かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・粕壁神明社

2022-12-12 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/12/16•更新日:2022/12/12

◆12月14日

12月14日は、忠臣蔵の赤穂浪士討ち入りの日ですが、ここかすかべでは「酉の市」が立つ日として知られています。

東武スカイツリーラインの春日部駅東口から数分の所、食品スーパーの隣に鎮座している小さな神社「神明社(神明神社)」がその舞台。 

◆粕壁神明社(神明神社)

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神明鳥居

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昭和42年5月建立
◆ご祭神・由緒

ご祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。鎮座年月日などは不詳とのことですが、境内の説明板によると

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粕壁神明社の歴史

当社の御祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)です。

天明年間(1781ー89年)に地元の豪族九里四郎兵衛が竹藪(たけやぶ)の土中から厨子(ずし)に入った神体と鏡が出てきたので、祠を建てて祀ったのが始まりであるという。

当社は、七月二十一日の例祭と十二月十四日の新穀(しんこく)感謝祭の年2回の祭りが行われる。

例祭は、かつて伝染病がおそれられていたころ、「疫病(えきびょう)封じとしてはじめられたという。

新穀感謝祭は、明治以降は商売繁盛を願う祭りとなり、『春日部のお酉(とり)様」として大宮氷川神社の「十日市」に続く酉の市で、福熊手を売る露店が並び、多くの参拝者が訪れる。

当社は、元来は個人持ちの社であったが、やがて宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。

氏子は、現在、上町、春日町、仲町の三町内で、ほかに「神明講」の人々も、年2回ので祭典に参列している。

          

    粕壁神明社

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普段、門は閉まっています

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祭礼の時だけ開門
◆個人の屋敷神

口碑によると、天明年間、当所(粕壁宿名主見川家?の屋敷)に居住していた九法四郎兵衛(くのりしろうべい)が、屋敷内を開墾中、土中よりご神体と鏡を発見した。名主はこれを屋敷内にお祀りし、字地(山中)の氏神として崇敬したと伝えられています。九里四郎兵衛が如何なる人物かはわかりませんが、当社は、見川名主(見川喜蔵)の屋敷神(個人的な?)のような社(やしろ)だったようです。

しかし、このご神体はいつの頃か盗まれてしまい、現在本殿の内陣(ないじん)に安置されている雨宝童子(うほうどうじ)立像は後年に作り直したものだそうです。

雨宝童子(うほうどうじ)‥両部神道の神。右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つ童子形の神像で表される。天照大神(あまてらすおおみかみ)が日向(ひゅうが)に下生(げしょう)したときのお姿。また、大日如来の化現(けげん)したお姿ともいう。

説明板にあるように、もともとは個人で祀っていた神社で、特に氏子を持っていたわけではありません。

しかし、近隣の人々の信仰を集めるようになり、やがて宿場(粕壁宿)の守り神として多くの人に信仰されるようになりました。境内の石造物等には、上宿、仲宿などの人々の名が入ったものが多く奉納られており、信仰の篤さを物語っています。

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灯籠左側

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灯籠右側

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狛犬・吽形

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狛犬・阿行

以前は現在地よりも50mほど北側に社殿がありましたが、東口の区画整理に伴ない、昭和62年9月、現在地に移転、新築されました。一時、マンションの屋上にお祀りする案もあったそうですが、流石にその案は採用されなかったそうです。  

◆境内社・三峰神社

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境内社・三峰神社


続く…

 

 

 

 

 

 

 

 


日光道中粕壁宿・仲藏院(後編)

2022-12-08 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2021/10/12・更新日:2022/12/08

◆境内

境内に入ってすぐ左側に、様々な石碑が並んでいます。

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そして、右手の茂みの中には、小さな仏像があります。

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「南無興教大師」像です。

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五輪塔

本堂

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古い本堂は、宝永年間に消失しており、この本堂は江戸時代に建てられたものです。

なお、門前の案内板には、ご本尊は、正観世音菩薩坐像 と十一面観世音菩薩立像で、特に十一面観世音菩薩立像は、恵心僧都(えしんそうず)作の秘仏と書かれています。出来れば拝観したいと思いますが、何しろ「秘仏」ですから難しいでしょうね。

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供養塔

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青面金剛

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美松観音
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美松観音の裏、松が塀を超えて隣の「八坂香取稲荷合社」の方まで張り出しています。

そして、

芭蕉翁の書簡

郷土家の須賀芳郎氏は、「ふるさと春日部『春日部の寺院/幸松地区/仲藏院』」に、この仲藏院には、「寺の宝」として松尾芭蕉翁の書簡があると書いています。

寺の宝

  • 観世音菩薩坐像【秘仏】
  • 芭蕉翁の書簡【原文】

御文被下殊に何寄之一品誠に御厚志之所察入候且又集会之事も当月中に被成候由可然候万一無拠用事御座候はば連名の所まで此通り御書可被候下候

(こ)がくれて茶摘(ちゃつみ)もきくや郭公(ほととぎす)

何も間日候万々申越候其角子も昨日帰候右の通り御斗申べく候

 四月十二日樵月舎御僧

◎寛円和尚は宗師として知られる人、書画・骨董に趣味を持ち多くの人々と親交があり、芭蕉翁とも俳句で交わり名を樵月舎という

(引用:ふるさと春日部『春日部の寺院/仲藏院』須賀芳郎著/1996年)

なお、松尾芭蕉が亡くなったのは、元禄7年(1694)と言われていますので、四月十二日は何年の四月なのでしょうか、その点の記述はありませんのでわかりません。

また、門前の案内板には、「宝永年間に本堂庫裏残らず焼失」と書かれています、つまりは全焼したと言うことだと思います。建物は焼失したが、ご本尊やこの芭蕉翁の書簡は焼失を免れたのでしょうか? そこはわかりません。

また、須賀芳郎氏は現物をご覧になって上記のような文章をお書きなったと思います。もしその書簡が現存しているとすれば、春日部市郷土資料館などで一般公開があると嬉しいですね。

終わり


日光道中粕壁宿・仲藏院(前編)

2022-12-04 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2021/10/08・更新日:2022/11/04

神林山仲藏院

日光街道の新町橋を渡り、少し歩き、八丁目新町地区の八坂香取稲荷合社に隣接して真言宗智山派の寺院「神林山仲藏院」があります。

隣接と言っても元々江戸時代までは同じ敷地に仲藏院と神社(合社)があったとされています。その後、明治時代の「神仏分離令」により別々になりました。

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左前方・八坂香取稲荷合社 右前方・仲藏院

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仲藏院門前

門前右には仲藏院の由緒沿革が書かれた案内版が設置されていますが、約40年経っており、かなり古くなっています。何れは書き換えられることもあるとは思いますが、とりあえず文字起こししてみました。

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由緒・沿革

一、真言宗智山派神林山 仲藏院 

 

一、創立開基 

秀宥大和上(四百二十四年前)(永禄元年正月 戦国時代)

一、本尊 

正観音菩薩坐像 

十一面観音菩薩立像(秘仏)(御大三尺二寸五分立像にて恵心僧都の彫刻 豊作子育ての仏) 

 

一、本堂   

宝永年間に本堂庫裏残らず焼失 幾星霜も假室なり文化十二年九月(徳川時代の末期)時の仲藏院住職傅應大和上再建を発願、成田山に一大浄業を祈願し、無魔完成せし建物が現存の本堂伽藍です

 

一、厄除子育 

地藏尊(徳川時代) 

一、三体尊 

供養塔 青面金剛碑

一、位牌殿 

納骨堂 無縁塔

一、修行大師像(弘法大師千百五十年御遠忌記念)

一、牡丹つつじ(関東名木樹齢ニ百五十年)

一、墓地分譲  

 

昭和五十七年二月吉日

   

仲藏院住職 第十六世

 

       平原寛融

開基は永禄元年(1558)正月、と案内板に書いてあります。

因みに永楽元年正月とは、甲斐の武田信玄公が信濃の守護職になった年だそうです。まさに戦国時代、そのくらい古いお寺です。

隣接の「八坂香取稲荷合社」社蔵の棟札や嘉永(かえい)3年(1850)の「鎮守香取大明神来歴」に永禄(えいろく)元年(1558)、時の仲藏院住職秀宥(しゅうゆう)が当社の別当を務めていたことが書かれており、それが根拠のようです。

◆門前には

いよいよ、境内に入る、その前に、案内板の右手5m程の所に、小さな祠があり、格子戸越しに見ると小さな仏像が安置されています。地藏尊です。

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案内板によると、この地藏尊は江戸時代のものとのこと。

また、門柱の脇の掲示板下には、可愛らしい三猿がお出迎え。

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そして、この仲藏院には、何とあの松尾芭蕉翁の書簡があると言われています。

 

この続きは後編で

 続く…