コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
鷲尾氏の出身などを読むと単なる案内人ではないのがわかりますね。
(
yukariko
)
2019-08-30 12:02:13
鷲尾氏は大きな血縁集団を形成し…山岳地帯を支配下においたやみの権力者…そうであるならこの時だけの単なる案内ではなく、その後も山中で軍勢を二手に分けて平氏の後ろから攻めたというのもうなずけますね。
その後、郎党となって、苦労を重ねつつも従い、最後の奥州で討ち死にしたというのは、やはり義経に人を引きつける何かがあったのでしょうか?
地方の豪族にとっては時の大戦に参加し報奨を貰ったというのは末代までの語り草でしょうね。
そうですね
(
sakura
)
2019-09-01 13:48:05
山田庄の鷲尾家は衰退してしまいましたが、白川の鷲尾家は残っています。
10軒ほどある鷲尾一族の集落、その本家の応接室には
応永21年(1414)2月「鵯越軍功舎」と白い墨で書かれた
舟板が架かっているそうです。
また義経が楱谷(はんがえ)重朝に与えたといわれる
寿永3年2月8日付の軍忠状(軍功を証する書類)をはじめ、
1千点以上の古文書があり、その文書に「鷲尾党」と
記されていることから、鷲尾党という巨大な氏族集団が
あったことが推測できるようです。
義経は戦上手というだけでなく、人間的魅力にも溢れていたのでしょうね。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
その後、郎党となって、苦労を重ねつつも従い、最後の奥州で討ち死にしたというのは、やはり義経に人を引きつける何かがあったのでしょうか?
地方の豪族にとっては時の大戦に参加し報奨を貰ったというのは末代までの語り草でしょうね。
10軒ほどある鷲尾一族の集落、その本家の応接室には
応永21年(1414)2月「鵯越軍功舎」と白い墨で書かれた
舟板が架かっているそうです。
また義経が楱谷(はんがえ)重朝に与えたといわれる
寿永3年2月8日付の軍忠状(軍功を証する書類)をはじめ、
1千点以上の古文書があり、その文書に「鷲尾党」と
記されていることから、鷲尾党という巨大な氏族集団が
あったことが推測できるようです。
義経は戦上手というだけでなく、人間的魅力にも溢れていたのでしょうね。