奥浅草ファン山谷支部

ファンの目線で、山谷とその周辺のまちを紹介します。

美空ひばり自伝「わたしと影」に登場する山谷

2020-09-17 00:02:02 | 歴史
美空ひばりさんというと。

国民的歌手で女優、伝説の歌姫、没後は女性初の国民栄誉賞を受賞されたあの美空ひばりさんです。

知っている人にとっては知っている、でも多くの方にとってはちょっと意外かもしれませんが、美空ひばりさんのお母さん、喜美枝さんは山谷の出身なのです。

そのことはひばりさんの自伝で語られています。

ちなみにひばりさんの出身地は、父、増吉が魚屋をしていた横浜市磯子区滝頭です。

wikipediaでは12歳でのデビューとありますが、美空ひばり(加藤和枝)の両親が美空楽団を立ち上げ娘を舞台に上げ巡業を始めたのは9歳のときでした。

大下英治氏による著書「美空ひばり不死鳥伝説」によると、その最初の舞台は、戦後間も無く焼け野原だった東京、それも南千住にあった国民学校の校庭につくった舞台での公演が初ステージだったといいます。

その才能に気がつき9歳の娘を舞台に立たせ、巡業公演、ハワイ公演、そしてその生涯にわたって美空ひばり一番の理解者としてプロデューサーでありマネージャーであったとてつもない存在感のお母さん。ひばりさんとは「一卵性親子」だという愛称もあったそうです。

そんな喜美枝さんは、大正2年に山谷(南千住三丁目)の石炭商の家に七人兄弟の長女で生まれ、商売が苦手ですぐに貸売りしてしまう父の手伝いのため、子供のうちから下の子の面倒をみて、借金取りの仕事を助け、石炭の入った荷車を押し......と貧しい中で苦労をした人でした。

当時の山谷は貨物列車が運ぶ石炭の集積地であり、石炭商の店や民家が軒を連ねており、民家でも豆腐屋でも風呂屋でも、使う燃料は石炭だったようです。

自伝の中でひばりさんから語られる山谷で過ごした母、喜美枝さんには暗い雰囲気がありません。貧乏はどこまでもついてくる、と語る中でも、そこには卑屈さがないのが印象的です。

小学校の成績も優秀で官立の上級学校にも合格した喜美枝さんですが、「女が勉強してどうする」という周囲の声によって進学は断念しなくてはならなくなったというエピソードがありました。

勿論落ち込みますが、喜美枝さんはお父さんを支えるために仕事をし、当時南千住にあった夜間学校で勉強を続けます。ひばりさんには、その夜学での日々を「貧乏している者同士の理解があった」と楽しそうに話していたのだそうです。

仕事の合間に出かけた浅草六区で心が踊った話もひばりさんはよく聞いていたようで、そこに母、喜美枝さんが憧れた銀幕の世界があったのだということを感じていたそうです。

戦争前とはいえ、山谷出身、というと貧しくて苦労ばかりだったのではないかという勝手な想像もしてしまいましたが、

その貧しい苦労の中でも、時に歩いても行ける浅草の芸術に触れ、貧しい者同士で助け合い励まし合い、夢を持って生き生きと暮らしていた美空ひばりさんのお母さんの山谷での暮らしもまた、山谷という場所の一面だったのだろうと思いました。

戦後にバラックが立ち並んだ山谷も、勿論人々がみんな貧しい時でしたが、国民学校の校庭で9歳の美空ひばりさんの歌声に励まされた人たちをはじめ(美空ひばり、山谷で検索すると写真も出てきます)復興の熱気が溢れ、賑わいと活力のある街でもあったと思います。

辛くても都会の中で生きていくしかなかった、でもそこに夢があった人々のエネルギーに触れることができるような本でした。

ちなみに美空ひばりさんは「山谷ブルース」で知られる岡林信康氏とも交流が深く、岡林氏の後押しをされていたそうです。

山谷とは何か?を知るために読んだ本、記事を紹介します!

2020-09-09 16:08:50 | 歴史
山谷とは何か、知れば知るほどそれを説明するのは難しいのですが、山谷の歴史的な背景を理解したいと思い読んで影響を受けた本などを紹介しながら、私にとってとくに興味深いと思える山谷の歴史についてお話してみたいと思います。

山谷のことはある程度、知っているという方には新しい情報はないかもしれませんがお許しください!

山谷の歴史を知るには、その周辺地域の歴史を知ると理解しやすい。

まず、山谷という地域がどこにあるか。山谷へ行ったことがなくても浅草へ行ったことがある方は多いと思いますが、浅草寺より北側にある地域だとイメージしていただくといいかなと思います。



この地図でいうと下の方に浅草寺があり、水色の丸で囲ったエリアが山谷のだいたいの位置です。これより北には隅田川が流れ、橋を渡ると北千住です。

ちなみに、浅草寺の裏あたりは最近では落ち着いて観光できる人気のスポット(観音裏、裏浅草などと言われる。明治大正期には酩酊屋と呼ばれるお店が密集した)ですが、この辺りから吉原、山谷あたりまでを含めて「奥浅草」ということがあります。



地図に戻りまして、ピンクの四角のエリアが江戸幕府公認の遊郭であった吉原、そして緑の丸の地域には江戸時代、弾左衛門という13代続いた頭領が支配するムラがありました。幕府から重要な仕事(処刑の執行、町奉行の下部組織として治安維持など)を幅広く任され、行灯の芯や皮革加工の専売権も持った人びとでしたが、当時の身分制度によって人口の大多数を占めた農民より下の身分とされました。

また、吉原の南側には、同様に被差別身分であった層の頭である車善七がその拠点を置かされました。

地図の上部に黒い丸が見切れていますが、ここには小塚原(こづかっぱら)刑場という処刑場がありました。

この地図のさらに北には、日光街道の宿場町「千住宿(現在の北千住)」が現れますが、南千住のあたりは千住宿の端っこ、とも言えます。一応、南千住宿と呼ばれたようですが、自炊のための薪代さえあれば泊まれるくらいの安価な宿という意味の「木賃宿」が江戸時代より並んでいました。

山谷のあった場所は、遊郭と処刑場と弾左衛門の支配下にあった被差別に囲まれ、千住宿の最果てにあった地域だったのです。

遊郭も処刑場も、さらには弾左衛門の本拠地も元々は日本橋にあったものですが、江戸の街が大きくなるのにしたがって、これらの都市の機能は北部へ移動してきたようです。

山谷という名前は、家が三つくらいしかなかったので「三屋(さんや)」と呼ばれたことが始まりとか、一つ家とも呼ばれていた浅茅ヶ原などの荒野のつづきで「三野(さんや)」が始まりとか、諸説ありますが元は寂しい場所だったようです。江戸城から見て鬼門にあったこの地に死、賎、性といったものを置いて厄災を柔らげたという説には納得できそうなものがあります。

山谷へ訪れたことがない方にとっては、頭の中の地図に山谷のイメージがなんとなくできたでしょうか・・。


ここで、本を紹介します。山谷の歴史を調べようとすると、”弾左衛門”という言葉をよく聞くのですが、関心のある方には塩見鮮一郎氏の著書がおすすめです。

江戸の頭「車善七」(塩見鮮一郎)河出文庫



最後の弾左衛門(塩見鮮一郎)河出書房新社


過去にはあった身分制度は今の日本にはありませんが、無くなっていく過程で差別があったことそのものを隠してしまったがために、弾左衛門や車善七は語られない歴史になっていないか、それは本当に差別が無くなったといえることなのかといえば、違うと塩見氏の著書は語っています。

その、”弾左衛門”と山谷との関係ですが、塩見氏の著書に「弾左衛門とその時代」という著書があります。

「弾左衛門とその時代」(塩見鮮一郎)河出文庫



この中で、山谷一帯のスラムは明治に発布されたいわゆる「解放令」が引き金となって生まれたという考察があります。(P132)

大事なことだと思うので、拙いですが私のほうでも説明してみます。

明治維新後、急速な近代化に進もうとしていた日本は、欧米諸国にならって四民平等のスローガンを打ち出します。それは差別を受けてきた側にとって喜ばしいことであると同時に、深刻な事態をもたらしました。

これまでの専売権を奪われ、またこれまでは被差別階級の人びとには課せられていなかった納税義務も発生し、皮革産業も輸入が中心となった為に収入はさらに減り、そもそも死んだ牛馬の皮は誰もが処理できるようになった為に手に入りにくくなりました。

差別が無くなったかといえば、解放令に反対した農民たちによって全国各地で一揆が発生し、多くの元被差別が襲撃を受け村ごと焼かれる例もありました。急速な近代化は、農民と元被差別民の間に対立を生み、結果的に差別と軋轢が深く残る要因ともなりました。

最後の弾左衛門は、そのような事態とならないよう、改革を漸次進めるという対策を解放令の前から政府に求めていましたが、対して資本主義化の流れはスピードも規模もとてつもないものでした。

山谷は、解放令をきっかけに浅草中、東京中に溢れた元被差別民によって形成されたスラムの一つでした。

また、山谷を生活の場としたのは元被差別民だけではありません。明治維新後の納税義務に耐えられなくなった農民は土地を売り、小作人となり、次男以降は労働力として都市へ向かいます。その拠点としても、上野から近い山谷には多くの労働者が集まりました。

ここまでが江戸時代〜明治初期の奥浅草と山谷の歴史の一部です。

その後、震災や戦争によって家を焼け出された人の再起の場所としてバラックが立ち並び、東京、日本の再起や復興の拠点となっていきます。

ここで、奥浅草全体の歴史を紹介した本を一冊紹介します。

奥浅草 地図から消えた吉原と山谷(佐野洋子・江原晴郎)株式会社サノックス



現在は公式に地名の残らない隣り合った二つの地域、「吉原」と「山谷」、そして、江戸幕府による弾左衛門制度や、その後の東京が歩んだまちづくりの歴史、現在、さらには奥浅草のまちづくりの未来に至るまでを初心者向けに解説した一冊です。
https://kastoripub.stores.jp/items/5a7298703210d5117b00081f

ネット上で読める記事もご紹介します。
山谷で生活支援を行う団体のひとつが山谷の歴史を纏められています。
全体の歴史が掴みやすい、丁寧な解説です。

「山谷のホスピス「きぼうのいえ」山谷の歴史・研究班様のまとめた山谷の歴史」

上記の本と記事でも紹介されていますが、山谷が有名になったのは戦後です。
第二次世界大戦の後、これまで自然発生的に住まいを失った人の受け皿となってきた山谷ですが、ここではじめてGHQによる治安維持政策で東京都によってテント村が作られます。これが現在のように宿泊所が並ぶ山谷の原型となりました。

その後の山谷の歴史はもう少し有名でしょうか。

高度経済成長に伴い建設現場などでの肉体労働が必要とされた時代、山谷は日雇い労働者の街となりました。かつての木賃宿ではなく、ドヤと呼ばれる簡易宿泊所が建てられました。山谷へ行けば仕事がある、と全国から男たちが集まりました。いわゆる金の卵世代で、集団就職で上京してきた若者たちもいます。

この時代の山谷の熱気というのは凄まじいものがあったようで、食堂や喫茶店、雀荘、映画館、大衆酒場がどこも賑わい、活気溢れる街だったそうです。

しかし、高度経済成長が終わりに向かうに従って、斡旋業者によるピンハネや劣悪な労働環境に対して労働者たちは雇用主への不満を募らせ、その対立は暴力団や警察をも巻き込み激しさを増しました。安保闘争や三井三池争議をはじめとする暴動が全国で生じていた時代、山谷でも暴動が複数回に渡って生じます。

1960年元旦にちょっとしたきっかけ、パチンコ店での客同士の喧嘩が原因で最初の騒動事件が起こり、同じ年の7月26日、開所して間もない通称マンモス交番(浅草警察署山谷警部補派出所)に千人規模の群衆が詰めかける暴動が発生、大々的に報道され、山谷は初めて全国的に有名となったそうです。

同時期から大阪の西成でも同じように暴動が発生し、このような暴動は90年代バブル崩壊まで続きました。

一連の暴動には途中から、当時の思想活動家や文化人も混ざっていったようです。江戸時代から続いた差別や偏見、不況が餓死や凍死に直結する立場の労働者の憎しみが運動となっている、その怒りの力に当時の表現者が共鳴したのは理解できるものがあると個人的には思います。



(▲泪橋ホールさんで開催された上映会で購入した冊子。闘争が繰り広げられていた山谷を撮ったドキュメンタリー映画。敗戦後、労働者や復員兵、朝鮮半島出身者の熱気を恐れたGHQが暴力団を使い治安維持を保とうとしたと批判する内容であった。対立した団体によって監督と完成させた支援団体の幹部が襲われ亡くなっている。仲間が病院をたらい回しにされて亡くなったという場面は、現代の福祉問題に通じる。映画は一貫して、差別に反対した内容であった)

ただ、戦後からすぐに山谷で商売をしていた住人たちにとっては労働者の暴徒化、治安の悪化は死活問題であったという面もまた事実でしょう。警察に協力的であった旅館の経営者は労働者や活動家に非難もされたようです。現在のように誰もが安心して訪れることのできるようになった山谷を築いた地元の方々の苦労も大変なものだったと思います。

そういう中で、元日雇い労働者の方々は高齢化していき、山谷は家も家族も仕事もなく、病気があり生活が困難という、支援のむずかしい人々を受け入れる必要が現れ、山谷は日本の福祉の最前線となっていきました。

簡易宿泊所はビジネスホテルのような鉄筋コンクリートに変化し、生活保護費で宿泊できる価格設定となり、介護事業者や訪問医療も利用できる福祉宿となる一方で、安く東京に滞在したい人が利用するホテルやゲストハウスにも変化していきます。

23 区の中で都心にも近い割に比較的賃料が安いことから若いファミリー層に人気の住宅地にもなってきました。

全国からだけでなく、海外からも、山谷は外から東京へやって来る人を受け入れる場所となっています。

昔からの食堂、居酒屋の数は往時に比べれば最近ますます減少し、殆ど残っていないと言ってもいいかもしれませんが、それでも残っている老舗の大衆酒場や、空いた建物を利用した新しいお店、評判のレストランやカフェなど、雑多な魅力が共存する街にもなっています。

山谷のまちづくりについて提言されている、一般社団法人「結」代表の義平さんの資料を載せます。その方面に関心のある方はご覧ください!

「多様性を活かした山谷のまちづくりを目指して」


このように歴史を見てみると、山谷が今のような街になっていった背景には江戸時代より以前から続く歴史の積み重ねがあると思えます。その歴史は東京や日本の表舞台ではなく、表舞台を支えるために必要だった人たち、その影にいた人たち一人一人の人生と言えるかもしれません。


思川(宮下忠子)明石書店



東京都城北福祉センターで医療相談員をされていた方による著書。山谷で出会った女性の人生について聞き取りをされています。このように、一人一人の人生の中に本当の歴史があるという思いは私は山谷に来てから特に感じるようになりました。


ネットで読める記事もさらにいくつかご紹介します。

山谷で1990年から活動するNPO法人の創設者の講演録です。いわゆる「山谷のおじさん」と言われる方の背景、元日雇い労働者から病などを抱えて福祉を必要とする人の世界観が言語化されている文章です。

エコノミーホテル「ほていや」さんのブログ
山谷のニュースがタイムリーに更新されています。「ほていや」さんの先代は山谷の戦後復興の中心人物であった帰山仁之助氏。数々の歴史的資料を基にした山谷の歴史に関する記事が貴重です。

参考:連載ノンフィクション「ヤマ王とドヤ王」
「ほていや」さんを常宿に、山谷を取材する連載ノンフィクション。山谷の歴史と今を取材者の目線から掘り下げています。
https://pdmagazine.jp/tag/yamaoutodoyaou/

山谷の歴史をまとめている記事や本はこの世に沢山あるのですが、個人的に気になる部分にクローズアップして書かせていただきました。
長くなりましたが、ご覧いただきありがとうございます!山谷に引き寄せられた者同士、、ということでいつかお会いできれば幸いです。

引き続き、現在の山谷についても記事を書いていきたいと思います!