信仰の無い人程、聖職者に神聖さを求め幻想を抱きがち。
ある朝のミサ(カトリック)の際に、「えっ?」と思う話を祭壇上で話てしまった司祭に対し、帰り道に婦人達が・・
「神父様、疲れてたのね。」
「眠かったんだと思う」
ここまでくると、もう家族内の許しに近い。
人と神の違い、人は過ちを犯す者、司祭と言えど所詮は人間、そんな小さな間違いを仕出かす事は十分承知の上。
神の媒体として司祭が伝える事を、
人間としての傾向やエゴを読み取り、
仕分け除き、
神からのメッセージのみを見極め、
受け取る事・・・
を婦人達は若い私に教えてくれた。
しかし、
「神の意とする現象なのだろうか?」と思う出来事が目の前に広がる時、何十年信仰を持っていても精神の荒れを抑えられない事が多い。私などは体調や環境であっと言う間に精神が詰む。お借りしたけれど、今↓この状態。
綺麗事では生きられなくて、何十年信仰を持っても、喜怒哀楽の怒哀は扱いが難しい。
浄化と言う意味に置いては、浮上した怒りの解放であり、怒の裏に隠れた哀しみ、恐怖、傷に向かい合えとのサインでもある。
いつ終わるのか解らない葛藤を前に、祈る気にもなれない・・けれど、神々に助けを求めて自分に向かい合う。
私の日常は、詰むとこんな物。(実際にここまでの行動はしないが、過去には壁に物を投げつけ事が何度かあった。)
ただ、神々に頼り返事が無くても出来る範囲で祈り続ける事は止めない。
信仰を人に勧めながら、所詮は未だにこんな人間でしかない私。
くれぐれも・・・荒れる時は、自己責任で結果も受け入れる。そして、怒りが対人でも人対象に物はぶつけない)を、御注意下さい(笑)
追記:↑あまり参考にはならない内容ながら、使わせて頂いた写真は「愛」に反応してできた水の結晶。言霊として言葉は大切。私の目指す処です。