人生は旅です ①

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ペルーの謎に包まれた世界遺産 ④

2009-05-14 10:29:30 | 旅行記
6時ホテルを出発ホテルからバスで30分ぐらいポロイ村にあるポロイ駅からビスタドームに乗り、マチュピチュ麓の駅へ向かいました

小さいポロイ村には何もないようで、朝からたくさんマチュピチュへ行くお客さんが集まってきましたまだ早かったのか、霧というか曇っていました

途中からだんだん山のほうが雲が薄くなり、晴れになりそうでしたツアーの親子が丁度私たちと同じテーブルなって、COCA茶を飲みながら、お喋りしました

びっくり、お嬢様のほうはもう3歳から海外旅行に同行して、家族全員が海外旅行に行ったそうで、しかも南極まで行ったそうですびっくりしました。お母さまのほうは年に10回とか、ほとんど毎月海外へ出かけたという私は冗談で「添乗員よりお忙しいですね」と。後ろから見ると姉妹に間違われるかもしれません。モデルさんのような親子でしたこの世界では日本の不況を忘れてしまい、会社が休業したから、海外旅行をしたという話ができません世の中は広い!つぐつぐ感じました3時間ぐらいかかったかな、ほぼ時間通りマチュピチュ麓駅に到着。

売店がたくさん並んでいて、丁度お祭りがあるようで、それからまた乗り合いバスに乗って、マチュピチュ遺跡の入口まで、少し、くねくねした山道を登りつめると

待望の「空中都市」が私の目の前に現れました

天気に恵まれて、DVDの風景を自分の目で確かめることができるなんて!幸せというしかありません!

空中から見たマチュピチュは総面積が5キロ平方メートル、約3分の2の斜面を利用して段々畑の農地となっています。マチュピチュは「老いた峰」という意味だそうです。

15世紀前半、インカ帝国がスペイン軍に征服され、たくさんの都市が壊され尽しました。標高2400Mに造られたマチュピチュはどうやら見つからず、当時のままほぼ完全な状態で残されました「伝説と奇跡の都」とも呼ばれています。

インカ帝国が滅亡してから400年経って、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムが1911年7月14日に草に覆われた段々畑に登り、遺跡を発見したのです。それから長く眠り続けたマチュピチュはやっと目が覚めたようです。世界中で知られるようになりました。インカ帝国の一つの文化と言える石組を作り、当時の生活がそのまま残され、部屋の屋根は藁を使ったようです。実はマチュピチュはよく雨が降るところです今日はよい天気に恵まれ遺跡を全部見て回ることにしました。

美人のガイドさんは分かりやすく、説明してくれましたインカ建築でよく見かける門がありましたが、本来はマチュピチュの市街地への入口で、ここには木の扉が付けられていたようで、王女の宮殿の通路とも言われています。

ここは「陵墓」と呼ばれ、ミイラが安置されていたと言われています。

但し、建物自体がなにに用いられたのかはっきりしないようです「陵墓」の上は「太陽の神殿」になっていて、土台の造りはクスコにあった太陽の神殿によく似ていると言われて、神殿を見上げると東に向いた二つの窓があり、一つの窓は冬至に、もう一つの窓は夏至に太陽の光が入る設計になっているようで、高度な石積技術と言えると思いました。

「太陽の神殿」の隣に2階建ての「王女の宮殿」がありました。ギンガムによると、ここは王女か貴族、また太陽神殿を守る人が住んでいたという。「太陽の神殿」の前方へ進むとマチュピチュの最高点に立つことできます。ここにはインティワタがあります。

角柱は東南西北を指していると、インカは暦を決めるのに、太陽暦を用いたようです。インカ暦により、5月に収穫、6月が太陽祭りで、8月が種まきという。ここの眺めは最高です。正面にインカ道がはっきり見え、快晴の天気だったので気持ちがよい眺めでした。ワイナピチュへ向かうと、一番高いところに3つ窓がある神殿、神聖な広場がありました。

3つの窓には伝説があるそうですタンプ・トッコという3つの穴から8人の兄弟姉妹が湧き出し、その一人が初代皇帝マンコ・カパックとなりクスコでインカ帝国の基礎を築いたという話があるそうです。ワイナピチュへ抜ける入口まで歩いていきました。「聖なる石」を通って、ワイナピチュ(若い峰、標高2690M)へ登る入口がありました。

日本人の若いカップルがワイナピチュに登ったと言ってました日本人グループは年配の方ばかり、やっと若い日本人に出会った感じでした。インカ帝国時代は水を遠い山から持ってくる水路があって、石の溝を伝わって流れてきます。インカ帝国時代から灌漑用水路が管理されていたことが分かりました。

農業がとっても盛んで、太陽の光暦を利用しながら、季節によって、斜面でいろいろ穀物を生産していたそうです。段々畑を見渡すスケールは圧倒されます。当時は玉蜀黍やじゃがいも、コカの葉を作ったそうです。

段々畑はさまざまな用途があって、東側の太陽が当たる畑で農産物を作って、西側の太陽の沈む側は神様へ感謝の捧げものを置く場所として使われたようです。

斜面崩れを防ぐために造られたということもできます。当時は300人から1000人ぐらいがここで暮らしていたのではないかと考えられています。遺跡として残っている太陽を図る石がありました。

冬至と夏至が分かるわけで、インカ帝国の時代の人たちはとっても知恵や知識があったと言えます。また現在もたくさん動物が住んでいて、ビクーニヤがたくさんいました。

たくさんの動物を見ることが出来ました。インカ時代の特徴は文字と紙を持たないことでした。

今日でもマチュピチュは何のために造られたのかはっきり分かっていないということですいろいろ説があり、遺跡の周囲が高さ5メートル、厚さが1,8メートルの城壁で固まれているので、要塞説もあり、マチュピチュの位置は、周りに障害物がなく、作物も作れる恵まれた場所にあるので、神殿だったという説もありますインカ帝国の9代目の皇帝の離宮として作られたという説もあります。

現在でも、謎のままで、はっきり解明されていません美人のガイドさんの話では、ここは雨が多く、普通はこんなに廻って見ることはできません。今日はとっても天気がよく、マチュピチュを全部回りましたよ本当にラッキーというか、二度来る必要はないと思いましたインカ帝国の遺跡が綺麗に残され、こんなに雄大な自然の中を恵まれた天気で、ゆっくり遺跡巡りができるなんて!大満足した有意義な時間を過ごすことが出来ました昼食はマチュピチュ遺跡の入口のところにある唯一のレストランでバイキングランチでした友達はこんなまずい食べ物なんて!不満のようでした。とりあえず、観光客がたくさん来る所なので、観光客向けのレストランなのでしょう。昼食後、乗り合いバスに乗って、マチュピチュ麓駅へ戻り、少し自由時間があったので、駅周辺を散策しました。

3:25分マチュピチュ駅からクスコへ戻り、ピスダドームに乗るころには、みんなはかなり疲れた様子、暴睡したお客さんもいました。だんだん暗くなり、お月様がガラスの天井から見ることができました。

それから車内販売のため、アルパカの毛で作ったセーターなど、ファッションショーが始まりました。みんなが盛り上げり、暴睡したお客さんも目が覚めたようです・・・笑・・・

ホテルでの遅めの夕食になりましたアンデス原産の穀物「キヌア」入りのスープからペルーの伝統的な「ロモ・サルタード」料理でした

キヌアスープはさっぱりしていて、美味しかったです。よく歩いた一日でした。毎朝早起きなので、寝不足な毎日です



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1 コメント

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Unknown (JIYI)
2009-05-18 23:45:05
Unknown
真漂亮!世界文化遗产名不虚传!
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