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頼朝と腹違いの弟になる義円は功を焦ったのでしょうか? (yukariko)
2012-10-25 00:01:08
元々源氏の子といっても幼くして寺に、その後坊官となっても武士として鍛えた事もなく、大体が戦術もよく知らなかったのではないでしょうか?
兄頼朝に認められ一かどの武将になりたいと思うあまりに功を焦り、小勢で夜襲をかけて失敗、25歳で命を落とした…こんな筈じゃなかったと最後の時に思った事でしょう。
京に近い墨俣で大勝利をしても、三河や遠江の地は大多数の平氏にとってはよく知らない遠国だから
出掛けてその地で戦がこう着状態になったら自分の初領地に戻れなくなる…と思うと、引き返して自軍の優勢な京都周辺で戦おうという意見が大多数を占めたでしょう。
平氏には都は京都ではなく、福原だとの想いがあったのかも。
一度落ちた勢いを盛り返すのは至難の業なのに、陣頭指揮をとれる総大将がいなければどうしても後手後手に回るし、引いて守りを固める、籠城主義になりがちですよね。源氏も大勢の死者を出しているのに、時の勢いの差が出たのでしょうか?
 
 
 
そうですね! (sakura)
2012-10-26 16:38:52
義円は歴史の表舞台に登場するとまもなく亡くなっているのでよくわかりませんが、
功をあせって義円と先陣争いをした行家(頼朝の叔父)は、平家物語の中で常に敗軍の将として描かれています。

古態を残すといわれている延慶本「平家物語」には、敗退した行家が旅装束させた雑色3人に平家軍に向わせ、「東国から大軍が押寄せてきた。」と噂を流させています。
平氏が兵を引いたのは頼朝本隊が援軍として押寄せると思ったのかも知れませんね。
 
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