ブログを完全に消してしまおうかとも思いましたが、恐らくこの国の歴史の節目となるであろう「あじさい革命」の記事のみを残して放置することといたしました。
この20年ほど朝生などを見つつ日本はどうなっていくのか、日本はどうあるべきなのかを考えてきました。
「平成」などという元号とは裏腹に、世界はそして日本は激動の時代に入っていきました。
日本に限ればこの20年間は墜落するかのように右肩下がりに堕ちて行ったように見えます。
政治において2度の政権交代が行われ、さらにはカリスマ的リーダーが現れたにもかかわらず、庶民感覚ではこの国の未来に明るいものが全く見えなかった20年間でした。
そんなとき東日本大震災が発生しさらに最悪の原発事故に至り、この国は深い悲しみに覆われました。
しかし、本当の絶望はその後にもたらされました。
常識的に考えてあれだけの大災害が起これば政府などこの国のトップ層は真面目に復興について取り組むのかと期待したものの、現実は真逆そのものでした。
特に「原子力マフィア」と呼ばれる集団は無能かつ無神経の極みとしか言いようのない事故対応で我々日本人を絶望の淵まで叩き落さんばかりの勢いで暴挙をふるい、今もそれは継続しています。
レベル7の原発事故はこの国の真の病巣をむき出しに暴き出したのでした。
そして「あじさい革命」がやってきました。
今の我々に問われているのは、原発や放射能というよりは恐らく「民主主義」なのでしょう。
言い古された言葉でありますが、我々はそれを十分に理解も実践もしてこなかったように思います。
この20年ほどは選挙を通して政権交代、政治改革、行政改革ほかそれなりに世の中は変革されましたが、何か釈然としない感じでした。
そして原発の問題を通して、議会制民主主義ないし間接民主主義が完全に死滅した実感を持ちました。
選挙もダメ、住民投票もダメ、パブリックコメントもダメ、署名活動ももちろんダメ、国会の空転は当たり前となれば、大規模な抗議デモは必然だったのかもしれません。
ついに官邸前、国会周辺に20万人もの抗議者が現れたのでした。
こういった現象は今の日本に特有のものではなく、アメリカでもヨーロッパでも中国でも中東でも世界中で起こっています。
もっと大きいレベルの世界史的な必然なのかもしれません。
権力者が無能で強欲で極悪だからというよりも、少数のエリートが多数の大衆を導くという図式に限界があるのかな、とも思います。
(間接)民主主義が問われていると同時に国の統治のあり方も問われているのだろうと思います。
なにやら新しい自民党総裁は憲法改正に色めき立っているようですが、私はそれとは全く別の意味で憲法改正レベルで日本の統治機構の根本的改正が必要なのではないかと思い至りました。
ついでに言えば、原発震災を通して社会の木鐸としてのマスメディアの絶滅もはっきりしました。
国民の知る権利の保護のために、マスメディアのあり方について憲法の人権条項に10条くらいの手厚い保護を加えるべきだと思います。
憲法の31条から40条までは戦時中の官憲の異常な取締りの反省から戦後設けられました。
それと同じレベルのものがマスメディアに対して必要でしょう。
この情報化時代、インターネット時代に大本営発表さながらのものを見せ付けられるとは夢にも思いませんでした。
東浩紀さんが何ヶ月か前の朝生で憲法改正試論を述べておられましたが、あの程度では生ぬるいのではないでしょうか。
それから、このまま原子力マフィアの暴走が止まらなければ2度目のレベル7事故があるかもしれません。
そうならないために憲法9条の2として「原子力の放棄」を書き加えたいところです。
無謀な戦争を通して軍部が大日本帝国を滅ぼしたのと同じことを、今、原子力マフィアが行っているのです。
憲法改正についてはほとんど興味もなく必要性の実感も持てなかったのですが、民主主義とともに憲法とはいかにあるべきかについても見えてきたような気がします。
ともあれ、ずっと考えてきた「日本はどうあるべきなのか」の答えの糸口が「あじさい革命」を通して見えてきたように思います。
そういえば、一昨日の朝生では首都圏反原発連合の方が朝生に出演しましたね。
ここらへんでこのブログは終了といたします。
この20年ほど朝生などを見つつ日本はどうなっていくのか、日本はどうあるべきなのかを考えてきました。
「平成」などという元号とは裏腹に、世界はそして日本は激動の時代に入っていきました。
日本に限ればこの20年間は墜落するかのように右肩下がりに堕ちて行ったように見えます。
政治において2度の政権交代が行われ、さらにはカリスマ的リーダーが現れたにもかかわらず、庶民感覚ではこの国の未来に明るいものが全く見えなかった20年間でした。
そんなとき東日本大震災が発生しさらに最悪の原発事故に至り、この国は深い悲しみに覆われました。
しかし、本当の絶望はその後にもたらされました。
常識的に考えてあれだけの大災害が起これば政府などこの国のトップ層は真面目に復興について取り組むのかと期待したものの、現実は真逆そのものでした。
特に「原子力マフィア」と呼ばれる集団は無能かつ無神経の極みとしか言いようのない事故対応で我々日本人を絶望の淵まで叩き落さんばかりの勢いで暴挙をふるい、今もそれは継続しています。
レベル7の原発事故はこの国の真の病巣をむき出しに暴き出したのでした。
そして「あじさい革命」がやってきました。
今の我々に問われているのは、原発や放射能というよりは恐らく「民主主義」なのでしょう。
言い古された言葉でありますが、我々はそれを十分に理解も実践もしてこなかったように思います。
この20年ほどは選挙を通して政権交代、政治改革、行政改革ほかそれなりに世の中は変革されましたが、何か釈然としない感じでした。
そして原発の問題を通して、議会制民主主義ないし間接民主主義が完全に死滅した実感を持ちました。
選挙もダメ、住民投票もダメ、パブリックコメントもダメ、署名活動ももちろんダメ、国会の空転は当たり前となれば、大規模な抗議デモは必然だったのかもしれません。
ついに官邸前、国会周辺に20万人もの抗議者が現れたのでした。
こういった現象は今の日本に特有のものではなく、アメリカでもヨーロッパでも中国でも中東でも世界中で起こっています。
もっと大きいレベルの世界史的な必然なのかもしれません。
権力者が無能で強欲で極悪だからというよりも、少数のエリートが多数の大衆を導くという図式に限界があるのかな、とも思います。
(間接)民主主義が問われていると同時に国の統治のあり方も問われているのだろうと思います。
なにやら新しい自民党総裁は憲法改正に色めき立っているようですが、私はそれとは全く別の意味で憲法改正レベルで日本の統治機構の根本的改正が必要なのではないかと思い至りました。
ついでに言えば、原発震災を通して社会の木鐸としてのマスメディアの絶滅もはっきりしました。
国民の知る権利の保護のために、マスメディアのあり方について憲法の人権条項に10条くらいの手厚い保護を加えるべきだと思います。
憲法の31条から40条までは戦時中の官憲の異常な取締りの反省から戦後設けられました。
それと同じレベルのものがマスメディアに対して必要でしょう。
この情報化時代、インターネット時代に大本営発表さながらのものを見せ付けられるとは夢にも思いませんでした。
東浩紀さんが何ヶ月か前の朝生で憲法改正試論を述べておられましたが、あの程度では生ぬるいのではないでしょうか。
それから、このまま原子力マフィアの暴走が止まらなければ2度目のレベル7事故があるかもしれません。
そうならないために憲法9条の2として「原子力の放棄」を書き加えたいところです。
無謀な戦争を通して軍部が大日本帝国を滅ぼしたのと同じことを、今、原子力マフィアが行っているのです。
憲法改正についてはほとんど興味もなく必要性の実感も持てなかったのですが、民主主義とともに憲法とはいかにあるべきかについても見えてきたような気がします。
ともあれ、ずっと考えてきた「日本はどうあるべきなのか」の答えの糸口が「あじさい革命」を通して見えてきたように思います。
そういえば、一昨日の朝生では首都圏反原発連合の方が朝生に出演しましたね。
ここらへんでこのブログは終了といたします。