三ヶ根山慰霊碑

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元満州第八〇五部隊慰霊碑

2013-12-21 14:22:12 | 七士廟門内慰霊碑

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             碑  誌

 満州第八〇五部隊は、昭和八年一二月編成以来、旧満州国の防衛を主任務とし治安粛正国境警備の遂行に精励する傍ら、支那事変勃発に際しては堤支隊として出動、張家口作戦に於ける迅速果敢なる行動により感状を授輿され、ノモンハン事変に於いて渡河侵入せるソ蒙軍を包囲殲滅する大戦果を収めるなど、武勲赫々たる伝統を有する部隊である。

 大東亜戦争熾烈なるに及び、昭和十八年軍令により白城子に於いて海上機動第一旅団第三大隊に改編、日本陸軍最強兵団の先陣として中部太平洋方面に派遣され、翌十九年一月部隊は一部をマーシャル諸島クェゼリン環礁にエンチャビ島に進出。悪条件を排して最前線陣地を構築中、敵は同月末より空海陸からの猛烈な砲爆撃の支援下に逐次、大軍を以て各島に上陸、苛烈なる戦闘に突入するも、孤立無援、被我戦力の懸隔著しく、一部は二月六日に、主力は同十九日祖国の不敗を念じつつ部隊長矢野大佐を先頭に最後の切り込みを敢行、全員玉砕したるものである。

     昭和五十六年十月十八日


騎砲兵第四聯隊慰霊碑

2013-12-20 11:43:21 | 七士廟門内慰霊碑

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               碑   誌

この慰霊碑は殉国戦友の英霊を祭る碑であると共に  死生栄辱を共にした騎砲兵第四聯隊の隊員馬匹及び火砲の墓標である

この部隊は昭和八年動員により編成された騎兵第四旅団騎砲兵中隊を前身とし  騎兵集団騎砲兵隊・騎兵第四旅団騎砲兵聯隊を経て昭和十五年騎砲兵第四聯隊となり  中支に於いて終戦を迎え終戦時全軍唯一の騎砲兵部隊として昭和二十一年五月祖国に帰還復員した  この間正に十有三年騎兵の大部隊を支援する砲兵として全員乗馬し  満州事変・支那事変及び大東亜戦争を通じ北は蘇満国境より南は揚子江南岸まで縦横無尽に大陸を馳駆して寧白なく  昭和二十年三月豫鄂作戦に於いては  軍司令官から感状を授与された

今この聖地にこの碑を建て 昭和の大御代に祖国を護るの大義に生きた隊員の微衷を後世に伝え祖国の平和を祈念するものである                     

    昭和五十三年九月                                               

                    騎砲兵第四聯隊全国戦友会 


南方航空通信聯隊連合会慰霊碑

2013-12-16 14:05:28 | 七士廟門内慰霊碑

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                碑   文

陸軍航空の充実拡大の方針に伴い、昭和十三年八月・・・延吉〔満州国間島省〕に第一航空通信聯隊が編成され、教育訓練に奨励し昭和十四年六月ノモンハン事件にその実力を発揮し以来~関東軍特別大演習を経て大東亜戦争に突入フィリピンを緒戦に、タイ・マレー・シンガポールを経て昭和十七年三月 ビルマ〔ミャンマー〕に上陸各飛行場に展開中、昭和十七年九月 第三航空通信聯隊を現地編成つづいて昭和十八年八月、第九航空通信聯隊、 同年十一月に更に第十一航空通信聯隊が編成された。 この編成に当たっては、第一、第三航空通信聯隊より人員を派遣編成されたものである。 各聯隊は南方全飛行場に展開してその任務を遂行し功績により南方軍総司令官 寺内寿一元帥より感状を授与されたるもこの戦いに多数の戦友を失いたるは痛恨の極みである。

国家再建の大道を誓って復員後は各自その任務を完遂すると共に、第一、第三、第九、第十一聯隊の戦友相集い、南方航空通信聯隊連合会を組織して親睦を深めると共に、 戦没者の慰霊事業に努力しているものである。 ここに慰霊碑を建立し殉国の英霊の功績と栄誉を永く後世に伝えると共に、生死を一つに闘った物故戦友の霊を祭るものである。

   平成七年八月十五日

                       南方航空通信聯隊連合会会長  市橋 敏雄               


飛行第五十戦隊慰霊碑

2013-12-15 15:25:23 | 七士廟門内慰霊碑

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飛行第五十戦隊は昭和十五年九月台湾屏東に於いて飛行第八戦隊戦斗中隊を基幹として編成せらる 翌十六年八月第三中隊新設せられ九十七式戦斗機装備の態勢を整う 同年十二月八日大東亜戦争の勃発するや勇躍比島に出撃 年明くるや昭和十七年一月主力は泰国ビルマに進出す 同年五月一時ないちに帰還一式戦斗機「隼」に機種改変戦力を増強爾後ビルマの第一線にありて航空撃滅戦 爆撃隊掩護 地上作戦協力 要地防空或いは船団掩護の務めに任ず この間乾雨季の変転を縫い遠くニューギニア支援或いは東部印度チンスキヤ飛行場を襲いインド空輸路の遮断に又昆朗を衝き 時に長駆カルカッタに侵攻す
インパール作戦に当たりては再度チタゴンを襲い敵空挺部隊を攻撃 し敵将をして賛嘆せしめたる拉孟守備隊に空中補給を敢行し 更にはミイトキーナ飛行場を奇襲す
我が戦隊も損耗を重ねビルマ平原の落暉の中に諸霊帰投を待ち侘びし事も幾度なりしか 三年有余に亘り西陲の鎖鑰ビルマの護持に任じ鉄桶の鵬翼及ばざる所なし しかれどもビルマ作戦全般の挫折はその勇戦奮斗もその戦果もいかんとも致し難く 大勢は既に移り二十年五月航空作戦はその終局を迎うるに至る これより先昭和十九年九月サイゴンにて四式戦斗機「疾風」に再び機種改変 南部拂印に転身し 更に昭和二十年七月本土防衛のため地上勤務員主力とも決別し台湾台中嘉義に展開中終戦を迎う
惣忙茲に四十年 碧空と海波和して静かなれど相供に語を得ず 唯諸英霊の赫々の武勲と英姿を偲ぶのみ
茲に飛行第五十戦隊及び関係の諸英霊に感謝敬弔の誠を捧げ その偉業を顕彰せんがため慰霊碑を此の地に建立す
   昭和六十一年四月五日
                  飛行第五十戦隊戦友会
                   慰霊碑建立奉賛会遺族 有志一同)
                               (戦友有志一同)

 


独立速射砲第二大隊忠魂碑

2013-12-10 15:39:21 | 七士廟門内慰霊碑

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     由  緒

昭和十五年五月独立速射砲第二大隊編成

南支派遣により南支派遣軍沖三七五〇部隊と改名

大東亜戦争勃発するや九龍半島、香港、アンポン、チモール、ジャワ島攻略戦に参加

昭和十七年ソロモン群島、ガダルカナル島進入

同年十一月三日大野中佐以下戦死 残存者はポーゲンビル島に撤退後幾多の作戦ニ参加

南?の孤島に散華せる戦友の多くが今眼前に浮かぶ

不変の石柱に心を込めて亡き友よ、永遠に安かれと祈りつつ

此処に建立、戦績を記す


お町さんの碑

2013-12-08 17:59:03 | 七士廟門内慰霊碑

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               碑  誌

 お町さんは、佛都福井県吉崎御坊近くの在家に生まれ、後、旧満州国安東市に渡って、湯池子温泉の女中頭となり、この地に終戦を迎えた。昭和二〇年八月十五日、敗戦国民と化した在満日本人は、家を奪われ、財を失い、悲惨な俘虜の運命へと追い込まれて行った。   奥地より陸続と伝えくる無残な同胞の悲報。然し此処にして、誰に何が出来るだろうか?若し出来得るとするなれば、それは機智縦横度胸あり、身を捨てて、同胞のために死んでくれる、そんな女人でなければならない。国境、北辺より避難南下の人々を抱えて、ふくれ上がった 安東幾十万の日本人の命運を背負っての責は、あまりにも重く、報いられる保証は全くない。 このときお町さんは人々に請われて「 挺身娘子隊 」を編成し、その総監となり、ソ連軍進駐し来たるや、慰安慰撫に奮闘、司令官の信頼を一身にして、日本人の被護活動に挺身した。奉天陸軍病院五龍背分院の重度症病兵、三上勝弘中尉以下一〇八名が、八路軍の分院接収により退去を余儀なくされ「 止まるも死、進むも死ならば、一歩でも日本に近づいて死ぬべし 」と、道を求めて彷徨、終に得られず、半死半生安東へ辿りついた彼等を迎え、「 お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は滅多に餓死させるものではありませんお町は唐人お吉ではございません、お町には国府も八路もございません。日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろう事は覚悟の上でございます。」 お町さんの活躍は、満州電電安東支社長稲津宗雄氏の回顧録 「 望郷 」 中の随所にかかれているが、彼女が、心神困憊、絶望のどん底にあった三上中尉以下に、生きる気力と体力、故国帰還の夢と希望を與えた事には全くふれられていない。                                        あれから三十余年、いよいよかなしく、あはれに、お言葉が忘れられず、ソ連軍撤退して、八路軍により鴨緑江河畔に銃殺刑となったお町さんの、死をかけた平和の祈りと冥福の久遠をこめて此処に碑を建立す。                                            

          昭和五五年九月

 


独立自動車第二四八中隊慰霊碑

2013-12-01 15:20:00 | 七士廟門内慰霊碑

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独立自動車第二百四十八中隊は昭和十八年九月名古屋輜重兵第三連隊補充隊において中隊長深田育三以下百八十四名をもって編成された 同年十月五日宇品出港釜山 台北 高雄 マニラ セブ ハルマヘラを経由して十一月十五日西部ニューギニア マノクワリに第四次突入隊として上陸し直ちに第二野戦飛行場設定司令部の指揮下に入る 後発の加藤小隊は一ヶ月遅れてビアク島に上陸 同十九年三月中隊本部及び鈴木小隊はスンホール島に上陸加瀬澤小隊は第二軍司令部直轄のレングニ飛行場建設に当たる 同飛行場完成と供にムミに進出したが戦況悪化のために第一遊撃隊の指揮下に入り ムミ地区の防衛に当たった 時既に戦雲俄に不利となりヌンホール島ビアク島は圧倒的優勢な米軍の上陸に遭遇して我が中隊を始め友軍一同勇戦敢闘二ヶ月ついに玉砕するに至った ムミ地区に進撃した加瀬澤小隊も連日連夜の猛爆と艦砲射撃を受け犠牲者続出し飢餓と悪疫のため半数が不帰の人となった 嗚呼恨みは深しニュウギニアの山河 我らは終戦により万斛の思いを残してこの地を後にした 以来四十一年戦陣に散った多くの戦友を想うとき万感迫るものがある 我らはここにその英魂を弔うためのこの碑を建立した 願わくは戦友諸氏安らかに眠り給え
                          昭和六十一年十月建立