『雨煙る。』

観劇ノート。
『雨煙る。』は現実との境界が雨で滲むイメージ。一瞬、何処かで繋がっているかもしれない舞台上と此方側の話。

2024/03/14

2024-03-14 03:05:34 | Oliver!
日本での公開日が今年の5月10日に決定したようですね。劇場で見れるのが楽しみです!
しかし公式サイトもインディーズ映画なんだなって感じがする。

https://x.com/SINGULA_movie/status/1767747439342362832?t=YzrZSyt20qoX_2VeFWLxhg&s=09

SINGULA

2023-10-22 16:59:48 | SINGULA

SINGULA(映画)
その2〜兎に角褒めたい、兎に角刺さった編〜

先の感想でも少し触れたけれど、最後のシーンの秀逸さ! あの人間臭い仕草を見て、今までのAI達の人間っぽくみえる喋り方や仕草があくまでインストールされたものでしかなかったと痛感する作りが凄い。 画面越し“ネットの向こうの人間“と、目の前にいる“生の人間“の差とでも言うか。 今まで、それぞれの『色』は見えていたし、AIなのにとても“人間っぽい“と思っていたが、最後のシーンで生の『体温』を突き付けられる。何それ、痺れるほどカッコイイんですけど!!推しがカッコイイとか言う当たり前のことはさておき(置いとくのか?めちゃくちゃセクシーで最高やぞ???でも悲鳴を飲み込んで一旦置いておく)。 生の演劇の何が好きって劇場の空気を振るわせる『体温』を感じる瞬間、ってのがあると思ってるのです。まさか、それを、映画で感じる日が来るとは思わなかった。(演劇と違って、映画には映画の距離感でそっと寄り添ってくれる良さがあると思っている)いや、すご過ぎない?演劇人と映画人で本気のタッグを組むとこんなことになるのか…。堤監督もストレートの舞台での演出をすることはあるけれど。そういえば堤監督の作る舞台(2本しか見たことはないけど)って、舞台美術とか装置がとてもシンプルだったので、そういう意味では今回のSINGULAの堤監督っぽさはそこにあったのかもしれない。引き算で演者を際立たせる演出のような気がするので、演者の力量が非常に問われる演出だなと思った記憶がある。カメラのフォーカスの代わりに、画面構成上のシンプルさと、演者の力で引っ張る演出。 それはさておき。その最後のシーンを経て、頭をよぎる今までの数々のシーン。①BRAINが居るシーンでの言葉の応酬での言葉の意味が変わってくる台詞が結構あるなとか。振り返って思えば、他のAIよりも人間臭い仕草が①BRAINにはあったなとか。 そして、①BRAINはAIなのか先生なのか、ということについては“両方“と言えるなと。AIが15の意見を集めて集約し1つの結論を出すとして①BRAINの意見は“先生“の意見なので、AIの一部分であり先生でもある。 考えれば考えるほどこの最後のシーンの瞬間に全てが集約されていた。色んな意味で。 一度全てのAIが停止する描写もドッキとさせられるけれど、その後①が起き上がった事で、ディベートが帰結し一つに纏まった事を表していたし、15で一つのAIである事も表していたし、A Iが先生の意見も込みで集約していた事も表していた。 そしてこれは後から気づいた事なんだけれど、先生は敢えて人類存続反対派に属していたのではと。自分の意見も込みでAIに集約させて、開発者に有利な結論(開発者側の結論)が出なかった事に最後の最後、確認してホッとしていたのではないかな、と。自分が開発したAI の公平性を確認しホッとしていた可能性があるのかなと。 不特定多数の人間の意見を集約したものでありつつも、誰か特定の個人の意図に操られたAIでは意味がない。そこに、先生の“人間“に対する信用してなさというか絶望感というか(もしかしたら己のことさえも)が伺える気がしてならない。
SINNGULA という映画が最後のシーンに色々全て詰まっていて、冒頭に戻ってもう一度観たくなる映画だった。

あとこれ!spiさんの一人15役。当たり前に凄いことです。役づくりで15体それぞれに明確にイメージする実在の人物(映画のキャラクター等)を作ったという役づくりに感服。映画の設定に合わせて、そのように作り込んだということなのだろうと推察されるけれど、やろうと思ってできることじゃない。そもそも一人で15役やろうという時点で凄すぎるのに、更にそうきたか!って感じ。「誰か」を丸ごとインストールしたAIの役づくりの為に、自分も15体分の「誰か」をインストールしたってことよね。凄すぎる…。 原案脚本、監督、演者、それぞれの総力で成り立っている。この映画ほんとにすごい。


SINGULA(映画)

2023-10-20 18:14:39 | SINGULA

SINGULA

▫️衝撃のラスト:
脳内でそれまでのシーンが濁流のように打ち寄せる。 今まで視聴者が脳内でふんわりと理解しつつあったそれぞれのAIの名前と番号が全員一斉に自己紹介(もしくは答え合わせ)のように採決の段階になって明かされる。 (1)BRAIN“脳“だと言うことはここまでで判明しているが、改めてそれも含めて映像で確認しつつ、違和感を覚えていたそれぞれの名前が身体の一部分であることが確認できる。よく考えると(考えなくても)この構成が憎いのだが…。今まではあくまで全員がAIであると思って見てきたものが最後の最後で崩されるシーン。(1)BRAIN だけが残った事、まるで人間のような仕草。ここで感覚的に映像から受け止めた“人間のような仕草“と言うことの定義に悩んだんだけれど。だって今まで他のAI にだって人間的個性と言うものを感じてきたから。なのに、最後のシーンで感じた強烈な人間臭さ。“脱ぐ“と言う概念の人間臭さ。不快感や窮屈さを感じて脱ぐこと、解放される感覚と溜息。この表現に感じる『人間』。今まで他のAIに感じてきたものは、あくまで、それぞれのAIにインストールされた人間の個性であって、最後のシーンで感じる強烈な人間臭さはまた別であることでゾックとさせられる。そして(1)BRAINは『先生』だった?“脳“ってそういうこか!となるわけですが。因みに『先生』が『ティーチャー』*教え導く人 ではなく『プロフェッサー』*何かを極めた人、専門家。…であるので、おそらくこの『先生』はAIの開発者なのではないだろうかと推察される。そして、ここまで考えて、ふと、振り返ると(1)BRAINと(15)HART 2体のAIのディベートが始まる前の会話の中で(1)BRAINが服の首をくつろげる仕草があったり(15)HARTが(1)BRAINに対して「すごく人間ぽい」というセリフがあったりしたなと。

▫️15と云う数字 :
ここで15という数字について。12(1ダース)や他の数字ではなくなぜ15人なのか。ディベート、最低3人“肯定側““否定側““ジャッジ“いれば出来るし、陪審員裁判のディベートは12人。ということは妙に多い15人という数字に意味はあるのか?構成される身体のパーツの数が15である事に意味はあるのか?と考えてみたのですが…。身体のパーツの数として考えるというより、『15』が特別な数字である、と考えた方がしっくりくる気がする。 そういえば『15』で完成される…15こそが完成された数字という一つの考え方があったなと。これかな?と思う興味深い話としては、完璧な数字として考えられている15個の石が配置されている龍安寺の石庭。でもどの庭から見ても「14」しか見えない。どれか1つは他の石に重なって見えないように設計されているらしい。『15』で完成される数字、でも『14』しか見えない“不完全さ“最後の一つの石が『先生』で“ジャッジ“の役割であると考えると『14』という数字で数が合う事。龍安寺の石庭には“不完全“であることを認め、見つめなおすというような意味がある…みたいな説があったかとも思います。それって『人間』でもあり、開発途中(あるいは永遠に完成というものがない)『AI』でもあるなととも思ったり。でも『先生』と『AI』でディベートの場が“完成“する。どちらか片方では完成しない。AI と人間の関係性についてというか、共生についてというか、そんなものについて考えさせられる。“足りないもの“を他者との助け合いで補うという考えがAIと人間でありながらとてもまた“人間臭い”のが良い。

▫そもそもAIの特性とは:
AIにおけるディベートの正体、ディベートの内容と結論の正体について考えてみた。 「集合知」という言葉がある。この映画においてAIはそれ、だと思う。様々な知性、意見を集積し、集めて結論を出す場としてのディベートであり、それそのものが一つのAIであると考えられる。ネットの海で情報を収集し学習し質問に対する結論を導き出すAIのシステムそのものをディベートとして描いている。なので、色々な意見や知識を集積するけれど一つの結論を出すようになってることから、ディベートに敗れたAIは機能停止という表現になっている。しかし、先にも述べたように15の身体パーツで出来ていることからもわかるように15体だけれど15体で一つの身体、『AI』である。『集合知』についても、複数の意見を持っている人達が集まっている集団が、まるでより優れた一つの知性のようなものになる、との考え方がある。私はまだ、AIというものがどういうものかいまいちちゃんと分かっていないけれど、分かっていないなりの解釈をさせてもらった。

▫A Iの人選はどう行われたか:
ここで、あの個性的なAI達の元の記憶の持ち主がどういった基準で集められたのかについて考えてみた。先生が、自分が開発したAIに「人類が存続すべきかどうか」と問いかけたとして、そこからAIは情報収集に入るわけですが、そこには先生の意図は混入されいないはず…無作為でなければならない。ならばどうしてあんな強烈な個性の人達の記憶がディベートの場に呼ばれたのか。おそらくネット上のなんらかのSNSログ等から、過去にそういった話題をした記述がある人達が集められていると単純に考えられるのではと。そう考えると、なんとなく繋がってくるというか…。“一度は自分が住む世界や周りの人達に絶望したことがある“というのが人類の存続について考えるきっかけだったのかな、と。そんな人達が存続賛成派と反対派に分かれてディベートしてるのって、改めて考えてみると面白い。 何よりAIの根幹にある『人間』について改めて思った。

▫ SINGULAというタイトル:
何とも言えず凄いタイトル。AIと人間の境界、AIの思考が人間を超えるのか否か……。
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1 Brain 脳
2 Diaphragm 横隔膜
3 Organs 臓器
4 Sacrum 仙骨
5 Blood血液
6 Pineal 松果体
7 Lung 肺
8 Navel 臍
9 Stomach 胃
10 Colon 大腸
11 Forehead 額
12 Sense 感覚
13 Throat 喉
14 Coccyx 尾骨
15 Hart 心臟
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全15役/spi
原案脚本/一ノ瀬京介
監督/堤幸彦


NAIKON AID2023春(配信)

2023-06-13 12:02:12 | NAIKON AID2023春
【NAIKON AID2023春】 6/2
キャスト :spi、鍛治本大樹、松村泰一郎/横道侑里、ナカヤマムブ、劇団員
 
 
spiさん初めての朗読劇。そしてファーストテイク朗読劇。
 
あらすじの前情報無しに配信で視聴しました。 結果、まず前情報無しで観るの正解だと思いました。主役の時間の流れを追いながらだんだん本題に迫っていく感じなので、1回目は新鮮な気持ちでお話を観る為にも前情報無しの方が、年を経ていく過程に触れる際に、なんとも言う事が出来ない感情の渦に飲み込まれる気がしました。
 
実際にあった事をベースに脚本にしているだけあって、生々しい部分と演劇的な部分とが混濁していて 本当に何とも言えない。配信期間終わるまではストーリー的な部分にはあまり触れないでおこうかと思う。(それでも、配信見る前にこの文章を読まないで欲しいとは思う)
 
 
このお話は、演劇的な部分……フィクションがあることによって少し救いがあると同時に、そのせいで、より、絶望感が深い。 光が横にある事によって生まれる、影と闇の深さが凄い。
光と影的な事で考えると、あのお話において、あえて社会制度について あまり描かずにいた事も良いと言うか……。社会的な政治的な問題の部分を色濃くして脚本を仕上げようと思えば出来たと思うが、していない。 もしかしたら頼ることが出来たかもしれない『社会制度』を敢えて描かない事によって、柔らかくも抉ってくる内容になっていた。すぐ隣にいた『親友』や『恋人』や『仲間』しか描かない事で、頼ることが出来るかもしれないものが、隣に すぐ側にあっても【頼ることが出来ない、出来なかった人】として主人公を仕上げている脚本がグサッと抉ってくる。
 
 
 
余談。
あとこれは……もう私の単なる推し話になってしまうので小声で言うけど、どんどん項垂れていく推しが 余計心を抉るのよ。大きな身体で項垂れていく様が。 変な話、めちゃくちゃ好きなんだけど……ねぇ。すっごい抉ってくるじゃん。好き。泣く。

ミュージカル手紙2022

2023-04-03 21:46:26 | ミュージカル手紙
書きかけで終わっていた観劇ノートを、勿体ないから もう途中のままで良いから残しておこうと思います。
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ミュージカル手紙2022


原作

東野圭吾『手紙』(文春文庫刊)


脚本・作詞

高橋知伽江


作曲・音楽監督・作詞

深沢桂子

演出

藤田俊太郎

出演

村井良大 spi 三浦透子……他


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凄い作品だった。

村井さんもspiさんも、もちろん他のキャストの皆さんも!皆さん素晴らしかった。


でも、最初にちょっと前置きさせて貰うと、私は この作品の弟の直貴君、少し好きになれないのです。

それだけを言ってしまうと誤解を招きそうなのですが。村井さんの演技、素晴らしかったです。と、言うかこの兄弟のバランスが村井さんとspiさんにしか出せない世界だっただろうから余計に。これは、褒め言葉として。

どう説明すれば良いのか……以前、松本清張の原作の映画を観た時に、被害者よりも犯人の方が憐れに思えてしまって そちらに心を寄せてしまった気持ちに似ている…とでも言えば良いのか。罪は重いし消える訳ではないけれど、だからこそ哀しい犯人像が浮かんで来るというか(分かりにくくてすみません)

剛志が憐れで愚かで哀しくなるほどに、弟に対して もどかしい気持ちを抱えてしまうのです。

もちろん、大前提で表の構造として、青天の霹靂のように 兄のせいで強盗殺人犯の家族になってしまった弟が世の中の残酷さに晒され苦労する話では、あるのですが…。

何と言うか。その、表裏一体の二重構造が物凄いと言うか。1度でも剛志を憐れに思ってしまうと、無条件に弟が可哀想なだけの話では無くなる。藤田さんの演出も凄いのだと思うし、spiさんの剛志が観客にそう思わせてしまう所が本当に凄い。

弟が何処までも弟気質で、周りからの助けや庇護が当たり前に生きて来て、18歳であの事件が起きてもなお、彼の根底の弟気質が変わらない。それが村井さんの役作りによって貫かれれば貫かれる程に兄弟の悲劇が加速していく。由美子や社長は傍で見ていて、とても もどかしい思いを抱いただろうなと。

19歳の頃、最初から恋も夢も諦めてる直貴、逃げてるだけなんじゃないの?って由美子の言葉。兄のせい、にして何も求めなければ、目立たずに世間から隠れるようにしていれば、差別を受けて社会から拒絶される中でも この頃の直貴は少しだけ息がしやすかったのかなと思われる。

でも貴方なら出来ると由美子に背中を押されて通信制で大学に行くことになって、祐輔を通じて出会った仲間と音楽活動をして。この時くらいから兄を避け始める。兄のせいで、色々差別され苦労して我慢してきたと言う思いがあっただろう。そして、兄は自分の代わりに被害者遺族に会いに行って線香を上げて来て欲しい、墓参りに行ってほしい、謝罪の気持ちを伝えて来て欲しいと…繰り返される兄からのこれらの言葉が直貴にとっては重荷だったのだろう。強盗殺人をしてしまったのは自分じゃない。なのに自分が差別され社会から爪弾きにされ…何故自分が被害者遺族の所に行って線香を上げなければならないのか、と言う気持ちがあったのではないだろうか。ただでさえ被害者遺族に逢いに行くのは気が重い事だろう。まだまだ庇護されていたかった(何もなければまだ庇護されている側だった)直貴にとっては、無意識に理由を付けて避けて通ってしまった道なのだろう。裁判の時には、『兄の罪は弟の自分の為に犯した罪だから共にに償っていきたいです』みたいな内容の事を言ったけれど…何処かテストの答案用紙に書く模範解答のようだったし、その後の行動は伴わなかった印象を受けた。もちろん、事件当時まだ18歳だった直貴には、被害者遺族に1人で会いに行く事は全ての勇気を振り絞っても難しかった事だろう。それでも、兄が弟に行って来て欲しいと、言ってしまったのは血の繋がった弟にだからこそ甘えで言ってしまった面もあると思うし家族が弟しか居なかったのもあるだろう。自分が逆の立場なら決死の覚悟をしてでも迷わず行く(それこそ、後に出てくる ひったくり犯の前山の母のように)と言うのも無意識のうちにあるのではとも思う。兄の剛志は想像力と言うものが少し足りない印象を随所で受けるのだが、行って欲しいと伝えたからきっと時間がかかっても行ってくれる、何度も言わなくては、絶対行かなければ…と。彼の果てしない後悔と懺悔に基づき、被害者遺族に毎月手紙を出し弟に線香を上げて来て欲しいと言い…全て手紙を通したやり取りだからこそ相手の顔が見えず押し付けがましいものになる可能性を孕んでいるのだが、そういう想像力は剛志には足りない。そして、ここが重要なのだが劇中に歌われる曲 m4『俺さえ居なければ』とm6『手紙』。

m4 『俺さえ居なければ』自分が居なければ母が死ぬことも無かったし、弟を苦しめる事も無かったと言っていて。母が死んでから(剛志が高校卒業するかしないかくらいの時?)弟の保護者代わりを当然のようにしてきたと思われる兄。しょうもない自身の唯一の存在意義が、保護者である兄としての彼だったと思われるのに『俺さえ居なければ』という思考になる剛志。でも、m6『手紙』に繋がるのだけれど…兄であり保護者であるが故の心が、弟を遺して死ぬに死にきれないという…。m6『手紙』は、自分の心に蓋をして、剛志としては、なるべく暗くならないように直貴が読んで返事し易い話題を選んで書くようにしていったターニングポイントでもある。兄心でありつつも幼い印象を受ける気遣い。直貴に呑気な刑務所暮しと思わせてしまい、すれ違いが加速していく原因でもある皮肉さ。観る回を重ねる毎にこの曲が深く響いた。そんな曲だった。