に立っていたら、光栄である。彼は文武両道に励んで来られた、紳士である。
の奥泉 栄三郎のコメントです。
例えば藩 士・士族の息子たち、殿様の子息など日本に居れば悠々自適で遊んで暮らせるような若者がアメリカに来て、皿洗いからはじめて博士号まで取って日本に帰る。昔は故郷に錦を飾るという気概が強かった。大ロマンがありました。女子留学生も地下鉱脈のように跡を追いました。
「帰米二世」と呼ばれる人達ですが、このようなやり方は必ずしも特殊ではない。頻繁におこなわれていた形跡があります。そういう事をする民族・国民は少なかったんですね。日本人の場合、自分を試してみるという気持ちと、祖国を思う気持ちがあったんですね。 それでは今の若者はダメかというと、そんなことはない。一種の平衡感覚をもって成長していますよ。
・・・・・同志社大学をおこした新島襄・太平洋の架け橋となった新渡戸稲造・医学界の野口英世・民間外交を推進した高峰譲吉などなど、それは多彩です。・・・
浅田栄次はシカゴ大学で初めて博士号(PhD)を授与された明治の国際人です。明治26年(1893年)6月23日のことでした。今でも毎年のシカゴ大学カレンダーにこの事実が印刷されています。日本の英語達人の三傑の一人と呼ばれ、東京外国語学校(現・東京外国語大学)設立に際し尽力し、数多くの優秀な英語教師を育成したことで知られております。日本における旧約聖書研究やエスペラント語普及の先駆者でもあります。
山口県徳山市(現・周南市)の出身ですが、山口には明治の初めに既に英会話学校がありました。山口県の殿様は先見の明を持っていたんですね。海にも面し後ろは山という立地条件は、必然的に青少年を中央に出す、外に出す土壌にもなっていたんです。
シカゴ大学開学第一号の博士論文となった、浅田栄次博士の旧約聖書研究論文を2001年に電子復刻しました。同時に本書には、浅田栄次コレクション(マイクロフィルム)の内容細目早見表と英文評伝などを加えておきました。この作業も浅田家の皆様の協力を欠いては実らなかったことです。浅田博士の孫が現在北米で二つの会社を経営しており、親しく家族付き合いをしてます。
浅田氏にはいい土壌があったのですね。キリスト教と知り合ったことも留学への後押しになったことと思います。
重箱の隅をつつく性格ですが、その性格が災いすることが多い上、表面的な探究しかできませんのでお恥ずかしい次第です。
この性格が山口に起因しているのか、探究してみたいです。
NJ様は長年山口にお住まいだったそうですが、県民性はどのような感じでしょう?
イギリスと喧嘩したり、幕末の志士を輩出した土地ですので、特別な気概≪別の言い方では反骨精神≫を持っているのでしょうか?
私は、不従順で反抗心はありますので、DNAが悪い形で出ているのかもしれません。(T_T)