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24年目のフォークランド戦争

2006-04-03 19:40:06 | ラテン気分で
Malvinas en el recuerdo

A 24 años del desembarco en las islas.

アルヘンチーナではマルビナスと呼んでいる..44日間続いたこの戦争のことはアルヘンチーナにいた時はよく現地の人達に聞いたりもしました..
ブエノスでは戦時中にもかかわらず普段と変わらぬ暮らしだったよと言われました..マルビナスと言う島での出来事だったのでしょうか..意外と国民は冷めていたのかもと思ったりしました..

フォークランド諸島は南アメリカ大陸のほぼ南端から約500km沖合いの大西洋に浮かんでいる。東フォークランド島と西フォークランド島に、200余りの小島で構成された面積12,000平方キロ程度の諸島である。1600年以降、イギリス、フランス、スペインが相次いで入植・撤退を繰り返すなどしていたが、1816年にアルゼンチンがスペインより独立したのを契機に領有を宣言した。しかし、1829年にアメリカ軍が上陸し諸島の中立を宣言、続いて1833年にはイギリスが再占領するなどして以降領有権をめぐって対立、そして紛争に至った..
一見これといった価値がないこの南の島になぜこのような紛争が起きてしまったのか? 歴史が動き出したのは1981年、双方で政権が交代したことに端を発する..
軍事政権を引き継いだ陸軍のガルチェリ将軍は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制の矛先を外に向けようとしたのである..
フォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、島自体の価値は相対的に低かったが、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としての戦略拠点としての価値がにわかに高まっていた。
そのような情勢下で改革を期待され、しかも初の女性首相となったサッチャーにとって、安易な妥協や譲歩は許されない状況であった。イギリスは従来の立場を一変してフォークランド諸島の条件付返還を撤回、態度を硬化させた..
1982年、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。政府は沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍の補給艦がフォークランド諸島の南東約1300kmにある同じく英領となっていたサウスジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ始めた。イギリスはこれを強制退去させるなどしていたが、ガルチェリが正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にはアメリカに事態収拾への仲介を要請、しかし翌2日にはアルゼンチンの陸軍4000名がフォークランド諸島に上陸したことで武力紛争化は決定的となった。
これに対しサッチャーは直ちにアルゼンチンとの国交断絶を通告し艦隊の派遣を命じた。4月5日には早くも第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカの仲介による事態の打開が模索されていたが、サッチャーの「我々は武力解決の道を選択する。」との決断で25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウスジョージア島に逆上陸、即日奪還した。終始苦しい戦いを強いられていたイギリスではあったが、地力に勝る海軍力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させ、民間人の死者を伴う激しい地上戦を経て14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏、戦闘は終結した..

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