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Jaunais Rigas Teatris(in ラトビア) ヴラジーミル・ソローキン"氷"

2006年05月05日 00時13分23秒 | Weblog
おもしろう度:★★★★★

上演主体:Jaunais Rigas Teatris(リガ in ラトビア)
上演情報:クラクフで4月6日から9日まで開催された国際演劇祭”Krakowskie  Reminiscencje teatralne”での一招聘作品。
劇団サイト:http://www.jrt.lv/
上演場所:クラクフ in ポーランド、Klub Lotunda

原作、Vladimir Sorokin
演出・舞台美術、Alvis Hermanis

短い生涯に観たなかのベスト5に入るほどおもしろかったので、Hermanisについてもっと知りたいとこですが、残念ながらラトビア語が読めません。
(エストニア語でいけるならタケムラ君、解説お願いします)

ポーランド語パンフレットには
「Alvis Hermanis/演出家、俳優、舞台美術家。独自の演劇のスタイルを確立した」とか「ポストドラマ的美学において創造する」とか、あってなきがこときことしか書かれてないので(これではまるでポストドラマということばが合格通知のようだ)Hermanisについてはひとまず諦め「氷」の舞台がどんなだったか書こうと思います。

・・・・・
 Hermanisは、役者でなく観客のために、居心地の悪い舞台を用意した。ホールの中心には白い円がおいてあり、観客はそれを囲んで坐っている。照明は消えず、観客同士がよく見える。スポーツの競技場のようだ。おもむろに入ってきた12人の役者たちが観客たちに分厚い冊子を配る。
 この冊子にはアメリカ風のコミックが描かれており、役者たちが説明するように見開き1ページが舞台の1シーンに対応している。コミックの展開に沿って舞台上でも同じ筋が展開する。ソローキンの『氷』は戯曲ではなく長編小説だが、役者たちは手もとの本に目を落として入れ替わりソローキンのテクスト全部を原作そのままに読んでいく。せりふだけではなく、戯曲ならばト書きであろう部分まですべて、ただし、ものすごい速さで。
 役者が頁をめくる。観客はコミックをめくる。その間舞台も進行している。コミックには陳腐なポルノと直接的な暴力が描かれている。観客にとってこれはまれに居合わせる奇妙なシチュエーションである。通常、このようなコミックは、むしろ部屋にひとりこもって眺めるもので(?)大勢と肩を並べて読むことはないし、まして劇場という場所ではなおさらだ。観客はまた、コミックと舞台を交互に見比べなくてはならない。舞台の1シーンがコミック見開きに対応しているので、観客はコミックを即座に読み終え舞台に目を戻す余裕がある。しかしここで私たちは、コミックと舞台のどちらを観るべきか戸惑う。
 同じテクストに基づきながら、コミックでは直接的な性描写と流血を繰り広げているのに対し、舞台上では舞台芸術らしい象徴的な表現がとられている。物語の冒頭、森の中男が暴漢に氷の槌で心臓を叩き割られる場面は、舞台上では男がうつぶせになっているテーブルを下から槌で音高く叩くこと、うめきで表現されている。襟からでた首の短い男の禿頭をなめる行為が、オーラルセックスを表現している。コミックと舞台を見比べれば見比べるほど、両者ともにテクストに対する再現の不完全さに気づくばかりで、観客は視線の所在を失う。
 それではHermanisの『氷』では一体なにが起こっているのだろうか。もとい、この居心地の悪さは何だろうか。誰かがリチャード・シェクナーを引用しながらこんなことを言っている。『ポストドラマ演劇はこの儀式という形式的で明白な要因を、注目を集めるためだけの機能から引き剥がし、さらにはすべての宗教的・祭祀的な参照項からも引き離して、それ自体のために美的な質として機能させる。ポストドラマ演劇はドラマの筋行動を、かつて、その始源にあってドラマ的・祭祀的な筋行動と分かちがたく結びついていた儀式に置き換えるのだ。』もしもHermanisの『氷』を(パンフレットのように)「ポストドラマ的」と評価できると考えるならば、観客の想像力を揺らしながら筋-儀式の関係を再度緊密に統合した点を当てはめることができるかもしれない。
 物語の終りに、役者たちはそれまで読んできた本をびりびりに引き裂き、それと同時に氷がばらまかれる(ロシア現代文学に詳しいT先輩の話では、『ロマン』での手法と同様に、テクストが人間を殺すという観点から、凶器としての氷=テクストが解けるのも同時に表象しているという、ありがたき場面のようです)。そこで私たちは、読まれたテクストに対して、いつしか自らの想像力でこの物語を再現・反応してきたことを自覚する。物語は、最後まで導かれる過程で儀式になっており、観客は、Hermanisの仕掛けた儀式を知らぬうちに通過してしまったというわけである。さもなくば、心臓を打たれた人々がやがて善人になり、抱擁し合い、新しい人生を誓う、そんな物語、そんなユートピア小説、それを噛み砕いて説明してくれるだけの3時間50分だったら、耐えられないでしょう?