教科書やマニアルにはない考え方。

これはいずれ本を書くためのメモみたいなものなので、理解不能・誤字脱字でいっぱいです(^▽^;)

静寂のカオス  実践中・・・・・(新たな光・・・・・ガイア)

2013年11月13日 | 日記

私たちが追い求め、強化し防衛する奇妙な「点(別のものに似た素因と、別のものに似た感覚)」つまり、自己や自我は、今を生きる瞬間の経験を不連続にtを捉える。

しかし、「生」とは逆の「死」を見つめた時、どんな役割を果たしているだろう?

そのことを仏教の世界では、輪廻または宿業(現代では宿命とも天命とも同義に用いられている)の輪といわれる、生涯に至る出来事を説明するのに12種の因縁があるとし示している。実際には、修行者が条件づけられている心の鎖を断ち切ることと、洞察を磨くための実践的な修行である。

1. 無明(真理を知らない無知)

無明とは、心や実在の本質について、無知なことを意味する。自己や自我が実際にはないことを、まだ経験的に知らないことを意味する。それは、無知に由来する混乱(我儘や誤った見解や感情)をも意味する。

2. 行(意志作用)

無明な人は自己を基盤とする。つまり、それがなくては自分なりの志向を持てないのだ。実際に自己や自我のないことを知らないから、自己・自我に基づいた常習的で執着的で反復的な活動を繰り返すのである。根拠のない自己をばらまき安定

3. 識(意識)

識とは、「五蘊」の5番目の蘊にあたる。心に関する経験であり、感覚器官(目標や目的・対象物)との接触の経験である。つまり、ある状況における認識の最初の瞬間である。しかし、「知」ではない。「無明」に基づいた「行」がある者がある者と関わり、環境や系統や時を「無明」に基づいた「行」で、常習的で執着的で反復的示すため叡智(深く物事の道理に通じる才知)ではないのである。ある瞬間の意識に捕らわれ、長らくその意識が続くのは、過去の「行」の蒔いた種によって条件づけられる。

4. 名色(入り混じった身体)

心は身体・肉体(表情やおもむき)に色を求める。ある瞬間のある影響や、その時の気候・環境・季節により移ろう色を求める。色は感覚的で、おもに心が瞬間的に判断する特色を持っているのであろう。

5. 六処(六つの感覚)

「五蘊」の1番目に相当する六つの感覚器官である。見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触る、考えるという、六つの感覚器官が瞬間にせよ関わっている。

6. 触(接触)

ここまでの処を有することは、感覚が適切な目標や目的や対象などと接触することを意味する。瞬間であれ意識であれ対象との接触にかかわる。「触」は遍在する心の因子なので「触」のない感覚経験はあり得ないのである。

7. 受(感覚)

「触」により、快い、気持ち悪い、どちらでもない、という接触感覚が生じる。その時、人は「受」の調子により完全に圧倒されているのである。それ以外のものではないと・・・・・。しかし、感覚は遍在する因子を持っている。

8. 愛

「愛」は「受」より生じる。快さを願い不快を避けることである。「愛」とは根源的で、自動的な反応である。「愛」は因縁において重要な「点」である。因縁は過去の条件により自動的に回ってきた。しかし、ここで生き様を知った人は、この状況に手を打つことができる。妨げることも、進むことも・・・・・。つまり、「愛」とは変化の可能性を決定することなのだ。

 

実際、修行者はここまでの因縁を順逆の両方向たどることにより、心の鎖を断ち切る基本訓練をしている。では、逆方向に辿ってみよう。

「愛」が根源的で、自動的なのは、「受」による圧倒される感覚が必要であり、「受」を有するには感覚が何かとの接触を必要とし、その感覚に触れるには「六処(六つの感覚器官)」がなくてはならない。そして、

私たちが追い求め、強化し防衛する奇妙な「点(別のものに似た素因と、別のものに似た感覚)」つまり、自己や自我は、今を生きる瞬間の経験を不連続にtを捉える。

しかし、「生」とは逆の「死」を見つめた時、どんな役割を果たしているだろう?

そのことを仏教の世界では、輪廻または宿業(現代では宿命とも天命とも同義に用いられている)の輪といわれる、生涯に至る出来事を説明するのに12種の因縁があるとし示している。実際には、修行者が条件づけられている心の鎖を断ち切ることと、洞察を磨くための実践的な修行である。

1. 無明(真理を知らない無知)

無明とは、心や実在の本質について、無知なことを意味する。自己や自我が実際にはないことを、まだ経験的に知らないことを意味する。それは、無知に由来する混乱(我儘や誤った見解や感情)をも意味する。

2. 行(意志作用)

無明な人は自己を基盤とする。つまり、それがなくては自分なりの志向を持てないのだ。実際に自己や自我のないことを知らないから、自己・自我に基づいた常習的で執着的で反復的な活動を繰り返すのである。根拠のない自己をばらまき安定

3. 識(意識)

識とは、「五蘊」の5番目の蘊にあたる。心に関する経験であり、感覚器官(目標や目的・対象物)との接触の経験である。つまり、ある状況における認識の最初の瞬間である。しかし、「知」ではない。「無明」に基づいた「行」がある者がある者と関わり、環境や系統や時を「無明」に基づいた「行」で、常習的で執着的で反復的示すため叡智(深く物事の道理に通じる才知)ではないのである。ある瞬間の意識に捕らわれ、長らくその意識が続くのは、過去の「行」の蒔いた種によって条件づけられる。

4. 名色(入り混じった身体)

心は身体・肉体(表情やおもむき)に色を求める。ある瞬間のある影響や、その時の気候・環境・季節により移ろう色を求める。色は感覚的で、おもに心が瞬間的に判断する特色を持っているのであろう。

5. 六処(六つの感覚)

「五蘊」の1番目に相当する六つの感覚器官である。見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触る、考えるという、六つの感覚器官が瞬間にせよ関わっている。

6. 触(接触)

ここまでの処を有することは、感覚が適切な目標や目的や対象などと接触することを意味する。瞬間であれ意識であれ対象との接触にかかわる。「触」は遍在する心の因子なので「触」のない感覚経験はあり得ないのである。

7. 受(感覚)

「触」により、快い、気持ち悪い、どちらでもない、という接触感覚が生じる。その時、人は「受」の調子により完全に圧倒されているのである。それ以外のものではないと・・・・・。しかし、感覚は遍在する因子を持っている。

8. 愛

「愛」は「受」より生じる。快さを願い不快を避けることである。「愛」とは根源的で、自動的な反応である。「愛」は因縁において重要な「点」である。因縁は過去の条件により自動的に回ってきた。しかし、ここで生き様を知った人は、この状況に手を打つことができる。妨げることも、進むことも・・・・・。つまり、「愛」とは変化の可能性を決定することなのだ。

 

実際、修行者はここまでの因縁を順逆の両方向たどることにより、心の鎖を断ち切る基本訓練をしている。では、逆方向に辿ってみよう。

「愛」が根源的で、自動的なのは、「受」による圧倒される感覚が必要であり、「受」を有するには感覚が何かとの接触を必要とし、その感覚に触れるには「六処(六つの感覚器官)」がなくてはならない。そして、「六処(六つの感覚器官)」が存在するには「あなた」が心身あるものとして存在しなくてはならない。その存在があるには、「感」全般の「あなたの意識」がなければならない。

 

※風邪が流行っているようです(ゴホン!ゲホン!・・・・)体調管理はできていますか?お体は大切に・・・・・・。



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