10 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 そうであるなら (エリアーデ) 2011-12-01 09:55:36 逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。モルモンでは結構無理して信仰心を保とうとしている人がいますし、少なくとも教会全体の雰囲気はこの教会は真実であって去るものは善くない部分があった。みたいな感じですしね、前に顕正会の人とお話したときは「この宗教団体の強制的な勧誘行為はよくないとは思うが自分一人の力では変えられない」と言っていました。全体はそうであっても自分ひとりはそうではないと言う考え方は集団というものが平均化されたものであるから教団を擁護する理論にはならないなと思いました。まぁさりとてこれからのキリスト教、特に末日聖徒には教団の歴史から言っても多くの課題があると感じさせられました。 返信する 今日の社会では (NJ) 2011-12-01 17:11:40 信仰心を持つ(持てる)かどうかは個人にかかっていると思います。いずれかの宗教組織、例えば教会に加入する、あるいは所属し続けるかどうかは個人の判断(選択)にかかっています。現代化の進んだこんにち、宗教は多くの課題に直面していると思います。 返信する そうだそうだ!! (豚) 2011-12-01 17:26:57 >逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。そうです。信仰や宗教なんて無くても、人間は生きて行ける! 返信する やはり (エリアーデ) 2011-12-01 22:11:20 信仰心を持つ(持てる)かどうかは個人にかかっていると思います。いずれかの宗教組織、例えば教会に加入する、あるいは所属し続けるかどうかは個人の判断(選択)にかかっています。教会の基本方針はそうではないですけど教会員個人個人はそういう決断を下した場合教会に来る人間はまさしく教会に順応できた人間しかいなくなっちゃうでしょうね、現代の風潮はそんな感じですけど僕の友人の二世会員はどちらかと言えば親に連れてかれて教会に来てる人間の方が多いのでそういった風潮に教会がなってしまえば教会に来る人間って格段に減るような気がします。なので幹部連中が「信仰は個人的なものである」とは言わないと見ていますが、やはりそういった問題に直面したのもここの教会の上層部は時代に敏感ではないんだと思います、同性愛問題も黒人問題にしてもここの教会は要領が悪いかと存じます。僕みたいに若い人間からすると表向きは教会来てても親から離れたら教会には行きたくないと思ってる人間は教会員が考えている以上にいると思います、まぁ僕はそういうわけで教会に行きたいとは思ってなかったりします。 返信する 見つける (豚) 2011-12-02 12:08:27 最近、モルモン教会でよく耳にするのが、「準備されて人を見つける」と言う言葉です。先日のステーク大会でも、招待された伝道部長がその趣旨を強調していました。つまり、「モルモンの型の中にはまる人だけを探して、バプテスマを受けさせる。」と言うことです。福音を伝え、キリストの救いに導く、と言う考えからは、とんでもない話です。選民主義、余任の原則、まるだしで、ぞっとします。で、自分達会員の子供も、教え導くんじゃなくて、「選ぶ」んですね。選ばれた人を探す。自分の子供まで、「この子は選ばれなかったんだ・・」って思うしかない親の気持ちはどんなんでしょうね?そして、「うちの子は、セミナリーに出席し、その後伝道に出た・・」と誇らしげに話す指導者・・・。なんか、おかしいって思わないんですかね?? 返信する この場合は選民ではないのでは? (NJ) 2011-12-02 16:24:26 「準備された人を見つける」は、語りかける宣教師の声に耳を傾け、lds教会が説く福音を受け入れる日本人が大変少ない今日、宣教師を励ます意味で話されたもの。所謂神学でいう選民という意味ではないでしょう。というのは、今準備できていない人も人生を生きていく過程で後にldsの福音を受け入れるかもしれないからです。・・[そもそも広い意味で適用するとしても、「選民」は教会員になってから適用されるもの]会員が子供を「選ぶ」ような意識を持つことはないと考えます。不活発な子供を持つ親の多くは分け隔てなく子供を愛し、子供たちの物心両面の福利のために心を砕いています。・・[血統から言えば、親が選民なら活発不活発を問わず子も選民]今教会に来ている子も一生で見るとき走り通せるかどうか、今来ていない子も将来教会に戻るかもしれないし、戻ることがなくてもよい市民として幸せな生活を送り神に喜ばれるかも知れないのです。私もそうですが、純粋な心で信じている人たち、教会を運営している人たちの姿(敬虔)を尊重することも大切です。・・おかしいと思うことがあっても心の内に留める・・言わずにおれなければここのコメント欄のような場所で言う???どこかでブログ主宰者のスタンスから逸れていくように感じることがあるのですねぇ。A の次+ uta-san.:D 返信する 腹ふくるる・・ (豚) 2011-12-02 18:12:56 腹ふくるる・・・と言っても、メタポの事じゃないですよ。七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。 徒然草(吉田兼好)19段.「折節(おりふし)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。」より 返信する 然らば (NJ) 2011-12-02 18:38:12 わかっちょります。教養・学識に富んだ豚だ。「猪言草」(いごとぐさ)など折節に綴り、因特網に載せるやよし。われ時折訪ね見るべし。如何。 返信する Unknown (Unknown) 2013-10-09 21:20:32 >逆に無理して信仰心を持たなくてもいいような気がしました。・・・信仰とか信心というのは賜物です。親鸞聖人の教えでもそうだし、キリスト教でもそうです。信心を持つことは自力ではなく他力です。ある意味、縁がなければ信じることもない。だから「神義論」などで、この世の苦難・不条理に対する納得いく答えが聖書に見つからないから信じることをやめるとかいうのは、その人自身、そもそもが聖書が示す神に縁がないのです。キリストに縁がない、その父なる神との関係に無かったのです。信心を与えられている人、聖書の道に縁があり、キリストの神との関係の中に生かされている人は、どんなことがあっても信仰を放棄することはできません。十字架です。棄教というのはせいぜい、キリスト教という一つの相対的宗教をやめることであり、キリストの神への信仰を棄てることではありません。キリストのもとに引き寄せられた者、すなわち聖書の道に縁あり、キリストの神との関係に置かれている者は、自力でその関係から出ることはできません。「神義論」でキリスト教会を出ることと、キリストの神への信仰を棄てることとはイコールではありません。キリスト教徒ではないが、キリスト信徒である人はいます。それはアリなのです。>聖職につく人はなぜこうしたことを信者に教えようとしないのだろうか。説教壇に立つときはともかく(説教をするときには敬虔さが求められる)、成人講座などにおいても歴史的・批判的アプローチではなく、信心をもって聖書を読むようにしか語らない。・・・一概には言えませんが、「聖職」と言ってもプロテスタントの場合は「生職・生業」でもあり、その教会でやってゆきたければ信者が喜ばないことはなるべく言わない、やらない方向にゆくのは心理としてわかるでしょう。むしろ牧師や司祭に「聖」なる面など期待する方がおかしい。「聖」なるお方は神のみです。親鸞聖人のように自らを「悪」人と言って人々と交わったような宗教者が逆説的に「聖」なる人だと言えます。 返信する Unknown (nj) 2013-10-09 23:11:17 コメントに感謝します。前半、>信仰とか信心というのは賜物、縁がなければ信じることはない・・に同感です。ちょっと関連して「相性」が合うという表現が思い浮かびます。提示された深く、広い視点から学ぶことができます。後半、聖職者の置かれた立場を再認識することができました。(私はそのような側面に思い及ぶことなく尊敬の念だけ持っていたように思います。傑出した神学者[牧師でもある人]の著作を読んでそのような印象を持つに至っていたようです。) 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 コメントを投稿するにはgooブログの開設が必要です。 ログイン goo ID新規登録
モルモンでは結構無理して信仰心を保とうとしている人がいますし、少なくとも教会全体の雰囲気はこの教会は真実であって去るものは善くない部分があった。
みたいな感じですしね、前に顕正会の人とお話したときは「この宗教団体の強制的な勧誘行為はよくないとは思うが自分一人の力では変えられない」と言っていました。
全体はそうであっても自分ひとりはそうではないと言う考え方は集団というものが平均化されたものであるから教団を擁護する理論にはならないなと思いました。
まぁさりとてこれからのキリスト教、特に末日聖徒には教団の歴史から言っても多くの課題があると感じさせられました。
現代化の進んだこんにち、宗教は多くの課題に直面していると思います。
そうです。
信仰や宗教なんて無くても、人間は生きて行ける!
教会の基本方針はそうではないですけど教会員個人個人はそういう決断を下した場合教会に来る人間はまさしく教会に順応できた人間しかいなくなっちゃうでしょうね、現代の風潮はそんな感じですけど僕の友人の二世会員はどちらかと言えば親に連れてかれて教会に来てる人間の方が多いのでそういった風潮に教会がなってしまえば教会に来る人間って格段に減るような気がします。
なので幹部連中が「信仰は個人的なものである」とは言わないと見ていますが、やはりそういった問題に直面したのもここの教会の上層部は時代に敏感ではないんだと思います、同性愛問題も黒人問題にしてもここの教会は要領が悪いかと存じます。
僕みたいに若い人間からすると表向きは教会来てても親から離れたら教会には行きたくないと思ってる人間は教会員が考えている以上にいると思います、まぁ僕はそういうわけで教会に行きたいとは思ってなかったりします。
先日のステーク大会でも、招待された伝道部長がその趣旨を強調していました。
つまり、「モルモンの型の中にはまる人だけを探して、バプテスマを受けさせる。」と言うことです。
福音を伝え、キリストの救いに導く、と言う考えからは、とんでもない話です。
選民主義、余任の原則、まるだしで、ぞっとします。
で、自分達会員の子供も、教え導くんじゃなくて、「選ぶ」んですね。選ばれた人を探す。
自分の子供まで、「この子は選ばれなかったんだ・・」って思うしかない親の気持ちはどんなんでしょうね?
そして、「うちの子は、セミナリーに出席し、その後伝道に出た・・」と誇らしげに話す指導者・・・。
なんか、おかしいって思わないんですかね??
会員が子供を「選ぶ」ような意識を持つことはないと考えます。不活発な子供を持つ親の多くは分け隔てなく子供を愛し、子供たちの物心両面の福利のために心を砕いています。・・[血統から言えば、親が選民なら活発不活発を問わず子も選民]
今教会に来ている子も一生で見るとき走り通せるかどうか、今来ていない子も将来教会に戻るかもしれないし、戻ることがなくてもよい市民として幸せな生活を送り神に喜ばれるかも知れないのです。
私もそうですが、純粋な心で信じている人たち、教会を運営している人たちの姿(敬虔)を尊重することも大切です。・・おかしいと思うことがあっても心の内に留める・・言わずにおれなければここのコメント欄のような場所で言う???
どこかでブログ主宰者のスタンスから逸れていくように感じることがあるのですねぇ。A の次+ uta-san.:D
七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。
徒然草(吉田兼好)19段.「折節(おりふし)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。」より
「猪言草」(いごとぐさ)など折節に綴り、因特網に載せるやよし。われ時折訪ね見るべし。如何。
・・・信仰とか信心というのは賜物です。親鸞聖人の教えでもそうだし、キリスト教でもそうです。信心を持つことは自力ではなく他力です。ある意味、縁がなければ信じることもない。だから「神義論」などで、この世の苦難・不条理に対する納得いく答えが聖書に見つからないから信じることをやめるとかいうのは、その人自身、そもそもが聖書が示す神に縁がないのです。キリストに縁がない、その父なる神との関係に無かったのです。信心を与えられている人、聖書の道に縁があり、キリストの神との関係の中に生かされている人は、どんなことがあっても信仰を放棄することはできません。十字架です。
棄教というのはせいぜい、キリスト教という一つの相対的宗教をやめることであり、キリストの神への信仰を棄てることではありません。キリストのもとに引き寄せられた者、すなわち聖書の道に縁あり、キリストの神との関係に置かれている者は、自力でその関係から出ることはできません。「神義論」でキリスト教会を出ることと、キリストの神への信仰を棄てることとはイコールではありません。キリスト教徒ではないが、キリスト信徒である人はいます。それはアリなのです。
>聖職につく人はなぜこうしたことを信者に教えようとしないのだろうか。説教壇に立つときはともかく(説教をするときには敬虔さが求められる)、成人講座などにおいても歴史的・批判的アプローチではなく、信心をもって聖書を読むようにしか語らない。
・・・一概には言えませんが、「聖職」と言ってもプロテスタントの場合は「生職・生業」でもあり、その教会でやってゆきたければ信者が喜ばないことはなるべく言わない、やらない方向にゆくのは心理としてわかるでしょう。むしろ牧師や司祭に「聖」なる面など期待する方がおかしい。「聖」なるお方は神のみです。親鸞聖人のように自らを「悪」人と言って人々と交わったような宗教者が逆説的に「聖」なる人だと言えます。
前半、>信仰とか信心というのは賜物、縁がなければ信じることはない・・
に同感です。ちょっと関連して「相性」が合うという表現が思い浮かびます。提示された深く、広い視点から学ぶことができます。
後半、聖職者の置かれた立場を再認識することができました。(私はそのような側面に思い及ぶことなく尊敬の念だけ持っていたように思います。傑出した神学者[牧師でもある人]の著作を読んでそのような印象を持つに至っていたようです。)