10 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 そんな奴はおらん (豚) 2015-05-06 09:24:22 >よい羊飼いは羊のために命を捨てる当時の羊飼いがどう言う立場だったのかはよく知らないが、憶測するの、二つの立場が有る。一つは、羊の持ち主もう一つは、持ち主に雇われた羊飼い。始めの場合、羊の持ち主は、自分の生計を立てるために羊を飼っているのであるから、その羊の為に命を捨てるなど本末転倒である。現代でも家畜を飼っている人は沢山居るが、不慮の災難を除けば、家畜の命を自分の命より優先することは考えられない。もう一つの場合は、雇われているのだから、その賃金を得るために自分の命を捨てることなど、想像すべくもない。つまり現実的には、羊の為に羊飼いが命を捨てることなどありえない。もしそんな人がいたとしたら、よほどの変人であるか、判断能力に欠けた人である。イエスは、神から人間と言う羊を託されていたが、命を捨てたわけではない、現にイエスは死んでいない。復活して今も生きている。人間として、目的の為に命をも顧みないと言うのは、美しく語られるが、それは最も愚かな行為である。まして、国の為に命を捨てるなど愚の骨頂である。美談に騙されて命を無駄にするな。その美談を作り広めた張本人は、先頭に立って命を捨てることなど決してしない人たちだ。350万人もの命を犠牲にして、その責任を認めず、さらに次の戦争を起こそうとしている馬鹿が居る。現実と、真実は、「羊飼いの利益の為に羊飼いは羊の命を奪う」のであって、「羊の為に命を捨てる羊飼いなど居ない」馬鹿な羊はそんなことも知らずに生きている。 返信する その通りです (NJ) 2015-05-06 09:35:35 厳しい現実をつきましたね。>よい羊飼いは羊のために命を捨てるは、捨てる程に、・・くらいに大事にする、守る、という誇張された表現ととることができる、と思っています。 返信する Unknown (Unknown) 2015-05-08 13:09:56 良い羊飼いのレッスンは、いつもだいたいこんな感じです。<「信徒がそれぞれ自分の人生を最大限に活かせるように努め、実現できるように、監督は慈父のような眼で見守り、実現を奨励するのである。」みんなが大きく頷きながら聞いてる中、ビショップはどう感じているのかなーと・・・。<上部組織からの通達、指示をこなすのに終始し、時間と体力、精神力を使い果たして旦那はステークの高等評議員とステークの某組織会長の兼務という状態が一年続いてて、まだまだ解任の兆しがありません。うちはもう何年も教会未亡人&孤児のままだなー。マリアは、最近この譬えでは良い羊飼いより羊のことを考えてしまうのです。以前ペットに無謀にも街中で羊を飼おうかと、飼育方法を調べたことがあります。羊の性質、習性はおもしろいですよ。新しい観点でこの譬えを考えるようになりました。羊って、ものすごい保守、臆病さんです。知らない人にはついて行きません。知らない場所にもいきません。一匹ぽっちは嫌いです。集団が好き。群れから離れるというのはよっぽどのことなんです。絶対におどかしたらだめ。怖い思いさせたら、もう寄ってきません。傷ついてさ迷い出た1匹の羊。どうしたんかなーと思ってしまうのです。 返信する 羊の習性 (NJ) 2015-05-09 07:30:17 羊の習性について紹介くださり有難うございます。旦那さんの教会の召し(calling)兼務、大変ご苦労様です。よく支えてあげてください。 返信する 羊飼いになれる? (地方の教会員) 2015-05-09 07:38:37 神の羊の群れに羊として入ってきたのに、羊飼いとして働くなんて♪いいところで番犬になって吠えまくって群れが離散しないようにするのが精一杯では。教会の犬は、外敵に対して吠えないけど群れの羊に対してはよく吠えます。あまりにも番犬の吠えるのがうるさくて群れが嫌になっている羊たちもいるようです。 返信する アブラハムの信仰 (豚) 2015-05-11 12:26:08 自分の命を捧げるよりつらいのは、家族を捧げる事か?アブラハムが子供のイサクを生贄として捧げた話は有名ですが、実際にそんなことが出来る人は普通じゃない人ですね。今だったら、虐待で逮捕される(笑)モルモンの活発会員の子供の側から見た場合、親を神に捧げたようなものでしょうか?配偶者ぐらいならあきらめないと?? 返信する 皆様、あえて「監督」を使ってますね (畑の曲者) 2015-05-25 12:42:23 教会の指導者の立場は、一般社会や会社の役職とは全く逆で、監督は、ワード会員の僕(使いっ走り)ステーク会長は、ステーク会員の僕(使いっ走り)大管長は、全世界会員の僕(使いっ走り)イエス・キリストは、全宇宙の(時間軸を超えた)人々の僕(使いっ走り)であると習いました。実際に監督は、常に役員会や評議会で会員の必要を確認しつつ、それを満たすために祈り、家族を犠牲にしながら面接に明け暮れ、正に「使いっ走り」として奔走しています。「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」という表現は、あながち大げさでもないかなと感じるほどです。ところで、このブログでも過去に取り上げていただいていますが、2006年10月のリアホナローカルページで、「監督」→「ビショップ」を始めとして、幾つかの教会用語の日本語訳変更が発表されました。http://ldschurch.jp/bc/content/Japan/local-page/2006/2006-10.pdfその理由として、「監督」という言葉は、管理する人という役割が強調されるため、「教会員を教え、導き、教会員に仕える」「教会員を愛する」「教会員を養う」という、監督のさらに重要な役割に対する印象が薄れてしまいます。・・・とあります。当時の背景として、監督の立場を再認識させたいなど会員に対してのメッセージ性が含まれていたと考えますが、「指導者」=「会員に仕える」を一番意識しないといけないのは、一般会員よりも指導者自身であるはずなのに「自分の事は棚上げ」とか「上から目線」という印象を感じたことから、私もこの変更に強烈な違和感を抱き続けている1人です。そして何より、NJ様も指摘されていた通り「伝道部会長」とか「神殿会長会」「支部会長」など日本語の威厳、権威を損なう使い方が一番の問題と思います。外国人宣教師も、この教会内だけで応用の利かない日本語を覚えさせられる事になりますし、教会員外の方からの翻訳レベルの低さに対する印象悪化も懸念されます。日本語の権威保全のために、いっその事すべて英語(カタカナ)表記にしてしまったらどうかとも思います。 返信する 同じように感じる人がいる (NJ) 2015-05-25 15:59:37 日本語が持つ自然な法則のようなもの(会社の長は社長、学校の長は校長、委員会の長は委員長、議会の長は議長となるなど)を封じて、英語の語彙の翻訳(president=会長)に一貫性を持たせようとする姿勢が見えます。また、副も長と同じ肩書きで呼ぶ英語社会の文化を持ち込んでいます。(副管長もpresident xxx).畑さんが言われるように、外国から来た宣教師に「応用の利かない日本語を覚えさせる」ことになりますね。しばしば不便を感じながら、また勇気を奮って、年寄に免じて「監督」で通させてもらっています。(時々、全文英語でしゃべってみようか、と思ったりします。「監督」という言葉に悩まなくてすみますから。しかし、日本の教会で日本人を相手に英語で話すことほど抵抗を感じることはないのです。) 返信する 日本語の用法は外国人に広く聞いてみては (地方の教会員) 2015-06-01 22:00:38 ■日本語に戻したいカタカナ語トップ10(1)リスペクトする ⇒ 尊敬する・敬意を表する(2)ネグレクトする(ネグる) ⇒ 無視する・おろそかにする。(3)サーベイランス ⇒ 調査監視(4)スキーム(5)スクリーニング ⇒ ふるい分す(6)トレーサビリティー ⇒ 履歴管理(7)アジェンダ ⇒ 予定表・行動計画(8)エンパワーメント ⇒ 権限付与(9)コンソーシアム ⇒ 共同事業体(10)パブリックコメント ⇒ 意見公募どの言葉も、普通に日本語を使ったほうがわかりやすく、言葉本来の意味を伝えるためにはカタカナ後を知っていたとしてもあえて日本語を口にした方が「丁寧な人」という印象を与えるでしょう教会用語の米語化は、アメリカ大好き日本人の力もあったと考えます。ワーカー長老の力だけではないような。日本人の中に教会文化が完全に溶け込むように願います。 返信する 確かに (NJ) 2015-06-02 16:31:03 > 言葉本来の意味を伝えるためにはカタカナ語を知っていたとしてもあえて日本語を口にした方が「丁寧な人」という印象を与えるでしょう同感です。私も気をつけたいと思います。> 教会用語の米語化は、アメリカ大好き日本人の力もあったと考えますそうですね。多くの場合、アメリカを好意的に見ている人が末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗しているように思います。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
当時の羊飼いがどう言う立場だったのかはよく知らないが、憶測するの、二つの立場が有る。
一つは、羊の持ち主
もう一つは、持ち主に雇われた羊飼い。
始めの場合、羊の持ち主は、自分の生計を立てるために羊を飼っているのであるから、その羊の為に命を捨てるなど本末転倒である。現代でも家畜を飼っている人は沢山居るが、不慮の災難を除けば、家畜の命を自分の命より優先することは考えられない。
もう一つの場合は、雇われているのだから、その賃金を得るために自分の命を捨てることなど、想像すべくもない。
つまり現実的には、羊の為に羊飼いが命を捨てることなどありえない。
もしそんな人がいたとしたら、よほどの変人であるか、判断能力に欠けた人である。
イエスは、神から人間と言う羊を託されていたが、命を捨てたわけではない、現にイエスは死んでいない。復活して今も生きている。
人間として、目的の為に命をも顧みないと言うのは、美しく語られるが、それは最も愚かな行為である。
まして、国の為に命を捨てるなど愚の骨頂である。
美談に騙されて命を無駄にするな。
その美談を作り広めた張本人は、先頭に立って命を捨てることなど決してしない人たちだ。
350万人もの命を犠牲にして、その責任を認めず、さらに次の戦争を起こそうとしている馬鹿が居る。
現実と、真実は、「羊飼いの利益の為に羊飼いは羊の命を奪う」のであって、「羊の為に命を捨てる羊飼いなど居ない」
馬鹿な羊はそんなことも知らずに生きている。
>よい羊飼いは羊のために命を捨てる
は、捨てる程に、・・くらいに大事にする、守る、という誇張された表現ととることができる、と思っています。
<「信徒がそれぞれ自分の人生を最大限に活かせるように努め、実現できるように、監督は慈父のような眼で見守り、実現を奨励するのである。」
みんなが大きく頷きながら聞いてる中、ビショップはどう感じているのかなーと・・・。
<上部組織からの通達、指示をこなすのに終始し、時間と体力、精神力を使い果たして
旦那はステークの高等評議員とステークの某組織会長の兼務という状態が一年続いてて、まだまだ解任の兆しがありません。うちはもう何年も教会未亡人&孤児のままだなー。
マリアは、最近この譬えでは良い羊飼いより羊のことを考えてしまうのです。
以前ペットに無謀にも街中で羊を飼おうかと、飼育方法を調べたことがあります。羊の性質、習性はおもしろいですよ。新しい観点でこの譬えを考えるようになりました。
羊って、ものすごい保守、臆病さんです。知らない人にはついて行きません。知らない場所にもいきません。一匹ぽっちは嫌いです。集団が好き。群れから離れるというのはよっぽどのことなんです。絶対におどかしたらだめ。怖い思いさせたら、もう寄ってきません。
傷ついてさ迷い出た1匹の羊。どうしたんかなーと思ってしまうのです。
旦那さんの教会の召し(calling)兼務、大変ご苦労様です。よく支えてあげてください。
いいところで番犬になって吠えまくって群れが離散しないようにするのが精一杯では。
教会の犬は、外敵に対して吠えないけど群れの羊に対してはよく吠えます。
あまりにも番犬の吠えるのがうるさくて群れが嫌になっている羊たちもいるようです。
アブラハムが子供のイサクを生贄として捧げた話は有名ですが、実際にそんなことが出来る人は普通じゃない人ですね。
今だったら、虐待で逮捕される(笑)
モルモンの活発会員の子供の側から見た場合、親を神に捧げたようなものでしょうか?
配偶者ぐらいならあきらめないと??
であると習いました。
実際に監督は、常に役員会や評議会で会員の必要を確認しつつ、それを満たすために祈り、家族を犠牲にしながら面接に明け暮れ、正に「使いっ走り」として奔走しています。
「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」という表現は、あながち大げさでもないかなと感じるほどです。
ところで、このブログでも過去に取り上げていただいていますが、2006年10月のリアホナローカルページで、「監督」→「ビショップ」を始めとして、幾つかの教会用語の日本語訳変更が発表されました。
http://ldschurch.jp/bc/content/Japan/local-page/2006/2006-10.pdf
その理由として、「監督」という言葉は、管理する人という役割が強調されるため、「教会員を教え、導き、教会員に仕える」「教会員を愛する」「教会員を養う」という、監督のさらに重要な役割に対する印象が薄れてしまいます。
・・・とあります。
当時の背景として、監督の立場を再認識させたいなど会員に対してのメッセージ性が含まれていたと考えますが、「指導者」=「会員に仕える」を一番意識しないといけないのは、一般会員よりも指導者自身であるはずなのに「自分の事は棚上げ」とか「上から目線」という印象を感じたことから、私もこの変更に強烈な違和感を抱き続けている1人です。
そして何より、NJ様も指摘されていた通り「伝道部会長」とか「神殿会長会」「支部会長」など日本語の威厳、権威を損なう使い方が一番の問題と思います。
外国人宣教師も、この教会内だけで応用の利かない日本語を覚えさせられる事になりますし、教会員外の方からの翻訳レベルの低さに対する印象悪化も懸念されます。
日本語の権威保全のために、いっその事すべて英語(カタカナ)表記にしてしまったらどうかとも思います。
畑さんが言われるように、外国から来た宣教師に「応用の利かない日本語を覚えさせる」ことになりますね。
しばしば不便を感じながら、また勇気を奮って、年寄に免じて「監督」で通させてもらっています。
(時々、全文英語でしゃべってみようか、と思ったりします。「監督」という言葉に悩まなくてすみますから。しかし、日本の教会で日本人を相手に英語で話すことほど抵抗を感じることはないのです。)
(1)リスペクトする ⇒ 尊敬する・敬意を表する
(2)ネグレクトする(ネグる) ⇒ 無視する・おろそかにする。
(3)サーベイランス ⇒ 調査監視
(4)スキーム
(5)スクリーニング ⇒ ふるい分す
(6)トレーサビリティー ⇒ 履歴管理
(7)アジェンダ ⇒ 予定表・行動計画
(8)エンパワーメント ⇒ 権限付与
(9)コンソーシアム ⇒ 共同事業体
(10)パブリックコメント ⇒ 意見公募
どの言葉も、普通に日本語を使ったほうがわかりやすく、言葉本来の意味を伝えるためにはカタカナ後を知っていたとしてもあえて日本語を口にした方が「丁寧な人」という印象を与えるでしょう
教会用語の米語化は、アメリカ大好き日本人の力もあったと考えます。ワーカー長老の力だけではないような。
日本人の中に教会文化が完全に溶け込むように願います。
同感です。私も気をつけたいと思います。
> 教会用語の米語化は、アメリカ大好き日本人の力もあったと考えます
そうですね。多くの場合、アメリカを好意的に見ている人が末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗しているように思います。