太宰治への散歩
[太宰が散歩した三鷹跨線橋] 自宅からほど近い三鷹に古めかしい鉄の歩道橋がある。三鷹車両センターに入る十七本の線路をまたぐため、百メートルを超える長さの巨大な鉄橋(跨線橋)となっている。以前から知っていたが、その異様は、人を寄せつけない雰囲気、少なくとも私を寄せつけない雰囲気をかもし、私はこの界隈にいながら、一度もこの鉄橋に近づくことはなかった。ましてや渡ろうという発想などなかった。そして、このほど、あるきっかけで、このいわくありげな橋のいわくを知ることになる。
昭和四年に完成し、昭和二十二年に太宰治が渡ったときに撮られた写真が残っていた。亡くなる前年、斜陽を書いている頃だ。橋にネットが張られるなど、多少の変化はあるが、ほぼ太宰の頃のままの姿をとどめ、コンクリート製の階段の角は丸くなり、コンクリートに含まれた小石は、よく踏みつけられる部分が磨かれ、光沢を放っている。躯体はレールで作られていて、頑丈そうだ。しかし、階段の手すりの高さは、当時の人々の身長に合わせたためか、腰高ほどしかなく、上に行くほど不安になる。高所嫌いの私には、酷な造りだ。そして百メートルの橋を渡り始めると、微妙に揺れを感じ、三十メートルも進まないうちに引き返すことになった。太宰はここに友人を招いたらしい。確かに見晴らしはいい。今はあたりはビルや民家で埋め尽くされているが、当時は畑や雑木林ばかりで、遠く西の空には、秩父の山並みや富士山の大パノラマが見えたにちがいない。
太宰がたたずんで写真を撮った跨線橋の階段を踏んでみた。
[太宰が散歩した三鷹跨線橋] 自宅からほど近い三鷹に古めかしい鉄の歩道橋がある。三鷹車両センターに入る十七本の線路をまたぐため、百メートルを超える長さの巨大な鉄橋(跨線橋)となっている。以前から知っていたが、その異様は、人を寄せつけない雰囲気、少なくとも私を寄せつけない雰囲気をかもし、私はこの界隈にいながら、一度もこの鉄橋に近づくことはなかった。ましてや渡ろうという発想などなかった。そして、このほど、あるきっかけで、このいわくありげな橋のいわくを知ることになる。
昭和四年に完成し、昭和二十二年に太宰治が渡ったときに撮られた写真が残っていた。亡くなる前年、斜陽を書いている頃だ。橋にネットが張られるなど、多少の変化はあるが、ほぼ太宰の頃のままの姿をとどめ、コンクリート製の階段の角は丸くなり、コンクリートに含まれた小石は、よく踏みつけられる部分が磨かれ、光沢を放っている。躯体はレールで作られていて、頑丈そうだ。しかし、階段の手すりの高さは、当時の人々の身長に合わせたためか、腰高ほどしかなく、上に行くほど不安になる。高所嫌いの私には、酷な造りだ。そして百メートルの橋を渡り始めると、微妙に揺れを感じ、三十メートルも進まないうちに引き返すことになった。太宰はここに友人を招いたらしい。確かに見晴らしはいい。今はあたりはビルや民家で埋め尽くされているが、当時は畑や雑木林ばかりで、遠く西の空には、秩父の山並みや富士山の大パノラマが見えたにちがいない。
太宰がたたずんで写真を撮った跨線橋の階段を踏んでみた。
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