幻影現実 私的工廠 日記帳(気ままに更新)

たぶん、よろず的四方山話が中心になるでしょう。

二引き の ファンネル

2005年07月28日 21時34分25秒 | Weblog
ファンネル とは、煙突のことです。
「二引き」とは、煙突に描かれた 日本郵船 のマークです。

横浜港に係留保存されている「氷川丸」の煙突には、白地に赤い2本線が描かれています。
「氷川丸」も現役時代は、日本郵船の所有船だったのです。

「白地に赤の2本線」は、「二引き」と呼ばれる 日本郵船のマークです。

日本の客船の中で、一番豪華だと言われている「飛鳥」の煙突にも「二引き」のマークがあります。
「飛鳥」は、日本郵船が、満を持して設立した 豪華客船クルーズを専門に運営する子会社だからです。

かつて、日本郵船は、数多くの豪華客船を所有しておりました。
「浅間丸」「秩父丸」「新田丸」「氷川丸」「平安丸」「日枝丸」など。。。。
そのほとんどが、戦没しました。

海軍病院船として大戦を活躍し、生き残った「氷川丸」は、戦後、戦前に繁栄を極めたシアトル航路に復帰いたします。
日本郵船にとって、大戦を生き抜いて、再びシアトル航路に復帰した氷川丸が、最後の客船事業となりました。
やがて、客船から飛行機の時代へと、急速に旅客輸送は取って代わられ、1960年(昭和35年)10月、太平洋を238回横断して、延べ25,000人余の乗客を運んで「氷川丸」は引退しました。
「氷川丸」の引退と同時に、日本郵船は、華やかだった客船事業から、すべて撤退したのでした。

時は移り、平成の時代となり、バブルに沸いた日本に、再び 客船クルーズをと 日本郵船が誕生させたのが豪華客船「飛鳥」です。
外国の超大型豪華客船と比べると小さい「飛鳥」ですが、その中身は、見劣りなど決してないそうです。

日本郵船の豪華客船が、七つの海を行き交う光景は、もはや過去のものとなりましたが、現在では、工業国日本の主要輸出品を載せて、七つの海を航海しています。
「二引き」のマークは、世界で通用するのです。


画像は、名古屋港に入港中の自動車運搬船。
(妻の撮影)
「NYK」の文字と、ファンネルには「二引き」のマーク。

終戦60年

2005年07月27日 23時03分04秒 | Weblog
第2次世界大戦に この国が敗れて 60年。
もっと ピンとくる言葉で言えば、太平洋戦争に負けて60年。
いたることろで、ちょっとした戦前・戦中・戦後ブームのようです。


「その時 歴史はうごいた」・・・・某国営みたいな放送局の番組です。
視聴者は、おおまかには判るでしょうが、あまりにも極論すぎる内容でした。
しょせん45分(だったかな?)番組では、掻い摘んだ内容になるのは、当然でしょう。
内容は「戦艦 大和 の最後」でした。

「大和」や「大和」と運命を共にされた方々を冒涜するつもりは、まったくありません。
「大和」を造った日本の造船技術の高さは、大したものだと思っております。
また「大和」が、旧日本海軍の象徴ばかりでなく、日本の象徴であったのは、同感であり、否定するものではありません。
以上のところを 誤解のないように 記載しておいて・・・・

それでも、ブームのためか、美化しすぎ。。。。

もしも、戦艦同士の決戦がおきていたら、はたして「大和」は、アメリカ海軍の40センチ砲搭載戦艦に勝てたのでしょうか?
相手は、アイオア級戦艦になるであろうと思われます。
アイオア級戦艦は、40センチ砲を「大和」と同じく9門搭載しています。
(大砲の数え方は、門(もん)と言います)
アイオア級戦艦の速力は33ノット。
「大和」の速力は27ノット。
この6ノットの速力の差というのは、大きいのです。
「大和」や同型艦の「武蔵」が、トラック島に錨を降ろして「大和ホテル」や「武蔵御殿」などと呼ばれるようになった原因の一つに、空母部隊の速力についていけないから おいてきぼり というのもあります。
もちろん、敵との決戦に備えての戦力温存というのもありますが。。。。
30ノット以上の速力が出せなければ、当時の空母部隊にはついていけないのです。

砲撃性能の違いにも、少々の疑問を感じます。
「大和」の46センチ砲は、アイオア級戦艦の40センチ砲よりも4~5kmほど射程距離が長いのですが、これが疑問です。
理論上は、敵の弾が飛んでこないうちに、最大射程で砲撃できるという事なのですが、実際の戦闘では、最大射程での砲撃など、それほど戦史にもありません。
有効な射程距離での砲撃の方が、確実だからです。

「大和」は自身が装備している46センチ砲と同じ砲弾が命中しても10発までは耐えられるように設計されていました。
とはいっても、46センチ砲よりも小さいアイオア級戦艦の40センチ砲弾が、もしも「大和」の司令塔に命中したならば、「大和」の司令部は壊滅です。

アイオア級戦艦は、40センチ砲弾に撃たれた場合の防御力を与えられただけですので、「大和」の46センチ砲弾は、脅威です。

ですが、アイオア級戦艦には、自慢の速力とレーダー射撃装置があります。
当時のアイオア級戦艦のレーダー射撃装置は、それほど精度が良くなかったという話もありますが、射撃用レーダーなど まったく備えていなかった「大和」の照準装置は、巨大な望遠鏡でした。

歴史にifはタブーですが、私的には、「大和」対 アイオア級戦艦 の戦いは、速力にモノをいわせたアイオア級戦艦が、意外と頑張るような気がしております。


しかし・・・・ブームもいいですが「大和」は、ちょっと美化されすぎでは。。。。
戦後まもなく、戦記ブームが巻き起こり、少年マンガ誌には、数多くの戦記物が掲載された時代がりました。
「大和」も「武蔵」も「ゼロ戦」も、その時のブームで、この国の国民は、存在と その最後を知ったのです。
戦争中は、国家機密として、国民には広く知らされていなかったのですから。。。。

このブームは、使用されるメディアが、映画やTVやCGといった映像にうったえるモノになっただけで、以前の時のように美化されているのには違いがないような。。。。

  画像は、アメリカ海軍 アイオア級戦艦

えっと、日記です

2005年07月26日 20時02分28秒 | Weblog
という状況なので。。。。
今日、会社の帰りに カメラ屋さんに寄って、Canon Eos kiss Digital N を本体だけ買ってきました。
(話のわからない方は、昨日のブログを参照)
本体だけだと、以前みたに「高い!」って思わないところが、魔物の巣食う落とし穴でしょう(苦笑)

しかし。。。。
修理に出した先代 Eos kiss Digital と比べると、軽い、小さい、スイッチなどの作りがしっかりしている・・・・などなど 進化(?)しているようです。

なんと、バッテリーの使いまわしが出来ないのには驚き。。。。
確かに、カメラそのもののボディも 先代よりも小さくなっていますから、先代用のバッテリーだと、大きいわなぁ。。。。
またバッテリーの予備も調達しなきゃです(苦笑)
購買意欲をかき立てるように仕向ける Canonの陰謀か?

え゛~ 余裕があれば、別にkiss買わなくても、その上の機種を買えば 話はもっと早いのです。
性能が格段に違うのは、目に見えておりますので。

しかし、ズブのド素人が、カメラばかりイッチョ前でも、サマにならない訳で。。。。
12枚も連写できれば、私的には、充分です。
連写3枚しかできない先代器で、それなりに タイミング良く撮影できておりましたしね~

とりあえず、望遠ズームなどは、使いまわしできますし、今回みたいに 1台がオーバーホールに入っても、大丈夫ですし。

先代器が 修理から戻ってきましたら、標準レンズと望遠ズームをつけた2台のkissで 出陣いたします。


で~ 今夜は「海猿」です。
たはして「伊勢湾マリンフェスタ」のページは、どこまで作業が出来るのやら????

伊勢湾マリンフェスタ ただ今 アップに向けて工事中

2005年07月25日 23時41分59秒 | Weblog
突然ですが、一眼レフ デジカメ メーカーへ修理に出しました。
今週末にもイベントがひかえておりますが、200万画素デジカメで 何とかなるでしょう。

で~、カメラ屋さんで、色々と話こんでいたら、帰宅が遅れてHPの製作時間が、少なくなってしまい、今夜は 伊勢湾マリンフェスタ のページは完成しませんでした。
明日移行に、アップの予定です。

さらに~、カメラ屋さんで、話こんでいて感心してしまったのが、自分の努力と根性(爆)
使用している一眼レフ デジカメですが(修理に出したヤツ)連続撮影は、最大1秒に3枚。
モデルチェンジした現行の新型は、1秒に3枚でも 連続12枚くらい撮影可能だそうで。。。。
1秒に3枚連写したら書き込みが終了するまでハングアップする一眼レフ デジカメで、よくもまあ ビュンビュン飛びまわる軍用機を300mmのズーム振り回して、被写体追っかけしてましたわ。
もち、コンパクトフラッシュは、高速書き込みタイプですけどねぇ~

たった1年半くらいの期間で、これだけの性能の違いがでるんですから、まぁ ビックリですわ。

海上自衛隊 横須賀地方隊 伊勢湾マリンフェスタ 2日目

2005年07月24日 20時51分08秒 | Weblog
今日は「しらゆき」に乗艦して参りました。

「さわゆき」に乗艦させたら、必ず出港するという自他共に認める『晴れ女』様が ご乗艦されましたので、見事に太陽が照りだして、しっかりと日焼けしました。
さすがです!
魔法の力でしょうか?(笑)
(⌒▽⌒)ノ


さて、世の中には、いろいろな人が おみえになるようで。。。。

昨日のマリンフェスタは、ガーデン埠頭横の公園の生垣や塀に「名古屋港に軍艦は、いらない」などのスローガンを貼り出した人がいたようですが、名古屋港を管理している部署により撤去されたようです。
あれって、たぶん条例違反くらいには なるんでしょうねぇ?

今日は、出港の瞬間に、水上バイクで現れた男性が「天皇陛下万歳!」を歓呼してました。

どこから入り込んだのか知りませんが、オジサンが、案内誘導をしている隊員さんを 困らせていました。

本当に、世の中には、いろいろな人がいるものです。


画像は、伊勢湾マリンフェスタの 縁の下の力持ち。
「避航に ご協力ください」と書いてあります。
開催海域の確保にあたっていただき、お疲れ様でした。
そーいえば、横須賀基地の救急車が1台 埠頭に待機していましたけど、これで運んできたのではないでしょうねぇ。。。。
(冗談)

えっと、日記です

2005年07月21日 20時29分35秒 | Weblog
と、題名は なっておりますが、いつもながら まったく日記になっておりません。


では、本題

明後日、明々後日と、海上自衛隊 横須賀地方隊「伊勢湾マリンフェスタ」が開催されますので、明日より 久しぶりに『海上自衛隊モード』に移行します。

なにしろ、今回は、いつものように 夜間に高速道路をひた走って、車内で仮眠をとって、疲れまくりで乗艦しなくてすむのです。
昨年の「駿河湾マリンフェスタ」では、往路の高速道路 夜間走行中に、前方を走っていたトレーラー(もしくは大型トラック)から、脱落した金属片を 無様に踏みつけてしまったため、時速100kmで後ろの右側タイヤがバーストする惨事となりました。
車を高速道路の路肩に寄せて、ビュンビュンと大型車が通過する東名高速道路で、しっかりとタイヤ交換しました。
タイヤ交換に要した時間、15分。
いつも自分で、タイヤのローテーション、夏・冬タイヤの装着などは、やっておりますので。
呼びもしないのに 道路公団のパトロールカーが駆けつけてきた時には、もう再発進準備完了してましたぞ。
(オットリ刀の連中だわ)
タイヤは、しっかりと15cmほど横っ腹が裂けておりました。
もち 修理不能。
帰宅してから、知人のカーショップで、新品1本買いました。


では 皆さん、「伊勢湾マリンフェスタ」でお会いしましょう。
(誰と会うでしょう?・・・・アポなんて1件もないぞよ)

日焼け対策、お忘れなく!

願わくば、伊勢湾が 巨大な貯水池 状態でありますように。

波はいらない、船酔は天敵(自爆)

えっと、日記です

2005年07月19日 21時10分20秒 | Weblog
  ◇ 浚渫(しゅんせつ)兼油回収船「清龍丸」 ◇

国土交通省に所属する3隻の船があります。
「白山」「清龍丸」「海翔丸」

浚渫(しゅんせつ)兼油回収船と呼ばれる3隻です。
「白山」は新潟港を母港に、「清龍丸」は名古屋港を母港に、「海翔丸」は北九州港を母港に、3隻で、日本の海で起きる油流出事故に備えておます。

例えば、北海道の先端 稚内近海で、油流出事故が発生したとすると、受け持ち海域になっているのは 新潟港の「白山」です。
当然、海上保安庁にも それなりの設備を要した船舶はありますが、いざとなれば「白山」は、48時間かけて稚内近海に出動するわけです。
3隻体制で、日本の海をカバーしているのです。
少ないと思うか、それで十分と思うのか・・・・皆さんのご感想はいかが?

名古屋港のガーデン埠頭にある 名古屋港水族館の裏側の岸壁に、国土交通省の看板をつけた船体が黒い塗装の船が停泊しています。
名古屋港を母港としている「清龍丸」です。
なんと、名古屋港は港湾取扱貨物量と貿易額とが日本一なんだそうです。
阪神淡路大震災で 大被害を受けた神戸港は、当時 「神戸飛ばし」などと呼ばれて、取り扱い貨物が減り、世界的貿易港としてのメンツが崩れかけたそうですが、今はそうなんでしょうねぇ。。。。?
名古屋港が日本一などと 言われているようでは、まだまだ立ち直っていないのでしょうか。。。。

とまぁ、何にしてもこの貿易量が多い名古屋港を母港にしている「清龍丸」が、老朽化したため、ただ今 新造船を建造中だそうです。
東海大地震をも想定した 洋上指令船としても期待でき得る設備だそうです。

画像が、新造中の新型「清龍丸」


  ◇ 海上自衛隊 護衛艦「しらゆき」 ◇

今週末、伊勢湾で、海上自衛隊 横須賀地方隊による 伊勢湾マリンフェスタが開催されます。
まさに、万博サマサマのイベントです。
(万博がなかったら、来なかったんじゃないですかぁ?)

さて、護衛艦「しらゆき」ですが、管理人は、この艦での体験航海は2回目です。
覚えやすい艦です。
艦番123
白雪姫の「しらゆき」です。
ほら、もう覚えたでしょう(笑)

で・・・・ここからは、私的な感想です。
護衛艦「しらゆき」ですが、実は「現役戦闘艦 兼任 広報担当艦」じゃないですか?
自衛隊では、イベントなどは「広報」と呼ぶそうです。
実は、24日分の乗艦券ですが、全部「しらゆき」で当たりました。
おかげさまで、当日は、一族郎党全て引き連れてマリンフェスタして参ります。
(おおげさ~)

「~ゆき」クラスは、護衛艦の中では、普及版ですから、どこのイベントに出かけても拝見できます。
つまり同型艦が多いのです。
ですが、こーゆー艦が、非常時には、最初に戦闘状態になったりするのです。
マニュアルどおりに敵が攻撃してきてくれるとは 限りませんので。





徳山ダム

2005年07月18日 20時33分57秒 | Weblog
完成すると 琵琶湖の半分の大きさのダム湖が出現して 日本一のダムになるという 徳山ダムの工事現場を 観て来ました。
さすがに 岐阜県揖斐郡藤橋村のさらに奥にあるだけに 山の空気も暑いとはいえ 都会の暑さとは違い、清々しさを感じました。

画像は、200万画素携帯カメラでの撮影です。
まあ、こんなモノでしょう。。。。携帯電話の付録カメラ機能は。
300万画素なら、もう少しマシかもしれませんが。。。。
やはり、一眼レフデジカメを 持っていけばよかったかも です。


藤橋村のお隣には、滋賀県と福井県との県境にある坂内村があります。
この坂内村から、岐阜と福井と滋賀との3県の県境にまたがる三国岳(標高1209m)という山があり、ほぼ山頂付近に「夜叉ケ池」という池があります。
1200年間伝わる龍神伝説を秘めた 神秘の池です。
こんな高いところにありながら、まったく水が枯れた事がないという不思議な池です。
行くには、根性を入れて徒歩で登山する必要があります。


今日の〆として・・・・
徳山ダムの工事現場を観て 戻ってきましたが、下界のあまりの暑さの為、これ以上 何もやりたくありません(汗々)
今日の活動は、これにてお仕舞い。
電源オフ!


「小 牧 丸」・・・・ラバウルと、ゼロ戦と、撃墜王 坂井三郎と、仮設桟橋

2005年07月15日 22時09分03秒 | Weblog
  【 撃墜王 坂井三郎 海軍中尉(最終階級) 】

第2次世界大戦中、日本海軍(陸軍も同様ですが)には、個人成績を評価するという撃墜スコア制度がなかったため、正確な事はわかりませんが、それでも 大空には、サムライが存在したのでした。

第1位は、87機撃墜の西沢 広義 中尉(戦死後)・・・・ゼロ戦乗りのトップに立つのが西沢中尉です。
その腕を買われて 最初の神風特別攻撃隊を護衛したのも西沢中尉でした。
西沢中尉の戦死は、輸送機に便乗していたところを、撃墜されたのでした。

第2位は、80機撃墜の岩本 徹三中尉・・・・伝説的なゼロ戦乗りは、終戦まで生き残りましたが、惜しくも病の為、戦後まもなく病死しました。

第3位は、70機撃墜の杉田 庄一少尉・・・・終戦直前の九州での防空戦闘中に戦死。

そして、第4位が、64機撃墜の 坂井 三郎中尉です。
戦後「大空のサムライ」という自叙伝を出版して、航空書物として 世界的に高い評価を受けました。
しかも、坂井氏自身、大戦中をゼロ戦乗りとして生き抜いたパイロットでもあったのです。
坂井氏は、一度も撃墜された事がありません。
必ず、愛機とともに基地に帰還してきました。
坂井氏が、重症を負ったガダルカナル島での空中戦では、頭部を負傷して、視力が低下する中、1000km離れたラバウルまで生還しています。


  【 優秀貨物船「小牧丸」8524総トン 】

1942年(昭和17年)4月、旧式駆潜艇の護衛1隻で「小牧丸」は、ラバウルを目指していました。
「小牧丸」には、ラバウルに海軍の基地や飛行場が建設されて、そこに配属される将兵が満載されていました。
ゼロ戦パイロットである坂井 三郎も「小牧丸」の船上の人でした。
「小牧丸」は、敵潜水艦に追尾されたりしたため、ジクザク航行でもって切り抜けます。
南方の陽気と、詰め込み状態の将兵、揺れる船・・・・
さすがの大空のサムライ 坂井 三郎も、体調を崩してしまいます。
ゼロ戦の最高速度は時速500km以上。
「小牧丸」は、高速優秀貨物船でしたが、旧式駆潜艇が護衛についていては、速度もだせなかったようです。
とはいえ、20ノットだしたとしても 時速約36km。
ゼロ戦乗りの坂井にとっては、なかなか目的地に着かない苛立ちや 置かれた状態が、体調を崩した原因だったのでしょう。
そんな彼を懸命に看病してくれたのが、新任の隊長 笹井醇一中尉でした。
仕官出身の笹井と 下士官の坂井の運命的出会いだったそうです。
こうして2人は、階級を超えた友情で結ばれていきます。


  【 「小牧丸」の最期 】

「小牧丸」は、ラバウル港に入港します。
坂井 三郎は、ラバウル基地の野戦病院に入院しました。
病室からは、ラバウルの景色が一望できたそうです。
ラバウルには、近くに火山があります。
火山から湧き上がる噴煙、砂ぼこりがたつ滑走路・・・・
坂井は、ラバウルを地獄の一丁目と例えています。

4月18日、12機のB-26爆撃機が、ラバウルを空襲しました。
入港して 搭載してきた武器弾薬の陸揚げ作業をおこなっていた「小牧丸」に、低空爆撃で襲いかかり 爆弾3発が命中、船倉に積まれていた弾薬が誘爆、「小牧丸」は上部構造物が原型をとどめないほどの爆発を起こして、沈没着底してしまうのでした。
乗組員11名が戦死しています。

「小牧丸」の沈没した日は、ドゥーリットルの東京空襲と同じ日でした。

病室から、その様子を見ていた坂井は、敵爆撃機の傍若無人な振る舞いに、沸々と闘志を取り戻したそうです。
そして、数日で退院した坂井は、次の輸送船が運んできたゼロ戦を愛機に戦うのでした。
後世に名高い ラバウルのゼロ戦隊の戦いです。
「黄金の3機編隊」と呼ばれた 笹井、坂井、西沢。


  【 そして・・・・ 】

ガダルカナル上空の空中戦で、頭部を負傷した坂井は、けっきょく視力が回復せず、内地(日本)へ帰還となりました。
これが、隊長であり親友であった笹井中尉との 今生の別れとなりました。
笹井中尉は、その後の空中戦で戦死します。

沈没着底した「小牧丸」の残骸には、土砂が詰められ、ラバウル港の仮設桟橋となりました。
「小牧丸」の戦没から60数年たった今でも、「小牧丸」は仮設桟橋として、ラバウルの現地の人たちに使われています。

大戦を生き抜いた坂井 三郎氏は、2000年(平成12年)9月22日 突如体調を崩して、永眠されました。