学習塾を経営する50代の女性と30分ほど話す機会をもった。
彼女からの依頼で私の都合のつく今日を選ばせてもらった。約束の時間に行くと町の中でも一目置かれているケーキ屋さんのケーキまで用意して待っていてくださった。
教育について話をした。教育に関しては相当のキャリアがあるだろう彼女が一番強調したことは「失敗はよいこと。たくさん失敗することが何よりも大事。」というものだった。
よく聞く話だ。子供に失敗させろ。先回りするな。彼女は自分の子供が失敗して家に帰ると「やったーラッキー」と思っていたそうだ。
う~ん。わかるわかる。その通り。人は自分が経験したり腹落ちしたこと以外は分からない。失敗はその理解を助けることであり、先回りして子供に失敗経験をさせないと自分で問題解決できない大人になる。
スイスの名門校で最も古く、ローザンヌとジュネーブの間のロマン湖畔にある全寮制のル・ロゼ学院 ( le Rosey ) では、ハイキングに行くときに持ち物を生徒に連絡しないと聞いたことがある。
親元離れ寮生活をしている子供たちは、スイスの山を何時間も歩くハイキングに、ワンピースできたり、ハイヒールで来るする子供もいるそうだ。もちろん、そんな恰好で山歩きをすればどうなるか想像に難くない。失敗から子供を学ばせるらしい。
このような経験を皆さんはしたことがあるだろうか?
私はあるのだ。
仕事をしていた両親は、私が小学生だった頃、私を夏休みを親戚のうちに預けていた。私はどこへ行っても親のいない子供でアウェイの世界にどっぷりつかっていた。
世間は結構冷たいもので、親のいない子には始めは親切でも時間が経つにつれて扱いが雑になってくる。もちろんそうでない人もいる。だから、雑になる人と、雑にならずいつも親切にしてくれる人が見分けられるようになり、人に対する感受性がアウェイの中で育った子には強くなるとはとても理解できる話だった。
ある夏の日、山形の田舎の川に連れて行かれた。親戚のまたその親戚の家だ。私は十分な洋服も靴もなかったので、サンダルで上流の川を歩いた。サンダルは靴擦れができたし、アブにかまれて泣きながら歩いたけど、特に親切にもされなかった。こんなところに来るならもっと考えたのに。とも思ったけど、子どもの頭では想像しきれない世界があるのだ。
他にもこんな感じの失敗が沢山あり、今となっては、仕事や勉強で仕方なく一人で出かけるか、遊びで出かけるなら自分が信頼できる人とでなくちゃ出かけるのが嫌になってしまった。無意識に行動に制限をかけているのだ。
失敗感は惨めさや屈辱感、恥ずかしさなど、とても感じたくない感情を伴うことが多いので、私達にとっては見たくない過去の痛みとして封印されることも多い。私の行動に対する制限は、必要な保護が足りなかったゆえなのだと理解している。頭では分かっていても、いまだに出かけるときは、自分が信頼する誰かがいないととても不安なのだ。
失敗から学ぶときに本当に大切なことは、その失敗と感じる出来事から何を学び、何を今後に生かしていくかの教訓を得る事。
子どもに対し先回りせず、失敗経験を促すときに、大人はただ見ていればいいのでしょうか?放っておけばよいのでしょうか?見て見ぬふりで子供が失敗したらその子は前向きにそのことから学ぶのでしょうか?
トラウマになって、私の無意識のように怖がりな大人にならないでしょうか?
子どもが失敗するとき、大人はその子がどう反応しているのか観察して、教訓として前向きにとらえることが出来るように気を配ってあげる必要があるんじゃないかな?というのが私の洞察。
30分しか話せなかった塾経営者の彼女とはそこまで深く話せませんでした。
まだ未熟な私は、人の失敗を見つめる上でもっと具体的にどうしたらベストなのかを議論したかったなと感じています。
あぁ、私まじめすぎるわ。やっぱり。
でも、サンダルで上流の川歩きはつらいし、アブにかまれるのは本当に涙でるのよ。
そして、怖がりな私を気にしてくださる頼もしい方たちが周りにいる人生も悪くないの。(笑)。
感謝だわ。モノすごーく失敗してきたけど、ちゃんと生きてるし。仕事もしてるし。
きっと、なんでもいいんだろうな。
色々考えたけどね。とりあえず、笑顔で楽しんで生きるかぁ明日も。
では、この辺で。
彼女からの依頼で私の都合のつく今日を選ばせてもらった。約束の時間に行くと町の中でも一目置かれているケーキ屋さんのケーキまで用意して待っていてくださった。
教育について話をした。教育に関しては相当のキャリアがあるだろう彼女が一番強調したことは「失敗はよいこと。たくさん失敗することが何よりも大事。」というものだった。
よく聞く話だ。子供に失敗させろ。先回りするな。彼女は自分の子供が失敗して家に帰ると「やったーラッキー」と思っていたそうだ。
う~ん。わかるわかる。その通り。人は自分が経験したり腹落ちしたこと以外は分からない。失敗はその理解を助けることであり、先回りして子供に失敗経験をさせないと自分で問題解決できない大人になる。
スイスの名門校で最も古く、ローザンヌとジュネーブの間のロマン湖畔にある全寮制のル・ロゼ学院 ( le Rosey ) では、ハイキングに行くときに持ち物を生徒に連絡しないと聞いたことがある。
親元離れ寮生活をしている子供たちは、スイスの山を何時間も歩くハイキングに、ワンピースできたり、ハイヒールで来るする子供もいるそうだ。もちろん、そんな恰好で山歩きをすればどうなるか想像に難くない。失敗から子供を学ばせるらしい。
このような経験を皆さんはしたことがあるだろうか?
私はあるのだ。
仕事をしていた両親は、私が小学生だった頃、私を夏休みを親戚のうちに預けていた。私はどこへ行っても親のいない子供でアウェイの世界にどっぷりつかっていた。
世間は結構冷たいもので、親のいない子には始めは親切でも時間が経つにつれて扱いが雑になってくる。もちろんそうでない人もいる。だから、雑になる人と、雑にならずいつも親切にしてくれる人が見分けられるようになり、人に対する感受性がアウェイの中で育った子には強くなるとはとても理解できる話だった。
ある夏の日、山形の田舎の川に連れて行かれた。親戚のまたその親戚の家だ。私は十分な洋服も靴もなかったので、サンダルで上流の川を歩いた。サンダルは靴擦れができたし、アブにかまれて泣きながら歩いたけど、特に親切にもされなかった。こんなところに来るならもっと考えたのに。とも思ったけど、子どもの頭では想像しきれない世界があるのだ。
他にもこんな感じの失敗が沢山あり、今となっては、仕事や勉強で仕方なく一人で出かけるか、遊びで出かけるなら自分が信頼できる人とでなくちゃ出かけるのが嫌になってしまった。無意識に行動に制限をかけているのだ。
失敗感は惨めさや屈辱感、恥ずかしさなど、とても感じたくない感情を伴うことが多いので、私達にとっては見たくない過去の痛みとして封印されることも多い。私の行動に対する制限は、必要な保護が足りなかったゆえなのだと理解している。頭では分かっていても、いまだに出かけるときは、自分が信頼する誰かがいないととても不安なのだ。
失敗から学ぶときに本当に大切なことは、その失敗と感じる出来事から何を学び、何を今後に生かしていくかの教訓を得る事。
子どもに対し先回りせず、失敗経験を促すときに、大人はただ見ていればいいのでしょうか?放っておけばよいのでしょうか?見て見ぬふりで子供が失敗したらその子は前向きにそのことから学ぶのでしょうか?
トラウマになって、私の無意識のように怖がりな大人にならないでしょうか?
子どもが失敗するとき、大人はその子がどう反応しているのか観察して、教訓として前向きにとらえることが出来るように気を配ってあげる必要があるんじゃないかな?というのが私の洞察。
30分しか話せなかった塾経営者の彼女とはそこまで深く話せませんでした。
まだ未熟な私は、人の失敗を見つめる上でもっと具体的にどうしたらベストなのかを議論したかったなと感じています。
あぁ、私まじめすぎるわ。やっぱり。
でも、サンダルで上流の川歩きはつらいし、アブにかまれるのは本当に涙でるのよ。
そして、怖がりな私を気にしてくださる頼もしい方たちが周りにいる人生も悪くないの。(笑)。
感謝だわ。モノすごーく失敗してきたけど、ちゃんと生きてるし。仕事もしてるし。
きっと、なんでもいいんだろうな。
色々考えたけどね。とりあえず、笑顔で楽しんで生きるかぁ明日も。
では、この辺で。
ブログの記事を読んで、なるほどと思ったので、思わずコメントです。
子どもの頃のアブと靴擦れの経験の話、良かったです。
そうそう、可愛い子には旅をさせよとか昔からいろいろ言うけど、やっぱり、人に大事にされたり愛されたりしているって実感って、幸せに生きるのに必要ですよね。
忘れてしまいそうな部分に、わかりやすく光を当ててくださったことに、とても感激しました。
また、時々お邪魔させてくださいね。