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激しく同意
(
chomemaro
)
2007-04-07 09:11:53
仕事を楽しむことは神様から与えられた報いですね
伝道の書2章24節に書いてあります。
そして、働かざるもの食うべからずという言葉も、聖書から来ていますね。テサロニケ3章10節。
加えて、家族の必要を満たさないものは信仰のないものよりも悪いと書いてあります。
この言葉を言うと、聖書ってきついなーと一般の人に驚かれましたが、本当にバランスの取れている聖書は真実のことしか言いません。
まさに、この通りにバランスの取れた考えをすることが、幸せへの道です。なんでも、許容するのはむしろ、その人にとっての幸せでないからです。
では、極論に走りすぎる人は、聖書に書いてある王国のことを第一にするという言葉を、またこれもって、王冠のように振りかざし、全てのバランスが崩れるほどに、そのことを言い続けます。
聖書全巻を、よく読むことをお勧めしたい。
人間が幸せになるために、書かれている言葉なのですから。
まぁ、幸いにも、がちゃがちゃと人のプライバシーにまで立ち入って、自分の考えを押し付ける人は、周りにいないので、これは感想ですが。
自分の性格を変えなくていいと、最初に言われましたむしろ。
自分らしく生きる...永遠のテーマだと思いますねぇ
Unknown
(
mumu.com
)
2007-04-07 15:03:18
#chomemaroさんへ
chomemaroさんの挙げておられる聖書のことを念頭に置いて記事を書いたんですが、一応一般の人も読まれるだろうということで解りやすい記事にしました。
おいらが「仕事」や「業」と書いてある部分はすべての活動というよりは、「業」と表現している部分は特に霊的活動のことメインに意識して書いたつもりです。
クリスチャンにとって最も重要な仕事なのですから当然といえば当然ですよね~。
しかし極端な人間のいうことの「間違った解釈」には今から考えるとあきれてしまいます。
自分に都合の良い部分のみ覚えていて、自分に都合の良い解釈を披露し、論破する方法は愚かな行為であり、真理を人から遠ざける作用しかもたらしません。
また厳密性を求めすぎることもおかしな事だと感じますよね。
神は狭量な方だという見解が多いのですが、真逆で平衡の取れた見方の最たる持ち主ですし、もっとも寛容な方だとも感じるわけです。
しかし教え手が狭量だというイメージを植え付けるモノですから、「厳しい方」とか「義に過ぎる方」だという先入観が先行しがちです。
これはあがないを備えてくださり、現在の状況でも人間の活動をゆるしておられることから動機が「愛」であり、忍耐しておられ、寛容さの点でもっとも秀でた方だということは明確になっている事を理解しようともしません。
狭量だという人の言葉を聞いていると悲しくなってしまいますよね~。
加えて「自分の業」にもちゃんとした評価というのは必要ですよね。
人からの評価ではなく自分でも評価してやることの重要性を感じます。
もちろん平衡の取れた評価基準を持って見る必要があります。
重度の鬱を煩っている人の傾向として自分の業の半分ないし4分の1ぐらいしか評価できていないような気がします。
平衡の取れた寛容さを備えて言葉の意図を汲む必要性を良く感じます。
以前にも書きましたが、「規則」ではなく「原則」に基づいて行動していきたいモノです。
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伝道の書2章24節に書いてあります。
そして、働かざるもの食うべからずという言葉も、聖書から来ていますね。テサロニケ3章10節。
加えて、家族の必要を満たさないものは信仰のないものよりも悪いと書いてあります。
この言葉を言うと、聖書ってきついなーと一般の人に驚かれましたが、本当にバランスの取れている聖書は真実のことしか言いません。
まさに、この通りにバランスの取れた考えをすることが、幸せへの道です。なんでも、許容するのはむしろ、その人にとっての幸せでないからです。
では、極論に走りすぎる人は、聖書に書いてある王国のことを第一にするという言葉を、またこれもって、王冠のように振りかざし、全てのバランスが崩れるほどに、そのことを言い続けます。
聖書全巻を、よく読むことをお勧めしたい。
人間が幸せになるために、書かれている言葉なのですから。
まぁ、幸いにも、がちゃがちゃと人のプライバシーにまで立ち入って、自分の考えを押し付ける人は、周りにいないので、これは感想ですが。
自分の性格を変えなくていいと、最初に言われましたむしろ。
自分らしく生きる...永遠のテーマだと思いますねぇ
chomemaroさんの挙げておられる聖書のことを念頭に置いて記事を書いたんですが、一応一般の人も読まれるだろうということで解りやすい記事にしました。
おいらが「仕事」や「業」と書いてある部分はすべての活動というよりは、「業」と表現している部分は特に霊的活動のことメインに意識して書いたつもりです。
クリスチャンにとって最も重要な仕事なのですから当然といえば当然ですよね~。
しかし極端な人間のいうことの「間違った解釈」には今から考えるとあきれてしまいます。
自分に都合の良い部分のみ覚えていて、自分に都合の良い解釈を披露し、論破する方法は愚かな行為であり、真理を人から遠ざける作用しかもたらしません。
また厳密性を求めすぎることもおかしな事だと感じますよね。
神は狭量な方だという見解が多いのですが、真逆で平衡の取れた見方の最たる持ち主ですし、もっとも寛容な方だとも感じるわけです。
しかし教え手が狭量だというイメージを植え付けるモノですから、「厳しい方」とか「義に過ぎる方」だという先入観が先行しがちです。
これはあがないを備えてくださり、現在の状況でも人間の活動をゆるしておられることから動機が「愛」であり、忍耐しておられ、寛容さの点でもっとも秀でた方だということは明確になっている事を理解しようともしません。
狭量だという人の言葉を聞いていると悲しくなってしまいますよね~。
加えて「自分の業」にもちゃんとした評価というのは必要ですよね。
人からの評価ではなく自分でも評価してやることの重要性を感じます。
もちろん平衡の取れた評価基準を持って見る必要があります。
重度の鬱を煩っている人の傾向として自分の業の半分ないし4分の1ぐらいしか評価できていないような気がします。
平衡の取れた寛容さを備えて言葉の意図を汲む必要性を良く感じます。
以前にも書きましたが、「規則」ではなく「原則」に基づいて行動していきたいモノです。