【全文】長崎 鈴木市長「核廃絶に向け 大きくかじを切るべき」  1/4

2024-08-10 | 日記

[ 2024年08月30日 07時21分 公開 07時25分 更新 ]


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【全文】長崎 鈴木市長「核廃絶に向け 大きくかじを切るべき」  2024年8月9日 13時08分  NHK

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240809/k10014543741000.html



長崎に原爆が投下されて9日で79年です。

国際情勢が緊迫化する中、長崎市の鈴木市長は平和祈念式典の平和宣言で長崎の詩人 福田須磨子さんが綴った詩を引用しながら、核保有国などに向けて「核兵器廃絶に向け大きくかじを切るべきだ」と訴えました。


平和宣言の全文です。


原爆を作る人々よ!
しばし手を休め 眼をとじ給え
昭和二十年八月九日!
あなた方が作った 原爆で幾万の尊い生命が奪われ
家 財産が一瞬にして無に帰し
平和な家庭が破壊しつくされたのだ
残された者は無から起ち上がらねばならぬ
血みどろな生活への苦しい道と
明日をも知れぬ原子病″の不安と
そして肉親を失った無限の悲しみが
いついつまでも尾をひいて行く


これは23歳で被爆し、原爆症と闘いながらも原爆の悲惨さを訴えた長崎の詩人 福田須磨子さんが綴った詩です。

家族や友人を失った深い悲しみ、体に残された傷跡、長い年月を経ても細胞を蝕み続け、様々な病気を引き起こす放射線による影響、被爆者であるが故の差別や生活苦。

原爆は被爆直後だけでなく、生涯にわたり被爆者を苦しめています。

それでも被爆者は「世界中の誰にも、二度と同じ体験をさせない」との強い決意で、苦難とともに生き抜いた自らの体験を語り続けているのです。

被爆から79年。
私たち人類は「核兵器を使ってはならない」という人道上の規範を守り抜いてきました。

しかし、実際に戦場で使うことを想定した核兵器の開発や配備が進むなど、核戦力の増強は加速しています。

ロシアのウクライナ侵攻に終わりが見えず、中東での武力紛争の拡大が懸念される中、これまで守られてきた重要な規範が失われるかもしれない。

私たちはそんな危機的な事態に直面しているのです。

福田さんは詩の最後で、こう呼びかけました。


原爆を作る人々よ!
今こそためらうことなく
手の中にある一切を放棄するのだ
そこに初めて真の平和が生まれ
人間は人間として蘇ることが出来るのだ


核保有国と核の傘の下にいる国の指導者の皆さん。

核兵器が存在するが故に、人類への脅威が一段と高まっている現実を直視し、核兵器廃絶に向け大きく舵を切るべきです。

そのためにも被爆地を訪問し、被爆者の痛みと思いを一人の人間として、あなたの良心で受け止めてください。

そしてどんなに険しくても、軍拡や威嚇を選ぶのではなく、対話と外交努力により平和的な解決への道を探ることを求めます。

唯一の戦争被爆国である日本の政府は、核兵器のない世界を真摯に追求する姿勢を示すべきです。

そのためにも一日も早く、核兵器禁止条約に署名・批准することを求めます。

そして、憲法の平和の理念を堅持するとともに、北東アジア非核兵器地帯構想など、緊迫度を増すこの地域の緊張緩和と軍縮に向け、リーダーシップを発揮することを求めます。

さらには、平均年齢が85歳を超えた被爆者への援護のさらなる充実と、未だ被爆者として認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

世界中の皆さん、私たちは、地球という大きな一つのまちに住む「地球市民」です。

想像してください。
今、世界で起こっているような紛争が激化し、核戦争が勃発するとどうなるのでしょうか。

人命はもちろんのこと、地球環境にも壊滅的な打撃を与え、人類は存亡の危機に晒されてしまいます。

だからこそ、核兵器廃絶は、国際社会が目指す持続可能な開発目標の前提ともいえる「人類が生き残るための絶対条件」なのです。

ここ長崎でも、核兵器のない世界に向けて、若い世代を中心とした長年の動きがさらに活発になっています。

今年5月には、若者版ダボス会議と呼ばれる国際会議「ワン・ヤング・ワールド」の平和をテーマとした分科会が、初めて長崎で開催されました。

世界の若い世代が主役となって連帯し、行動する輪が各地で広がっています。

それは、持続可能な平和な未来を築くための希望の光です。

平和をつくる人々よ!一人ひとりは微力であっても、無力ではありません。

私たち地球市民が声を上げ、力を合わせれば、今の難局を乗り越えることができる。

国境や宗教、人種、性別、世代など違いを超えて知恵を出し合い、つながり合えば、私たちは思い描く未来を実現することができる。

長崎は、そう強く信じています。

原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の誠を捧げます。

長崎は、平和をつくる力になろうとする地球市民との連帯のもと、他者を尊重し、信頼を育み、話し合いで解決しようとする「平和の文化」を世界中に広めます。

そして、長崎を最後の被爆地にするために、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けてたゆむことなく行動し続けることをここに宣言します。

2024年(令和6年)8月9日 長崎市長 鈴木史朗






きょうの個人的な  再 含


松任谷由実 - 深海の街

松任谷由実 深海の街 歌詞  歌ネット
https://www.uta-net.com/song/294530/




Shin (Change) Getter Robo ED1

約束の丘 中瀬聡美&千葉千恵巳 歌詞情報 うたまっぷ
https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=E10864




前川清 長崎は今日も雨だった

長崎は今日も雨だった 歌詞 前川清 ふりがな付 UtaTen
https://utaten.com/lyric/zi15102356/


長崎の今日は晴れだった - 「ナガジン」歌で巡るながさき
https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/050325/index.html



以下個人的な抜粋等です


長崎ちゃんぽん リンガーハット
https://www.ringerhut.jp/


毎日食べたい、ちゃんぽんの名店“5選” - 長崎市公式観光サイト
https://www.at-nagasaki.jp/feature/natsu_champon


皿うどんは学生時代、味の民芸様でアルバイトをしていたときに厨房の揚げ物担当でしたので、注文が入ると麺を油に入れて揚げていました。 たしか、厨房では「 みんさら 」の声で調理に入っていました。(民芸皿うどんの略)

https://www.google.co.jp/search?sca_esv =味の民芸 皿うどん 



皿うどんは、袋に入ったインスタント系ですとかは近くの店へ行けばすぐに手に入ります。

スープは水に溶かして温めるだけですので、手軽に調理することができます。

先日は偶然にも店で複数購入しまして食べたばかりです。

注文すれば料理を提供してくださる全国の各店舗も含めまして、これは恵まれ過ぎているのだろうか。 と思イ。


おすすめ長崎ちゃんぽん・皿うどん9選 現地編集部が徹底調査
https://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000263.aspx



https://ja.wikipedia.org/wiki/カステラ

-
日本におけるカステラは長崎県長崎市が本場とされている。


懐かしいCM 文明堂 カステラ 「文明堂豆劇場」


https://ja.wikipedia.org/wiki/文明堂

文明堂(ぶんめいどう)とは、カステラ、和菓子を製造・販売する老舗。1900年(明治33年)に長崎で中川安五郎が創業し、実弟の宮崎甚左衛門が東京に進出させ、製造革新と斬新な販売、広告によって全国的に知られる暖簾となった。戦後に長崎の総本店から地方支店を経営分離したことにより、「文明堂」と付く企業が複数存在している。



ハウステンボス特集ページ 2024 夏CM動画


https://www.google.co.jp/search?q=ハウステンボス  由来

「ハウステンボス」は、オランダ語で「森の家」という意味です。 Huisが家、boschが森、tenは前置詞です。 現在、オランダの宮殿「パレスハウステンボス」を忠実に再現する許可をいただいたところから命名されました。


https://translate.google.co.jp/?hl =Paleis Huis ten Bosch 
こちらでオランダ語での発音が聞けそうです


https://ja.wikipedia.org/wiki/ハウステンボス宮殿

ハウステンボス宮殿(ハウステンボスきゅうでん)またはハイステンボス宮殿(オランダ語:Paleis Huis ten Bosch、発音: [paːˈlɛis ˌɦœys tɛm ˈbɔs])は、オランダ王室所有の4つの宮殿のひとつでオランダのデン・ハーグ市内にある。2019年から現オランダ国王ウィレム=アレクサンダー一家が居所としている。1981年から2014年までは前女王ベアトリクスが居所としていた[1]。宮殿名の意味は「森の家」。


Googleマップ
https://www.google.com/maps/place/Royal Palace 'Huis ten Bosch' 


同 宮殿内
https://www.google.com/maps/@52.0930929,4.3438671,2a,90y,243.7h,121.86t 




令和5年 長崎くんち~奉納踊り中継~


こうして家で観られてしまうなんて、やはり恵まれすぎている。 とまた。



https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎くんち

長崎くんち(ながさきくんち)、長崎くんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。



https://ja.wikipedia.org/wiki/眼鏡橋

眼鏡橋(めがねばし)は、橋の種類のひとつ。本来はアーチが2つ連なった石造2連アーチ橋を指す。2連アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えることが、その名の由来といわれている。広義では、単アーチ橋や3連以上のアーチ橋も含めた石造アーチ橋全般を眼鏡橋と呼ぶ。また、石造だけでなく煉瓦造のものも眼鏡橋と呼ばれることがある。個別の橋の名称や別称としても用いられる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/眼鏡橋#国の重要文化財

代表的な眼鏡橋

国の重要文化財
-
長崎県

https://ja.wikipedia.org/wiki/眼鏡橋_(諫早市)

眼鏡橋(めがねばし)とは長崎県諫早市高城町の諫早公園内の池に架かる石造二連アーチ橋である。石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定された。


https://ja.wikipedia.org/wiki/眼鏡橋_(長崎市)

眼鏡橋(めがねばし)は、長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球王国だった天女橋を除くと、日本初の石造りアーチ橋である[1][2]。1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定された[3]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/幸橋_(平戸市)

幸橋(さいわいばし)は、長崎県平戸市岩の上町の鏡川に架かるアーチ橋(石橋)。国の重要文化財に指定されている。別名、オランダ橋[1]。



五島の島々の道(1)(長崎県観光)





https://ja.wikipedia.org/wiki/雲仙岳

雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山。半島中央部にある20以上の山々の総称であり[1]、山体の中心部は半島の中央を東西に横断する雲仙地溝内にある[2]。 -


https://ja.wikipedia.org/wiki/雲仙岳#大火砕流の発生

大火砕流の発生
-
6月3日16時8分、溶岩ドーム底部が地すべり的に崩壊を起こし、それまでで最大規模の火砕流が発生した[3]。火砕流は高温爆風(火砕サージ)を伴いながら、谷の出口から真東に進み、火口から約4.3kmの島原市北上木場にまで達した[3]。火砕流は赤松谷川方面にも流れたが、南からの突風で火砕サージは「定点」方面に流れたため、この方面の住民と消防隊員、さらに撮影スタッフもカメラを据え置いて即座に風上に逃げたこともあり難を逃れた[注釈 4]。

一方、火砕流の襲撃を受けた「定点」の報道関係者は不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けてエンジンをかけたまま道路に止めていたものの視界が悪く、 -



https://ja.wikipedia.org/wiki/対馬

対馬(つしま、旧字体:對馬)または対馬島(つしまとう、英語: Tsushima Island)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県(ながさきけん)に属する島で、島全域が対馬市の1島1市体制である。面積は日本第10位で[5]、島内人口は3万470人[6](2019年9月現在)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/対馬#元寇

元寇

鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。元軍の構成は、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人、高麗が建造した艦船900隻といわれた。

元軍は1274年(文永11年)10月5日、佐須浦・小茂田浜に殺到した、この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した(文永の役)。



https://ja.wikipedia.org/wiki/壱岐島

壱岐島(いきのしま)は、長崎県の離島であり、九州と対馬の間に位置する。

概説

『古事記』では「伊伎島(いきのしま)」と書かれ[1]、別名を「天比登都柱(あめひとつばしら)」とも言う[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/壱岐島#中世

中世

中世には大宰府権能の消滅に伴い、松浦党の倭寇の勢力下にあった。

鎌倉時代中期には、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国・高麗により、2回の侵攻を受けた。1回目の文永の役の際には、壱岐の守護代であった平景隆ら百余騎が応戦したものの、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、大きな被害を受けた。2回目の弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けた。なお、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、また台風の影響もあり、元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。



グラバー邸の名はテレホンカードで知りました。 当時そのテレカに書いてあるのを見て、グラバー邸とは何だろうと思っていました。 工場では大量にカードを作っていたようです。


https://ja.wikipedia.org/wiki/グラバー園

グラバー園(グラバーえん)は、長崎県長崎市南山手町8-1にある観光施設である。1859年(安政6年)の長崎開港後に長崎に来住したイギリス人商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築しており、野外博物館の状態を呈している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/トーマス・ブレーク・グラバー

トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。

武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。

維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。


https://ja.wikipedia.org/wiki/トーマス・ブレーク・グラバー#人物

-
薩長が倒幕で使用した武器・弾薬、艦船などの7割近くをグラバーが調達したともいわれる[9]。



https://www.google.co.jp/search?q=グラバー  薩摩 長州  武器 兵器



https://ja.wikipedia.org/wiki/三菱重工業長崎造船所#日本海軍向け

日本海軍向け

通報艦:最上 [I] (長崎での軍艦建造第1号)
防護巡洋艦:矢矧 [I]
戦艦:霧島、日向、土佐(未成)、武蔵
重巡洋艦:古鷹、青葉、羽黒、鳥海、三隈、利根、筑摩
軽巡洋艦:多摩、木曾、名取、川内
航空母艦:天城、笠置(未成)、隼鷹、海鷹(改装工事)
特設航空母艦:春日丸
潜水母艦:迅鯨、長鯨
駆逐艦
  神風型:白露 [I]、白雪 [I]、白妙、水無月 [I]
  峯風型:澤風、矢風、羽風、秋風、夕風
  神風型(二代):神風 [II]、朝風 [II]
  秋月型(乙型):照月、涼月、新月、若月、霜月


https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵_(戦艦)#沿革・艦歴

沿革・艦歴
-
三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦の霧島、伊勢型戦艦の日向、加賀型戦艦の土佐、天城型巡洋戦艦の高雄[9](八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型6万5千トンへの飛躍には、船台拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった[10]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保海軍工廠#建造された主な艦艇

建造された主な艦艇

佐世保工廠では、戦艦・航空母艦・重巡洋艦の新造はなく、改造・艤装のみにとどまる。

巡洋艦

  利根(I) 1910年、佐世保工廠が初めて建造した軍艦。
  筑摩型 3隻中1隻(筑摩(I))
  天龍型 2隻中1隻(龍田(II))
  球磨型 5隻中2隻(球磨・北上)
  長良型 6隻中2隻(長良・由良)
  夕張
  阿賀野型 4隻中3隻(阿賀野・矢矧(II)・酒匂) 商船改造敷設艦箕面を例外として、酒匂は最後に建造された軍艦となった。

潜水母艦

   駒橋 当初は雑役船として建造された。

砲艦
  嵯峨
   鳥羽 河川砲艦のため、竣工直後に浮きドックに搭載して中国大陸に渡り、一度も帰国しなかった。

水雷艇・駆逐艦

  第22号型水雷艇 19艇中7艇(第31号・第32号・第33号・第34号・第47号・第48号・第49号) シーシャウ社製部品の組立を担当。佐世保工廠初の建造艦艇。
  第39号型水雷艇 10艇中5艇(第62号・第63号・第64号・第65号・第66号) ヤーロー社製部品の組立を担当。
  第67号型水雷艇 9艇中3艇(第69号・第70号・第71号) 佐世保工廠初の一貫工程建造艦艇。
  初代神風型 32隻中4隻(夕暮(I)・夕立(I)・三日月(I)・野分(I))
  樺型 10隻中1隻(榊(I))
  フランス海軍アラブ級 12隻中2隻(オーヴァ(Hova)・カビル(Kabyle))
  桃型 4隻中2隻(桃(I)・柳(I))
  楢型 6隻中2隻(槇(I)・欅(I))
  二代神風型 9隻中1隻(第17号→夕凪(II))
  睦月型 12隻中2隻(第19号→睦月・第32号→三日月(II) 「三日月」は初代・二代とも佐世保建造となった。
  吹雪型 24隻中5隻(第40号→東雲(II)・浦波(II)・朝霧(II)・朧(II)・暁(III))
  初春型 6隻中2隻(初春(II)・若葉(II))
  白露型 10隻中2隻(白露(II)・夕立(II)) 「夕立」も初代・二代とも佐世保建造となった。
  朝潮型 10隻中2隻(朝潮(II)・夏雲)
  陽炎型 19隻中2隻(雪風・磯風(II))
  秋月型 12隻中2隻(春月・夏月)

潜水艦

  海中3型 10隻中2隻(第42→ロ24・第43→ロ25) 第43は1924年に龍田と衝突沈没し、再就役したもの。
  海中4型 3隻中2隻(第45→ロ26・第62→ロ28)
  海大3型A 4隻中1隻(第77→イ54(I)→イ154)
  海大3型B 5隻中2隻(イ60・イ63) 1942年の+100を待たず、イ63は衝突事故、イ60は早期戦没で喪失した。
  海大5型 3隻中1隻(イ66→イ166)
  海大6型A 6隻中1隻(イ70) 1941年12月10日、太平洋戦争で最初に戦没したため、+100されていない。
  海大6型B 3隻中1隻(イ74→イ174)
  乙型 20隻中5隻(イ27・イ32・イ34・イ38・イ39)
  乙型改 9隻中2隻(イ43・イ45)
  丙型 8隻中5隻(イ18・イ24(II)・イ46・イ47・イ48)
  特型 3隻中2隻(イ401・イ402)
  中型 18隻中2隻(ロ37・ロ42)
  潜高小型 11隻全艦(ハ201・ハ202・ハ203・ハ204・ハ205・ハ207・ハ208・ハ209・ハ210・ハ216) ハ216は播磨造船建造の第160号海防艦とともに、1945年8月16日竣工の「日本海軍最後の艦艇」となっている。

その他の艦艇

  占守型海防艦 4隻中1隻(八丈)
  鵜来型海防艦 20隻中4隻(宇久・久賀・志賀・伊王)
  第一号型掃海艇 4艇中1艇(第4号)
  神島型敷設艇 2艇全艇(神島・粟島)
  第百一号型輸送艦 3隻(第133号・第140号・第141号)

工作艦

  明石


修繕された主な艦艇

  三笠 1905年(明治38年)9月11日に佐世保港内で爆沈した。翌年8月に浮揚し、1908年(明治41年)4月に修理を完了した。
  肥前 旅順港に着底していたロシア戦艦レトヴィサンを回航し、日本仕様の艦体の改装・兵装の換装を実施した。
  能登呂 1924年(大正13年)、給油艦機能を維持したまま、水上機母艦機能の増設を実施した。
  第四十三潜水艦 1924年(大正13年)に龍田に衝突し沈没、全員殉職。浮揚後の復旧作業を実施した。
  出雲 1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変のために艦隊旗艦設備を溶接で増設。2週間の予定を3日で完工した。
  由良 1932年(昭和7年)、同型艦鬼怒の試験を経て、長良型として初めて呉式カタパルトを制式採用する工事を実施した。
  友鶴 1934年(昭和9年)に発生した転覆事故に際し、乗員救出作業から復旧・復元性改善まで一貫して担当した。
  安宅 1934年(昭和9年)に帰国した際、復元性改善のためのバラスト追加、重油専焼缶への換装、船体延長を実施した。
  加賀 1934年(昭和9年)より1年かけて全通式空母に改装。煙路の変更や居住区の改善などを同時に実施した。
  赤城 1938年(昭和13年)より三段甲板を廃止し、加賀に準じた全通式空母に改装した。
  大鷹 1941年(昭和16年)5月より8月にかけて、長崎造船所で建造途中の春日丸を航空母艦に改造した。
  北上 1941年(昭和16年)8月より9月にかけて、魚雷発射管の換装・増設を実施し「重雷装艦」に改装した。
  最上 1942年(昭和17年)末より翌年春まで、三隈追突の復旧を兼ねて後部甲板の拡張で「航空巡洋艦」化を実施した。
  千歳 1943年(昭和18年)1月より8月の間に水上機母艦より航空母艦に改造。
  北上 1944年(昭和19年)8月より半年間で「回天母艦」へ改装され、クレーンの増設や艦尾スロープへの変更が実施された。


https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:佐世保海軍工廠が建造した艦船



https://ja.wikipedia.org/wiki/三菱重工業長崎兵器製作所

三菱重工業長崎兵器製作所(みつびしじゅうこうぎょう ながさきへいきせいさくしょ)は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで長崎県長崎市に存在した三菱重工業の軍需工場。通称、三菱兵器(みつびしへいき)。工場のあった場所により、三菱兵器大橋工場(みつびしへいき おおはしこうじょう)[1]、三菱兵器茂里町工場(みつびしへいき もりまちこうじょう)と呼ばれた[2]。



https://www.google.co.jp/search?q=佐世保海軍航空基地

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保海軍航空隊

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保海軍航空隊#太平洋戦争時の年譜

太平洋戦争時の年譜

昭和17年1月14日 - 第2師団の輸送船団を門司-高雄間で護衛。以後、門司-台湾間の船団護衛に従事。
昭和17年2月21日 - 済州島沖で昭久丸が被雷戦没。佐鎮部隊水上艦と共同で対潜掃討を実施。
昭和17年3月12日 - 南鳥島に敵機動部隊接近。戦闘機隊を関東に派遣。18日原隊復帰。
昭和17年5月下旬 - 沖縄沖で商船被害続出。飛行艇隊で広域対潜哨戒を実施、戦果なし。
昭和17年5月20日 - 武蔵、呉に向け回航。佐伯海軍航空隊と共同で前路哨戒。
昭和17年9月5日 - 都井岬南方海上で対潜掃討。
昭和18年5月30日 - 五島列島沖で対潜掃討。
昭和18年6月19日 - 済州島沖で対潜掃討。
昭和18年7月21日 - 草垣列島沖で対潜掃討。
昭和19年5月20日 - 「東号作戦」発動。横須賀鎮守府に1個隊派遣、水上戦闘機隊は父島に進出。
昭和19年7月4日 - 父島に敵機動部隊襲来。水上戦闘機隊9機で迎撃、7機喪失。
昭和19年8月1日 - 大村の戦闘機隊を独立拡張、第三五二海軍航空隊開隊。
昭和19年8月26日 - 水偵6機を台湾島東港水上機基地に派遣。
昭和19年10月10日 - 南西諸島に敵機動部隊襲来。指揮下30機を喪失。


https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保海軍航空隊#主力機種

主力機種

歴代の各種水上偵察機。

零式艦上戦闘機 - 戦闘機隊の主力機。主に大村に駐留。
二式水上戦闘機 - 佐世保に常駐した戦闘機隊の主力機。
強風 - 太平洋戦争末期に少数が配備された。
九七式飛行艇 - 太平洋戦争序盤まで佐世保に常駐。
九六式陸上攻撃機
九七式艦上攻撃機
東海
天山 - 少数機が九七式艦上攻撃機とともに使用された。



https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保鎮守府

佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)は、長崎県佐世保市に所在した大日本帝国海軍の鎮守府。通称は佐鎮(さちん)。



https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保要塞

佐世保要塞(させぼようさい)とは、佐世保軍港の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である[1][2]。




ここでタイトルに関連して一度内容を


【内部も詳細】長崎原爆資料館。長崎を訪れる前にぜひ見てほしい!




【全文】長崎 鈴木市長「核廃絶に向け 大きくかじを切るべき」  2/4
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blog.goo.ne.jp/whitsunday (series) , mission_ (series) 期間まとめ Ⅵ 〔6〕   [ 240830更新分 ]
2024-06-19 | 日記
https://blog.goo.ne.jp/mission_x/e/bea73c46df6dcb024095d8dcdbb103e1






第43回  真夜中の虹
http://www.rosetta.jp/fu-un/041116.html



〈 " 禁足地、入るべからず " 〉
http://web.archive.org/web/20130410010329/http://youkey.hanagasumi.net/zatudan/zatudanpage/z-09.html



教訓 222. 悪い言動には悪い報いがある
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/kyoukun222.htm






https://www.google.co.jp/search?q=神社 ライブカメラ 〔 お寺も入っています 〕



地元 鎮守  挿絵 ( postcard ) 

[ 菅原神社 拝殿 / ペン画 上田博昭 様 ] ( 筆者 若干 arrange )




[ 同 鳥居  / ペン画 上田博昭 様 ]



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