残雪、もとめて

日々のあゆみに

万葉びとたちとの新年会「閑話-一字で変わる、叙景の映像-」

2024年10月16日 17時06分44秒 | 想うこと

上代の風景など、私の乏しい想像力ではとても描きにくい

しかし、似通った文字から一変するその叙景には、しばらく覚めることはなかった

そこまでになると、単に叙景詩ではなく「情景詩」とでも言えるものだと思う......同じ景色でも、見る人によって違う、そんな観念的な自身の変化に、驚きもした

これが、ある場面のワンシーンをどう感じるか、ではなく

一つの文字によって、その頭に描き映し出される場景が固定され、さらにその文字が僅かな可能性でも「誤字」であれば、

その「誤字」をどう扱えば、その一つの場面が描かれるのか......

 

もとより、趣味でのめりこんでいる「万葉集」

どんな方向へだって、自由気ままに走って行けるが、万葉の世界を逍遥するには、まだまだ知らないことが多く、

その都度気づかされては、手持ちの資料で確認して、自分に納得させる作業の繰り返しになっている

当然それが淀みない作業の一環とした流れになるはずもない

一つのことが気になれば、回り道、寄り道なんてお構いなし......そんなスタイルで、もう何十年も経っているが、面白いことは常にあるものだ

 

ここ数日、頭に描かれる場景が気になっている

ホームページに新しく設けた「難訓・未定訓」で拾い出した一首に、

 矢釣山 木立不見 落乱 [雪驪 朝樂毛]  巻三-264(旧歌番号262)がある

この歌の下二句が「[雪驪 朝樂毛」であり、現在でもおそらく定訓はないと思う

ないからと言って、まったく読めない訳ではない

上三句には、この歌の背景とも言える場面が浮かんでくる......問題は、そのあとの場面になる

奈良明日香村の八釣山、木立も見えないほど雪が乱れ降っている......

 

柿本人麻呂が新田部皇子に献上した一首だが、人麻呂の作歌には漢語を用いたり、助詞の表記がないものなど

後世の学者たちに、その訓の宿題を多く残している

何しろ、現代の私たちが、ある程度不自由なく万葉歌を諳んじられるのも、約二百年後の平安時代に

当時の歌人たちによって点けられた「訓釋」によるものだ

それまでは、ほとんどの人が読み解くことは出来なかった、という

不親切な人麻呂の残した「詠歌」を、何とか訓読しようと、多くの歌人・学者たちがそれこそ生涯をかけて研究している

 

この矢釣山の一首にある下二句の未定訓

古来より、様々な学者が自説を展開させて解釈しているが、ここまで難訓として残り続けるのは、

どれもが、十分な論理的な解釈を得られていない、そこに反論が加わり、さらに「誤字」説まで入り混じってくる

 

私自身の素人的なこれまでの思いは、「誤字説」は論外であり、それを認めれば多くの恣意的な解釈が可能になってしまう、だから「誤字説」には耳を傾けない

ほとんどそんな思いで、万葉集に多々ある異訓の中でも、誤字説には心を靡かせることはなかった

 

しかし、この上述の一首には......その正誤というよりも、その一字でもって私の脳裏に描き出される「上代のある一場面」が一変したからだ

 

未定訓の「雪驪 朝樂毛

ここに「」という文字がある

原文は「」だと言うが、現在一片もオリジナルが存在せず、現在では古来からの写本が伝わるだけで、そこに誤写があっても不思議でない時代

ましてや、活字楷書体になれている私たちには、常に難読となる古来からの書体

それが平安鎌倉江戸と時代を経ると同時に、どこまで正確にオリジナル本来の姿を維持できたものか、それはかなり難しいことと思う

」という漢字の読みと意味は、〔読み〕リ・レイ 〔意味〕[名詞] 1.真っ黒な馬。 2.黒色の竜。 [形容詞] 黒色であるさま。 3.[動詞] 並列にする。ならぶ。ならべる。

 「説文」によると、馬の深い黒毛のもの。「馬」から構成され、「麗」が音。

 

人麻呂の時代の、この「」という漢字の認識が、どんなものかは想像もつかないが、少なくとも「借音」の一首ではないようなので、

「馬」が少なからず関係していることは想像できる

そうすると、「雪」「馬」......そこから浮かぶのは、白い雪の中を疾走する黒い馬

 

私など、真っ先にそう思った

 

しかし、平安時代後期の諸本の一つ「類聚古集」に、「」ではなく、「驟」の字が載せられている

」の読みと意味は、〔読み〕シュウ 〔意味〕[動詞] 速く走る。馳せる。[形容詞] 突然なさま。急なさま。[副詞] 1.突然に。にわかに。並列にする。ならぶ。ならべる。2.しばしば。

 「説文」の〔形声〕では、馬が早く歩く。「馬」から構成され、「聚」が音。

 

どちらも「馬」が絡んでの作歌になるとは思うのだが、まだ誤字の解釈がある

それは、一首の意味合いから、人が集って賑やかに楽しんでいることから、「驪」を「騒」の誤字とし官人たちが出仕前の雪の降りしきる朝に集いて楽しんでいる、であったり

「類聚古集」の誤字説「驟」を、さらに「耳+聚」として、その可能性を論じたり......「耳+聚」だと、「雪に集まり・雪につどう」など、乱れ降る雪に「朝は楽しいなあ」とはしゃぐ官人たち

どうして「馬」を外したのだろう

 

もっとも合点のいくあくまで感覚的な解釈だけど、「雪にさわける」と読むと、単に賑やかな朝の出仕前の光景になるが、そこで「驪」の漢字が生きてくる

賑やか、そうその賑やかさは、ただ官人たちが集まって賑やかなのではなく、白い降る雪の中で、黒い馬を走らせて歓声をあげている光景

「さわける」を「騒ぐ」の誤字として解釈するのではなく、「驪」という字自体にそれを想い描かせる情景があると、私は思う

 

「雪驪」の古来よりの主な「訓」 〔何しろ「驪」字は、万葉集中、この一首にしか使われていない〕

ユキモハタラニ  「はたら」は「斑」 白雪と黒駒のコントラストとか、まだらに積もる雪か まだらであるさま

ユキニクロコマ  「説文」に「黒毛馬也」とある

ユキニキホヒテ  「キホフ」は張り合って勇み立つ。先を争う 

ユキニサワキテ  「やかましく声や音を立てる、騒がしくする」

もっとも新しい万葉集の叢書の一つである、岩波の「新日本古典文学大系」では、一案として「ユキニツドヘル」を載せるが、

同じく小学館の「新編日本古典文学全集」では、訓なしとしている

 

従来のそれぞれの研究者たちは、個人の思いを論文として書き記すことができるが、

一般の人たちに万葉集の面白さを伝える全集の類ならば、複数の研究者が関わっているだろうから、なかなか個人の見解は載せ難いのだろうか

 

先ほどの「驪」や誤字説も含めて、「馬」が背景にあることは、すぐに理解できる

しかし、この場合はそんなに一般的ではなかった

と言うのも、つい先日まで同じく難訓とされる歌に接していた

それは、「舟公宣奴島爾」(巻三-250(旧歌番号249)の下二句

この訓で、「舟公」を様々な訓解釈がされている

結句の「宣奴島爾」の誤字説などの影響で、第四句の「舟公」にも訓字方に多少の違いはあるが、

多くは「フネコグキミカ、フネハヨセナム、フネヨセカネツ、フナビトキミガ、フネナルキミハ」

更に「宣」を「宿」の誤書写として「フネコギトメテ」などがある......上代の書体では、こうした似通った字の間違いは多かったと思うが......

 

このとき思ったのが、「舟公」、を意味はある程度わかるのに、どう訓めばいいのだろう、と

上述のように、訓見方は様々にあるが、ふと思ったのは、

「夢人」と書いて、夢を見る人

「旅人」と書いて、旅をする人

などのように、「~をする」が省かれていても、その意味は理解できる

ならば、「舟公」の場合、「舟漕ぐきみ」になるのだろうか......「ふねこぐきみ」 近現代より上代に近い注釈書の方が、素直にそう解釈しているように思える

 

まだまだ、古文の言葉には、惹かれてしまう

 

 

 

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万葉びとたちとの新年会「閑話~万葉の幻想を放ち~月西渡」

2023年08月07日 11時27分56秒 | 想うこと

「万葉の幻想」という言葉が、適切であるかどうか私の語彙能力では分からない

具体的に言えば、「万葉集の謎」のような類として、それが万葉集の大きな魅力の一つであること、と漠然と思っていた

「謎」というからには、研究者・専門家諸氏の数多くの論文や書籍があり、そのどれもが私のような素人にはつい読み耽ってしまうような魅力を持っていた

ただあまりにも多くの書籍に接することが出来るということは、それだけ自説の持ち合わせのない私には、ただただ混乱の極みでもあった

そもそもそんな「多くの謎」の、何とか解き明かそうとする気概もない私には、どれもが「なるほど」と唸るだけで、結果的に時が経てばもう頭には残らない

それでも、若いころから馴染んできた「万葉集」には、いっぱしの思い入れはある

二十代のころに夢中に読み耽った「相聞歌」や「挽歌」

何のことはない、誰もが味わう青年期の甘酸っぱいセンチメンタルの自己陶酔に他ならない

 

それがいつしか、二十歳のころに出逢った「万葉集」に少しずつ深入りし始めたのは、

たんに「その歌」の持つ意味・心を「もっと知りたい・本当はどうなのか」という純粋な興味からに他ならない

しかし...以下に、その時点から今日に至るまでの「私自身の万葉集変遷」を綴っていく

 

これまでブログやHPで、何度か書いている万葉集との出逢いは、当時山登りに夢中になっていたころの冬合宿にあった

およそロマンとは無縁な私が、冬空の星を観ても決して心を動かされることもなかったのに、

その星空を見上げて静かに涙する先輩の姿を見て、思わず涙ぐんだことから始まる

なんでこの俺が、と驚いたものだが、その合宿中にある仲間が熱っぽく語る万葉の世界に、少なからず気になり始めた

それが、私の万葉集への第一歩だった

 

文学とはそれまで一切縁のなかった私が、冬の山という特別な環境の中で、言ってみれば、その後の人生を大きく変えたひと時だった

その時の下山後、古本屋で一冊の万葉集の文庫本を買った

勿論、読み拾うのは、相聞歌ばかりで、その歌意に引き込まれ、次第に諳んじるようになっていた

いつしか、ありえないことだけど、誰かに手紙でも書く機会があれば、その万葉歌の一文でも借用して、などと夢見て...

当時の通信手段は、現代のような手っ取り早いものなどなく、唯一「手紙」だけだった

その手紙に、文字を書くことが、何故か私をときめかせたものだ

決して人に読ませるものではなく、書くことこそが一番の喜びだった

その数年前、高校生のころ、山を初めて登り、それ以降山登りに夢中になって始めた「山想い」の綴り書き

気づけば大学ノート32冊にまでなってしまったが、日々欠かさず書き続け、就職するまで「山想い」と「万葉集」は一日も欠かさず書き続けた

 

今思うと、就職しても続けていればなあ、と思うのだが、つい社会人の誘惑に負けてしまって...

 

「万葉集」に初めての変化があったのは、いつものように読み慣れた歌を、その情景を浮かべながら目をやっていた時

それまで、最初に買った文庫本以外に、他の本を読みたくなってまた古本屋に行ったこと

そのとき、初めて知ったのが、「万葉歌の訓」

私がそれまで知っていた「万葉歌」は、唯一の「訓解釈」で、他に異訓もなく、もちろん歌意の解釈もそれしかないものだ、と思っていた

ところが、万葉集のオリジナルはなく、現存するのはすべてが写本の系譜であり、そこに誤字もそのままに後世に伝わっている系譜もある現状

当然、古来の万葉学者は、どの系譜の写本を手元に置き、訓解釈をし、歌意解釈をしたのか、それが無知な私でも不思議に思えた

何しろ、まだ「平仮名」のなかった時代、発する音の表記は、漢字でしかない

ましてや、公文書として使用されている「文字」は、八世紀初頭の日本書紀の漢文...かろうじてほぼ同年代の「古事記」は、漢字表現の「日本語」のようだが...

平安時代の公文書として勅撰歌集「古今和歌集」が、初めての平仮名で世に出るまでは、公文書はすべて「漢文」だった

 

となると、古今和歌集の撰集時期より、約二百年ほど前の「万葉集の時代」、いくら歌が当時の日本語で詠われようと、その表記は必然的に「漢字」のみになる

万葉集の諸本どれみても、漢字の羅列で頭が痛くなるが、中には時代を経るごとに、写本の繰り返しの中で、一首毎の段落があり、比較的読み易いのだが、

それすらない時代の「万葉歌」を理解するのは、整理編集に慣れている私たちには、ほとんど最初の段階で諦めてしまう

従って、今日どの万葉集の本を手にしても、非常に読み易いのは有難いことだが、それは決してオリジナルではなく

極端に言えば、「五・七・五・七・七」で詠われていても、その漢字の訓解釈の字音次第では、どこで句切りをするのか、そこにも諸説が生まれる

万葉集の後期になれば、それこそ一音一字の「三十一字」万葉仮名が多く見られ、句切も訓みも比較的容易にはなるが

柿本人麻呂の時代の万葉集となると、やたらと「漢語・漢文」表記が多く、言ってみれば、「テニヲハ」などの助詞の表記さえない

そこにも、当然諸説が存在してしまう要素が多くある

助詞如何によって、歌意の解釈も変わってくる場合が多い

ただ、全体の文意に沿って読み下したり、歌意解釈を行うのだろうが、それは専門家に委ねるしかないのがないのが、素人愛好家の現状だろう

平安時代から、長年様々な解釈が行われて来た「万葉集」の研究成果の積み重ねは、確かに年々より合理的な解釈に近づいては行くのだろう

素人が、いくらこの歌は、こう解釈すべきだ、と感想を述べても、一字一句の長い間の研究成果には太刀打ちできない

 

唯一、素人でも可能なのが、「自分の心に、その歌はどう響いたのか」...これが、私のHPでのテーマになってはいるが、

人は、必ず思い入れが強いと欲が出るもの

私は次第に、原文...漢字表記として伝わっている歌に積極的に触れることにした

勿論、それにしても諸説が多く、これは写本の段階で誤字のまま残ったものだ、とか

オリジナルの漢字の曖昧さが、十分解明されないまま、歌全体に合わせて恣意的に漢字を充てたり...もちろん、多くの他の資料から考証されたにしても...

今回は、その姿勢で私が初めて感じた、「月西渡」を取り上げる

 

万葉集中で、原文「西渡」という表記は、唯一柿本人麻呂作歌のこの歌しかない

 

 万葉集巻第一-48

東  野炎  立所見而  反見為者  月西渡 (訓通釈 ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

この「月西渡」を、どうして「つきかたぶきぬ」と訓めるのか、不思議だった

「つきにしわたる」もあったようだが、江戸時代の初期の万葉歌を本格的に解釈した僧契沖の「代匠記」には、

「西渡」を義訓として「かたふきぬ」と訓むが、初句の「東野」との相対する詞とすれば、「ヒムガシノノ」、「ニシワタル」と字のままの方がいい、と言う

同じく江戸時代後期の万葉注釈書「万葉集古義」の鹿持雅澄は、やはり義訓として「ツキカタブキヌ」と訓む

これは、万葉集にある用字法とされるもので、漢字の意をそのまま用いた「表意文字」と、漢字の意味を離れた音だけを用いる「表音文字」があり、

「義訓」は「表意文字」の中でも、「訓」を用いたものをいう

例えば、「寒過暖来良思(フユスギテハルキタルラシ)、金(西ニシ)、角(東ヒムガシ)、白(秋アキ)、丸雪(霰アラレ)等」

月が西の空にある状態を、万葉集では「傾く」という

従って、「カタブキヌ」と義訓としての説明が成り立つのだが、もっと深堀すれば、助詞もないのに「完了の助動詞ぬ」を訓むのは、やはり文意に沿ってのことなのだろう

ついでに言えば、第三句「而」、第四句「者」は、助詞を表記しているのに...何故だろう、と疑問を持つ

 

この表現、もう一つ、解釈上にふと私自身の実体験を思い起こさせてもいる

もう四十年ほど前にもなるが、ジャカルタ駐在の時、市街地から空港に向かう時のこと、

南の空に「南十字星」が見えた

その星座は、普段でも見ることができるので、特に感動したわけでもなかったが、思い出したようにふと北の空を見た

空港間近になると、その道路は海岸沿いを走り、北面が海なので、北の空が視界いっぱいに広がる

そこで見たのは、思いもしなかった「北斗七星」だった

ただ、日本で見るような見上げる空の一角というのではなく、北側に広がる海原の水平線上、視覚の右から左いっぱいの大きさで横たわっていた

さすがにこの光景は息をのむほどだったが、当時は現代的な撮影手段もなく、ただただ心に刻むしかなかった

 

この48番歌の一つとっても、野にかぎろい、それが曙炎ならば、詠歌の舞台「安騎野」にそぐわない、などと諸説があるが、

私個人としては、普通に何気なく見えることのできる東野に曙光が差し、ふと西側を振り返ったら、輝きも薄い夜も終えんとする「月」...そこに何を感じるか...

 

原文から訓の解釈自体もままならないもの

その大前提が違えば、当然歌意解釈にも相違がある

初めて手にした万葉集の文庫本、それから他の万葉本で知った専門家たちの諸説

確かに通説と言われる解釈には、素人がこうは解釈できないかなあ、などと異論を挟むのもおこがましい

しかし、古語を恣意的に解釈せず、文法も自分なりに学び取ってその歌から自分に響く解釈、それも万葉歌を楽しむ一つの方法だと思う

 

思えば、古来からの万葉研究の積み重ねに基づいて、素人の私でも万葉歌をそれなりに楽しんでいる

しかし、ふと思うのは、その出来上がっている万葉研究というある種の絶対的な成果に囚われ過ぎていないのだろうか

そんなことも最近強く思う

 

「万葉集」は、一般的にいう「歌集」なのか

俗に「万葉歌人」とは言われるけど、私自身古くから「歌人」とはイメージが相成れなかった

古今和歌集の時代から、確かに「歌人」はその職制、家門めいたとらえ方も不自然ではないが、

万葉の時代の詠歌は、決して「歌人」というイメージではない

それぞれが官僚であったり、市井の人々(もっとも作者未詳が多く含まれるが)、地方の歌...

何しろ、文字を書き残すことができる人たちの階層が、漢字しか手段もなく

しかも、表音、表意などかなりのレベルの人たちでないと詠い残せないものだ

当然、才あるあるものが、巷で伝わる謡を書き残したり、誰かの詠んだ歌の代筆もされたことだろう

 

そこで思い至るのが、創作も多分に編纂されているのでは、と

その時代には、遣唐使のもたらした、大陸からの文献、文学的な書物も多かったようだ

都の貴族たちが、流行りのように競って手にしたと想像もできる

その流れで、創作的な表現が万葉集にも残されている...そんな歌は、万葉集には結構多い

 

研究者たちの、長い長い期間の研究成果の積み重ねを、それに沿う形で、私たちは享受しているが、

あるいは、その部分部分では、間違った前提解釈に乗っているのかもしれない

「万葉集」という名称から始まって、誰が編纂して、いつ成ったのか

万葉集は勅撰歌集ではないので、その記録もないのはやむを得ないことだが、少なくとも初の勅撰歌集「古今和歌集」が世に出るまでの百数十年間、公にはその記事はない

その間、限られた人たちの間しか、「万葉集」の存在は知られていない

しかも、893~913年成立の菅原道真「新撰万葉集」、905年成立の紀貫之等「古今和歌集」の序に、「いにしへ歌」万葉集の難解さを言及している

現在私たちが普通に読み歌意を理解できるのは、それから半世紀の後に有名な「梨壷の五人」による、万葉集を初めて訓解して以降のことだ

それは、まさに平安時代の歌人たちの「平安時代における」万葉歌なのだと思う

実際の万葉時代の「訓」は、そうした人たちの見識で成り立っている

梨壷の五人の一人、源順のエピソードで、万葉原表記「左右手」の訓を、随分悩み苦しんだ件がある

苦しんで思いついたのが、右手、左手、そして両手のことを「真手」ということに行きつき、「左右手」を「両手」、そこから「真手」それを「マデ」と訓む

 

 万葉集巻第七-1189 大海尓  荒莫吹  四長鳥  居名之湖尓  舟泊左右手 (大海にあらしな吹きそしなが鳥猪名の港に舟泊つるまで

 万葉集巻第十-2327 誰苑之  梅尓可有家武  幾許毛  開有可毛  見我欲左右手二 (誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに)

副助詞「まで」の訓解釈の一端だが、確かになるほどと言える成果には違いない

しかし、やはり違和感は残る

その成否はともかく、時代を離れた非当事者における「訓」であることに、完全にそれで間違いないです、と言えるのだろうか

このような現在に通じる万葉集の歌の数々は、決して万葉の人たちが詠った本当の姿だと、思ってはいけない

もっとも、その可能性が大きいのは、当時のオリジナルに当時の人が、私はこう訓みました、とフリガナを付けていれば何も問題はなく

それが完全に不可能であることは承知なので、であれば、ほとんど可能性のない解釈だって、入り込む余地は、決して有り得ない事ではない

 

万葉集の「謎」という大上段な構えはするつもりはないが、私にとっての「万葉集はこうあってもいいなあ」と自身に響かせる目標を抱かせてくれる

 

万葉歌の全解釈(死ぬまでには絶対無理)、その過程でいわゆる謎といわれるものに遭遇し、そこでまた立ち止まって考えるのも楽しみだ

 

万葉人たちとの新年会、早く再開させたい

コメント

逢いたい人に尋ねて―仙覚以前、そして仙覚

2021年03月04日 14時54分37秒 | 想うこと

すでに確立されている、と思い込んでいるものを何も気づかずに過ごしてしまう

若いころには後に愚かなことだったと感じることでさえ、それが真っ当なことだと信じて進み出すエネルギーを、後年の自身が肯定している

...もちろん、今でもその心構えとかその有意性はしっかり認識している

ただ残念なことに、年を経るにしたがって無意識であってもその限界自体を見つめていることに気づくことがある

いつもの思考や空想などが自由に飛び回らない、ということはそのことだった

 

「萬葉逍遥」というこの上もない、私にとってはリストの「前奏曲」に重ねて悦に入っている残りの人生を、

もっとエネルギッシュに想い巡らせたいと思っているのだが、なかなか難しい

ただ一つ、ささやかな目標ができた

それは、まもなく二歳になる孫娘に贈り続けようと思っている「童話萬葉集」という発想だ

私が死ぬまで取り組み、それでも終える事の出来ないHPでの万葉集解釈を、その孫娘に何とか引き継いで欲しいのだが、

まず、万葉集に興味を持ってもらわなければならない

そのために、判り易い物語性を持たせた一首の解釈集をやってみようと思う

もちろん、あくまでも孫娘だけへの贈り物として...

 

ただ、そう意気込んだところまでは、ひところのエネルギーの満ちている自分を感じたのだが

そこでまた私の悪い癖が出てしまった

一首一首の物語性、とは言っても、それは私にとっては普段解釈しようとしている姿勢と少しも変わることはなく

むしろ考えられる範囲での幅のある解釈を、今まで以上に並べてしまう

 

そこで現在休会中の「万葉びとたちとの新年会」に再び顔を出して、彼らのアイデアを参考にしたいと思いついたのだが、

その道中、思いがけない人と出会ってしまった

それは、万葉の時代に生きる人ではなく、むしろ現在の私たちが普通に万葉集を楽しめるのは、鎌倉時代の僧・仙覚(有力説1203年生)のお陰、と言われるその人だった

ここ数年、私自身も何度も彼の業績に感嘆させられたものだが、未だにその実感が普段接する万葉歌から直接感じられることはなかった

どうしても、歌意解釈となると、より深く研究されて資料もどんどん新たな解釈を呼び覚ます現代の「歌意解釈」に想いが靡いてしまう

私自身いくら自分自身の解釈を心掛けていると言っても、本来古典の素養のまったくない者なので、やはり現代解釈に結果的には追従しがちだ

 

ところが、仙覚のことを意識し始めてから、無性に「古人」の万葉解釈、万葉観というものに魅力を感じてきた

仙覚は四千五百首余りの全歌の解釈ではなく、抄出された「萬葉集註釈」を残しているが、

それは、いわば当時の万葉集辞典のようなもので、歌の解釈というよりも、語句の解釈と訓...漢字表記の万葉集の読みを成したものだ

 

先日古書店で買った、「萬葉集の研究―仙覚及び仙覚以前の萬葉集の研究」(佐佐木信綱著、岩波書店昭和十七年刊)、

戦前の研究書に例外なく非常に読み辛い文体だが、今の私には、「仙覚以前」の研究という言葉が何よりも心地よい

読み進めていくと、何度もそこで立ち止まり、もう一度読み直さなければ理解できないもどかしさもまた、本当に心地よいものだ

 

私が漠然と知っているのは、現代でも「訓」の定まらない万葉歌が実に多くあり

確かに、通説として知られている「訓」であっても、なかなか無視し難い異訓もあり、そこにも一定の魅力が存在する、ことなど

それらの出発点、いや「読もうとした」古人の出発点には、きっと現代の私たちが感じることのできない「歌の心」がったように感じてしまう

 

これは仕方のないことだが、万葉歌の通釈を拾ってみると、その歌心に、少なからず現代の情景を浮かべてしまう

しかし、万葉の時代の「詠み人」たちの情景、歌の心を、あの漢字表記から、どうやって汲み取れるのだろう

 

今回、せっかく「仙覚」と出逢ったので、前述の古書の冒頭を引用して、尋ねたいことを整理しておこうと思う

 

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 第一章 註釈的研究

  第一 仙覚以前

   第一節序説

 

 吾が国の歌集中最も庶民詩的性質を有すること多き萬葉集も、それが萬葉仮字の書式に記載され、一個の典籍となつた時には、すでに智識階級の間に行はれる文学となつて、一般庶民のもてあそぶものではなかった。されば、その書写して伝へられた範囲も、少数の官吏、学者、歌人などの間に限られて、極めて狭かつたものと考へねばならぬ。

 其のうちに時勢は変遷して、古今集勅撰の前頃にいたると、萬葉集は、専門家の間にすでに難解なるものとなつて了つた。即ち、天平宝字三年(萬葉集中最も新しい歌の時代)を去る約百年、貞観の頃には、清和天皇が、時の歌人に萬葉集撰定の時代をお問ひになつたことが、古今集に出てをり、つづいて新撰萬葉集の序(寛平五年九月)には、「夫萬葉集者、古歌之流也。文句錯乱、非v詩非v賦、字對雜糅、難v入雜v悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。」とあり、さらに古今集の真字序には、平城宮と平城天皇とを混同して、「時歴2十代1数過2百年1」と記した。まして況んや、其の後にいたつては愈甚しく、後拾遺集の序には、「ならの帝は、萬葉集二十巻をえらびて、帝のもてあそびものとし給へり。かの集の心は、やすきことを隠してかたき事ををあらはせり。そのかみのこと、今の世にかなはずして、まどへるもの多し。」とある。その他、後撰集、拾遺集、古今六帖等の中に撰び入れられた萬葉の歌を見ても、その訓み方が、歌風上から意識的に詠みまほされたのみならず、十分に萬葉の歌の語法を了解してをらないことを一面に示してゐるものがある。而してこれらを考へてくると、萬葉集といふごとき大部の書が、さばかりの年代を隔てずして、専門の学者歌人の間にすらこれほど解らなくなつたといふことが、不思議に思はれざるを得ない。併しこれは、一度奈良時代と平安時代とに、文字言語の上、趣味好尚の上に非常な差別があつたことを考へると、その理を解することが困難でないのである。而して、かくのごとき結果として、萬葉集は時の専門家の間にも難解の古典となり、随つて、学者が研究の対象となつた萬葉学は、ここに其の端を開いたのである。而して其の研究が、まづ萬葉を訓み明らめ、その語意を明らかにすることから始まつたのは言ふまでもない。

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平安時代、まさに仙覚以前のことだが、その頃でさえも、すでに萬葉集という歌集は、それを理解できる人はいなかった、ということのようだ

それに、単純に思い込んでいた、庶民も詠っている「歌集」と言っても、確かにそれを典籍として残す以上、それを庶民が到底読める時代ではなかったはずだ

表記は漢字でありながら、部分的な漢文は多少あるにしても、基本的には「日本語」と言えるものだ

漢文の素養のあるものが、その文字を利用して書き記す日本語...万葉時代の萬葉集は、まさにその表記論的には混沌の産物であり、

その後の平安時代では、それを読み切れる者がいない、というのは、「語彙の継続性」がなく、まるで万葉時代の言葉の封じ込めのように感じてしまう

 

再び序から

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 萬葉研究のまさしく文献に現れた瑞緒は、天歴五年(天平宝字三年を去る百九十二年)に、源順等五人が、勅命をうけて、梨壺に於いて所謂古点を試みたことである。その研究の内容に就いては、この事に関して記した文献に徴するに、「よみときえらばしめ給ふなり」(順集)、萬葉集和し侍りけるに(拾遺集)、「よみときえらび奉りし」(規子内親王家歌合)、また「令読解」(袋草子)、「順が和せる後」「順が点本」(六百番歌合判詞)、「移点の本」(六百番歌合陳状)、などある。これらによつて見れば、その訓詁を主としたもので、語意歌意を解釈したものではなかつたと考へられる。

 この以前に属するものとして、和歌現在書目録(仁安元年成る)に、「萬葉集抄五巻、右一説紀貫之云々」とあるが、確かでない。[四条宮下野集に、「一品の宮の書かせ給へる萬葉集のせう」云々と見えてをるが、伝存してゐないので不明である。]

 この古点を中心及び最初として、古点の時代からその後へかけて、萬葉に関する興味が学者歌人の間におこつた。こは、古今集以後生じた和歌隆盛の一般の機運(撰集・歌合・百首等の流行)、歌学の発生等に促されたものである。即ち萬葉集は、或は撰集の資材、或は詠歌の資料、或は論議の根拠として繙かれた。萬葉集の影響をうけた會丹集の歌人會根好忠の出たのは、順と同時であつた。能書の人々の間に萬葉書写の風がおこつて、貴族及び文人の間に萬葉が普及して来たのもこの後であつた。かくて古点後約百数十年を経て、所謂次点の時代が生じた。この後八九十年間は、萬葉研究の一振興を来した時代で、次点を補つたといはれる敦隆、道因、清輔、及び顕昭等の諸学者の努力も、この間に生じた。吾人が本研究の対象たる萬葉の註釈的研究は、この間におこつたのである。

 而してその註釈的研究は、萬葉集の語句の解釈を主とした辞書的形式からおこつたので、かかる研究を生じたのは、一方に貫之・公任以来の歌学の系統をうけ、また和漢の辞書の漸次に出でた機運に促されたのである。しかしてこの辞書的研究のうちから、類聚古集、古葉略類聚鈔に見るごとき類纂的方面が生じ、更にその間に、註釈的研究がはぐくまれて来たのである。

 今、当初から仙覚以前にいたるまでの註釈的研究の成績を挙げて見ると、主なものは左(下)の九種である。

 

 第一 俊頼口伝       源 俊頼      永久元年成る。

 第二 綺語抄         藤原仲実

 第三 奥義抄         藤原清輔      保延永治頃初稿本成る。

 第四 和歌童蒙抄      藤原範兼      久安仁平頃成る。

 第五 萬葉集抄        佚名氏        

 第六 袖中抄         顕 昭        文治頃成る。

 第七 和歌色葉集      上 覚         建久年中成る。

 第八 古来風体抄      藤原俊成      建久八年成る。

 第九 八雲御抄       順徳天皇      承久三年頃御草稿本成る。

 

 これらの著は、概ね編者の年月を明らかにしないのであるが、その内容作者、又は文献の引用等によつて推定し、次第したのである。而して、俊頼口伝は長承二年鳥羽上皇の女御となられた高陽院が、未だ姫君であつた永久元年の頃俊頼が撰んで献つたものである。八雲御抄は、天皇が永久亂以前の御作[御精撰本は遠島にての御訂補と考へられる。]とおぼしいから、この間の年代は百年余りである。即ち、その間に上記の九種の著が作られたので、これ即ち仙覚以前の萬葉研究の時代と言ふべきである。

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尚、この他のこの時代に成った萬葉関連書も数種挙げているが、いずれも詳細な解説には及ばないと、している

 

「萬葉集」という名を、知ることができるのは、確かに古今集仮名序や、新撰萬葉集序などだが、

そこでは、万葉歌それぞれの歌意解釈にいたるものではなく、ただただ「萬葉集」の存在を伝えているのに過ぎない

私が、この著書で真っ先に思い浮かべたのが、藤原濱成著「歌経標式」に言及されていないことだったが、それもそのはずだ、としばらくして気づいた

 

上記の書籍は、仙覚の「萬葉集註釈」についての書籍であり、あくまでも「萬葉集研究」に対する書物であった

したがって、濱成の「歌経標式」自体が、まだ「萬葉集の存在しない」時代の書物であるならば、必然として対象外となる

でも、私にとっては、そこがまた面白いと感じるところだ

 

まだ萬葉集が世に出ない時期の濱成の「歌経標式」という現存最古の歌論書

その採り上げられた歌には、十数首の後の萬葉歌に似通った歌がある

どうして、「萬葉以前」の「歌経標式」を、「萬葉研究」の対象にしないのだろう...それが不思議でならなかった

 

今、こうして仙覚に会うことができて、やはりこの点を訊いてみなければならない

以前のように、一気に万葉の人たちとの新年会という語らいはまた遠回りにはなるが、

今回は彼らともっと近い時代に生き、そして、「生の声」を聞くこともなく、残された借用文字だけで、詠歌を再現させる夢のような作業に取り組む場景を、思い描いてみたい

 

仙覚さん...こんにちは

次からの語らいが、楽しみです

 

 

 

 

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再び向かこと

2021年01月07日 12時16分00秒 | 想うこと

ここを留守にして、随分経ってしまった

ここでのテーマにしていた「新年会」は、二年半前から休会状態

確かに体調不良もその要因の一つだが、根本的には私の「万葉観」のイメージの揺らぎが強い

当初からゴールを決めてそこに迷うことなく進むことを、あまり好きな手法とは思っていなかったので、

一気に書き上げるものであれば、それがどんな拙文でもそれなりに納得はできるのだが、

私の頭の中はまるでスポンジのように、興味のある一文に出遭うと、そこから無秩序に歩き始め

気づけば意図した方向とは違う「万葉観」を垣間見ることもある

そうなれば、その補完作業として、別の資料にも手を出してしまう...

 

私が、ここでの「新年会」で求めているのは、決して専門的なゴールではない

当然のことだが、そんな専門的な勉強などしたこともなく、あくまで好きが高じた「行きたいところへ、行こう」の気持ちだ

しかし長い間万葉集に触れていると、普通の書店では見られない書物の存在を知らされ、

それが、古書店でしか手に入らないものであれば、何とか手に入れようとする

その日常の中で、現在進行形の方向のゴールを決めることなど、意味のないことでもあり、実際不可能なことでもある

 

そうすると、これまでの「新年会」で登場人物たちが、語ることの背景もまた、整合性の点からすれば、矛盾が多く生じてしまう

今回二年半という、私にとっては非常に長い空白期間で感じ取ったもの、まずそこから整理してみたい

 

私の「万葉集」との出逢い、そして当初の触れ合いは、単純に「歌に惹かれて」だった

万葉時代の人たちが、現代の私の心を、ここまで震わすのか、というほどの衝撃だった

その時点では、万葉研究などと大それた発想もなく、誰彼となく書き記した万葉本を、やみくもに読むだけだった

 

しかし、ある時点でその「万葉歌」が、とんでもない「遺稿」だと思うようになる

「遺稿」という表現は、きっと一般的にはここでは当てはまらないだろうが、私には間違いなく「遺稿」という表現でしか、この「万葉集」を見つめられない

なぜなら、未だに誰であっても、その一首一首を、その歌の作者たちが、どのように「詠んだ」のか、知りようがないからだ

万葉時代から、ほぼ一五〇年後になる最初の勅撰集、「古今和歌集」が「かな」で残された歌集であるのにくらべ、

万葉集は、まだ仮名の使われなっかった時代の、「漢字」表記でしか存在せず、しかもそのオリジナルさえも存在しない

現在私たちが触れることができる「万葉歌」は、綿々と続く「写本」のお陰だということ

当然、コピー機などない時代、その転写に誤字脱字があることは、容易に想像できる

写本が繰り返されるなかで、現在でも「何々本」とか言われる系統ができるのは必然のことだが、

まずそのことを知った段階で、あれ、万葉集って、その伝わり方で、複数の「訓」、「解釈」があるのか...違う系統の写本に伝わる歌の漢字表記の相違、

そうなると、もう私の「万葉集」は、「万葉歌」だけでは収まらず、その「時代観」そのものになっていった

万葉時代の歴史関連書、和歌関連書...集められるものは、かなり集めて、何とか「歌」の作者たちの心に触れたいと思うようになった

 

その過程で、今のところ行き着いたのが、不遜にも「万葉集の成立」に関する、必然的な興味であり、

そのきっかけが、巻第十五「遣新羅使歌群145首」だった...私自身は、この「歌群」こそが「万葉集」を「現存の歌集たらしめる」原形だと思っている

 

万葉集成立前に、現存する日本最古の「歌学書」と言われる藤原浜成「歌経標式」があるが、そこに採り上げられている、万葉歌らしき歌10数首、

確かに、「歌学書」「歌論書」が存在するには、そのテキストとなる「歌集」あるいは「歌集のようなもの」がなければならない

浜成が手にした「歌々」は、数十年後に成る「万葉集」の素材の一部だったはずだ

 

そこから、「万葉集」という奇跡の歌集を編纂させ、後世に残し得るエネルギー...それが、「天平八年(736)遣新羅使節団」だと思う

先程、不遜にもと書いたのは、図らずも「万葉集の成立」という、万葉集に関わる最も大きな問題に、私のような素人が向かっている、ということ

しかし、その成果を学術研究の成果のように振舞うことなどあり得ないことで、どこまでも私自身の「心を震わせた万葉歌のふるさと」を私自身のために、追いかけてみようと思う

「新年会」、辻褄の合うセリフでも思い浮かべば、その都度開こうかと思う

 

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万葉びとたちとの新年会「第二十二夜・海路に情を慟ましめて思ひを陳べ」

2018年08月19日 15時16分56秒 | 想うこと

大伴宿禰田主と石川女郎
この二人の贈答の歌が、三首ほど巻第二に収載されている
女郎が二首、田主が一首

126 石川女郎

 遊士跡  吾者聞流乎  屋戸不借  吾乎還利  於曽能風流士
 風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士

127 大伴宿禰田主

 遊士尓  吾者有家里  屋戸不借  令還吾曽  風流士者有
 風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある

128 石川女郎 

吾聞之  耳尓好似  葦若<末>乃  足痛吾勢  勤多扶倍思
我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし

この三首の歌の背景を、「万葉集」は左注にこう書いている

[126左注]
大伴田主、字を仲郎といふ。容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者嘆息せずといふことなし。時に石川女郎といふひと有り。みづから双栖の感を成し、つねに独守の難を悲しぶ。意に書を寄せむと欲へども良信に逢はず。ここに方便を作して賤しき嫗に似せ、おのれ堝子を提げて寝の側に到り、哽音蹢足し戸を叩きて諮りて曰はく、「東隣の貧しき女、火を取らむとして来る」といふ。ここに、仲郎、暗き裏に冒隠の形を識らず、慮の外に拘接の計に堪へず。念のまにまに火を取り、跡に就きて帰り去らしむ。明けて後に、老女、すでに自媒の愧づべきことを恥ぢ、また心契の果らぬことを恨む。よりて、この歌を作りて謔戯を贈る。

《大意》
石川女郎は、誰もが憧れるほどの容姿の持ち主である、田主に一目惚れをする
何とか近づきたい、と思いながらも、なかなか良いつてもなく、恋文さえ届けられない
そこで一計を案じ、みすぼらしい老婆になりすまし、自ら土鍋を提げて、田主の寝所のそばにやってきた
老婆の声色を使い、さらには足をふらつかせ、戸を叩いて案内を乞う
「東隣の貧しい女が、火種を頂こうと思ってやって参りました」と
田主は、真っ暗なのでその変装に気付かず、また思いがけないことでもあったので、女の計略にも気付かなかった
彼は、女の望むように火を取らせ、そのまま女を帰らせた
翌日女は、「仲人」なしに厚かましく押しかけて行ったことがきまり悪く、また想いを果たせなかったことを恨む
そこでこの歌を作って戯れ事に贈った
 
[128左注]
右は、仲郎の足疾に依りて、この歌を贈りて問い訊へるぞ。

《大意》
右は、中郎(仲郎)が足の病気なので、この歌を贈って見舞ったもの


「126左注」については、宋玉の「登徒子好色賦」(『文撰』巻第十九) や「美人賦」などの賦から暗示を得て作ったと思われる虚構性の強い内容、と現代叢書では解釈されている

こうした漢文学に精通する者なればこその掛け合いは、それを撰した者の知性を伺えるし、またその内容においても、
「126歌」で、『あなたは風流人だと聞いていたが、私を泊めもしないで帰した、間抜けな風流人』と罵るのは、
一見、「老婆」に変装した意味はなんであったのかさえ見逃してしまうのだが、次歌「127」の田主の返歌の深い歌に、納得させられる

この「左注」がなければ、この三首は男女間の俗っぽい掛け合いに終ってしまう
「127歌」の通説での歌意は、『風流人で、やはり私はあったのだ 泊めないで帰した私こそ、真の風流人だったのだ』とされるが、「左注」があるのとないのでは、まったく意味が違ってくる

女の誘惑にも負けない私を「風流人」だと自負する田主ではなく、
田主の「風流」雅観が、俗に染まらず、高邁な生き方を貫くことを自覚していた、そのことを思わせる、とされるが、
この「左注」で私が感じたのは、「やっぱり田主も俗な男だった」と、石川老女が気付いたことだ
田主の返歌は、石川老女が「戯れ事」に贈った歌への返し
その時点で、老女は田主の実情を悟っていた
さらに返歌によって、いっそうその意を強めたのだろう

それが「128歌」の憐れみ、あるいは皮肉にも似た歌になる
『私が聞いた噂どおりの人です 葦の穂先みたいに、力ない足のあなた お大事になさってください』


この三首が、いやこのような歌は、「万葉集」にも結構収載されている
歌そのものを読むのではなく、その歌の一つのエピソードを漢文学による知識を披露させんがためのように...
敢えて言えば、その知識を見せたいがための「詠歌」、まさに創作の虚構性を成している

後の「天平八年遣新羅使歌群」の手法にも、通じるものだと私は感じ始めている

目の前の家持は、この三首を旅人と憶良の共作ではないかという
家持存命中には、「万葉集」の最終的な編纂は成されていない
この三首が、収載されていることを、編纂時の「左注」とともに、家持は知ってる

「家持さん、この三首のこと、どうしてそう思われるのですか? 父上からお聞きになったとは思えないし...」

家持は、ゆっくり銀閣寺の境内らしき路を歩き、時折目の前に垂れる葉に手を遣りながら、私にはかすかに微笑んでいるように見えるその顔を私に向けた

「あの歌の『風流観』とでもいうのかな、それが直感的に父と憶良を想い起させました。そして、それが『万葉集』に収載されることを知って、ますます父と憶良のことを思ったのです。父は、ことさら『風流人』などと言いません。誰が見ても、『風流人』そのものなのに、ですよ。そんなことを意識せずに気ままに何事も行えるからこそ、『風流人』なのです。だから、当時『風流士』などと持て囃された風潮をいじってみたくなったのでしょう。ただ、あの三首にその意味を解する人が、どれほどいたか...私には解りませんが...。」

「それを『万葉編纂者』たちは、解ったのですか?」

この問い掛けは、家持も意外だったように急に顔を真顔に戻した
まるで、お前には解らないのか、と問われているようにも感じた

「では、率直に訊きますが、あの歌をあなた方の時代では、どう評価されているのですか? とても秀作だと?」

私には、歌の評価をする能力はなにもない
好き嫌いはあるにはあるが、その歌の文学上の評価など、考えたこともなかった
そんな私の困惑顔に、「ほら」というように、家持は続けた

「あの歌、あくまでも戯れ歌ですよ。私は詠歌として優れた『歌集』を仮に選ぶなら、あの歌は載せません。そもそも『万葉集』は、後の『歌集』のような『撰集』ではありません。『和歌』というまだ産声をあげたばかりの時代に、大陸の文化に近づこうと、また独自の文化を創ろうと、懸命になって模索し始めた時代のことです。大陸の『詩論』のようなものもなく、なんと言っても表現する『表記』の問題があります。そんな未熟で不完全な『和歌』を、何を基準に優劣を決めるのでしょう。少なくとも詠った歌は、紛れもなく『和歌』です。しかしそれを後世に残そうとする意識は、まだまだ当時にはありません。それが後の時代に、我々の歌が読み辛くなった大きな原因なのですが...。後に『万葉仮名』と言われる私たちの表記でも、それは十分とは言えませんでした。目の前にその実体のないものを、いくら大陸の文化だからといって、私たちの言葉では表記はできません。」

たとえば、「鳥」
私たちは、実際に鳥を目の前にして、それを「とり」と呼称してはいても、その表記は出来なかったとする
それを、大陸から持ち込まれた文物、あるいは人たちが、「鳥」という漢字で表記したとすれば、
必然的に、私たちは「とり」を「鳥」と表記できるようになる
そのような積み重ねが、次第に漢文学からの脱皮を手助けすることになっているのでは、と思う

その最中にある万葉の時代で、「万葉仮名」を駆使して「和歌」を詠い表記することになる
だからこそ、「万葉集」という奇跡の歌集が残り得たのだと思う
一旦その表記にはずみがつけば、その次の段階では、必然的に「優劣」が論じられてくる

残念なことに、それが「万葉の時代」では、まだ早過ぎたのかもしれない
いや、私としては、だからこそ「万葉集」は素晴らしい、と思うのだが...「未生の大歌集」として...

「目の前に実体のないものは表記できない」、この家持の言葉には、私もこれから随分悩みことだろう

「そうであれば、『孤悲』という表現は、本当に素敵なことですね。現代では『恋』という表記で伝わりますが、『孤悲』の表記を初めて見たとき、素晴らしい感性だな、と思ったのですが、それは本当に必然の表記だったのですね。好きな人と離れて、ひとり孤独に悲しむ。これこそ、目の前の実体ではなく、心の奥底に在る表現を、見事に視覚的に伝えています。こうした表記が決まり事のまだ定まらない時代に、それぞれが思い思いに使えば、確かに後の人が読むの葉大変なことです。」

私は、つい自分の知識を持ち出してしまったが、家持はそれほど関心を示さなかった
それほど、表記の使い方には、苦しんだ時代だったのだろう
「孤悲」という表記、表現は、ほんの一例に過ぎないことだったようだ


私は、話題を変えることにした
家持との銀閣寺境内の散策は、途切れることなく続いていたのだが、今の私は、家持の地方官吏としての最後の任地である「因幡国」という土産がある

因幡国で赴任した最初の年始に詠った家持の歌、それが「万葉集最後の歌」とされている
先日、松江への帰省の途中で、鳥取県鳥取市にある「因幡万葉歴史館に立ち寄った

「家持さんの、国司としての最後の赴任地因幡、そこでの賀歌が、『万葉集』最後の歌ということで、家持さん自身もその歌を最後に詠わなくなった、というふうに私たちは教えられました。そうなんでしょうか。」

その時の家持の顔を、私は忘れることはないだろう
とても苦しそうに、そして悲しそうな表情を、決して隠そうともせず、私に向けていた

「その国衙に、あなたは行かれたのですか?」
「ええ、行きましたよ。現代では、国衙跡として推定されているところですが、そこに因幡守として居られたあなたを、想像していました。近くに歴史館があって、そこに家持さんのことが資料として残されているのですが、やはり気になるのは、万葉賀歌とされる、あの一首です。」

江戸時代の万葉学者である契沖が、
「民を恵ませ給ひ、世の治まれる事を、悦び思召 (おぼしめ) す御歌より次第に載 (のせ) て、今の歌を以て一部を祝ひて終へたれば、玉匣 (たまくしげ) ふたみ相称 (かな) へる験ありて、蔵す所世を経て失 (うせ) ざるかな」 (代匠記精撰本)」
と言うように、「万葉集」冒頭の雄略天皇の歌、そしてこの最後の歌の「新年の降雪」を瑞兆とした見方で締め括ることの意味を持たせる見解を見せているが、私にはそうは思えない
この賀歌を、家持は誰の為に詠ったのだろう
それがこれまで、ずっと気になっていた
「賀歌」が公的な規定による「宴」での詠歌であることは、私にも異論はない

「私の最後の歌、というのは、みなさんの大きな間違いです。」

では何故、万葉編纂者は、この歌を最後として置いたのだろう
いや、最後のつもりではなかったのではないだろうか...

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