《補われた知と対をなすもの-24》
『カモメのジョナサン』はヒッピーたちが回し読みし、一般に広がり、ベストセラーとなったのは、この本によって「補われた知」とそれと対をなす「心」の発見または共鳴であったのであろう。ヒッピーとは、偏に、風変わりで対抗的な人と認識されやすいが、ヒッピーの語源は、ヒップスター(hipster)に由来し「現代感覚に敏感な者」、「本当のフィーリングをもった者」といった意味があった。『カモメのジョナサン』が一般にも広がったということは、誰しの「心」にもヒッピーと類似したものがあり、発見または共鳴という理解可能な「自己をもたない心」があることを証明した。不自由とは、自身を規制するまたは他者を規制してしまう五感による判断であり、もう一つの感覚「心」を無視したものだとしている。それに対し自由とは、「自己をもたない心」に気づき、認め、五感による「経験知」と対をなすコラボレーションが様々なことの発見または共鳴という解放感のある新たな感覚を自由だと彼らは言っている。そしてこの自由は、日常の様々などんな小さな物事でも、経験または行為という訓練を怠らないことで(対となるものを増やすことで)「無限」になるとも言っている。
ジョナサンが最後に残した言葉、「そのフレッチャーがきみの教師だ。きみに必要なのは、その師の言葉を理解し、その命ずるところを行うことなんだ」(2014年07月14日の日記)つまり、「自己をもたない心」である。自身を見つめ、自身が「心」で信じられる真実の行為は、誰もが持っている「自己をもたない心」といつかつながるものなのである。実際、生きる過程の中で、たたえられる正義としての行為であったとしても、道徳的に違うものであったとしても、自身の参照領域による「補われた知」と対をなす「心」のありかたによってつながり、グループや集団、組織として現れる。そしてそこに在る規制によって、「自己をもたない心」に気づかぬ限り自身の参照領域を限界づけている。彼らは、自身の「心」を理解し、何度も見つめること、どんな些細な物事も経験し訓練すること、そして「自己をもたない心」に気づくことで、限界を決定づけている自己操作からまぬがれることができると、言っている。・・・・・つづく。
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