◆最も小さな神社
今回ご紹介する神社は、かすかべで最も小さな神社(だと思います)、三囲稲荷社(「三囲神社」・みめぐりじんじゃ)です。
とにかくとても小さな神社です。あるのは朱い鳥居と社殿(祠?)だけ、眷属のキツネもいません。
寺町の「最勝院」の前の交差点を左折し、「妙楽院」の先を右折、そのまま直進し、春日部中学校の正門の手前を左折、東武鉄道の金山踏切の手前の路地を右に入った所(住宅地)にひっそりと鎮座する神社が今回ご紹介する三囲稲荷社(三囲神社)です。
春日部中学校 この前を左折。
少し歩くと東武鉄道の金山踏切が見えます。そして、踏切の手前を右折した住宅街にこの神社はあります。
ここを左折し路地を入った所が三囲稲荷社(三囲神社)です。
◆内出という地名
この地域は、旧町名が「内出」というところ。
近くには、「陣屋」と言う地名もあり、その昔、粕壁宿の代官が陣屋を出る際に、太鼓を打ったところから「打ち出」、転じて「内出」となった、と聞いたことがあります。
いずれにしても、かなり小規模な神社なので、ここを目当てに来る方はほとんどいないと思います。とにかく何もありませんので。
◆東京にある三囲神社
一方、東京にある同名の「三囲神社」は、結構知られた神社です。『おせつ得三郎』、『水神』などの落語の世界にも“三囲(みめぐり)”さんが出てきます。
それでは、まずは、東京の「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)のお話から。
東京の三囲神社は、浅草の対岸、いわゆる向島(墨田区)というところにあリます。
創建は、不詳とのことで、ご祭神は、「宇迦之御魂神」、いわゆる、お稲荷さんです。旧村社で、元は、「田中稲荷」と称した。
伝によれば、
近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。
元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、
「遊(ゆ)ふた地(夕立)や田を見めくり の神ならは」
(三囲神社の神様が五穀豊穣の神であるならば、どうか恵みの夕立を降らせて下さい)
と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。
このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀した。(参考:Wikpedia)
三井グループ「三井広報委員会」のホームぺージには、
三囲神社の草創は定かではないが、社伝によると弘法大師の勧請によるという。南北朝時代、荒れ果てた社殿の再建に着手した際、地中から神像が掘り出され、白狐がその神像を三度回って行ったことから、「みめぐり」と呼ばれるようになった。
時代は流れ、元禄年間になると神社は江戸の大店・越後屋を営む三井家の守護社として信仰を集める。その理由は神社が日本橋から東北(鬼門)の方角に位置するため、「鬼門除けの神」として祀られたとされるが、三囲の「囲」の字は「井」を囲んでいることから、三井を守る意味で守護社とされたとも、俳人・其角(きかく)の雨乞いの霊験によるものとも伝えられている。
以後、三井家が主となり神社を支援しており、神社には三井家が奉納した石碑や石像・木像も多い。
弘法大師云々の箇所は、なんとも言えませんが、今でも三井グールプが全面的にバックアップしている神社なんですね。
そして、宝井其角の話以外は、この東京の三囲神社とほぼ同じ伝承を持つ神社が、今回ご紹介する春日部の三囲稲荷社(三囲神社)です。
その話は後編で…
参考:【三囲神社】(東京)
注記:本記事は、当初2019年3月22日に公開した記事ですが、前後編に更新し、2022年10月2日に再エントリーしました。