ゲーテルの最終定理を上回ってみる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
1)第1不完全性原理
「ある矛盾の無い理論体系の中に、
肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」
2)第2不完全性原理
「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
その理論体系の中で証明できない」
一体全体なんでこんな血迷った事を書いたのか。。
実はFacebookを始めて数年、実際に熱心に使って半年余り。
出てくる投稿があまりにも無意味なものが多いのでふとここに数学的に絶対的なものをもって議論を終結させ、新しい観点に持って行きたいと思ったのです。
最近の宗教は排他的と言うよりはほかの宗教を包括、統一していこうと考えている節があります。しかしある宗教の教えが過去の教えを見て全てを包括しているように見えて実に他の宗教に対しては客観的実践的なアドバイスをしています。
ところが必ずぶつかる一つの問題があります。
それは自分は他の宗教とは違うという観点です。
他のを包括しようが、「自分ところが一番優れている」
と思うのです。ところが、それを自分の所だけでは証明できない。
しかし自分の所が一番優れていると考える事自体は当然なのだ。
自分は他人の体験を本を読んだり話を聞いてしか出来ないのに自分の体験は心の実感として持つことが出来るからである。
だからこそソクラテス自身も無知の知とは言いながらそれを絶対視したので最終的に殺されたとも言える。
何故ならば無知の自覚の無い人も、彼らにとってはそれが絶対であり、一番なのだからソクラテスとの会話はあくまでも自分たち以下の者との会話となるからだ。
だからこそある最近学んだあるHITOTU学のンジェス師は
「宇宙の第一の原因については理解する事は無いのだ」
と言ってしまわれたのでしょう。。
これは昔の非科学的な事は全て神仏魔物のせいだから考えるのは辞めようと言うのとは根本的に異なる。
次元が異なりモデル化も出来ないものに対してはいかなる人間の頭でも言語でも表現することが出来ないと言う意味なのでしょう。
ゲーデルの晩年
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/10/post_eb17.html
大体ゲーデルでもホーキングでも超天才科学者は一時は無神論に偏っても、最後は妻の献身的な愛によって癒され神に還るようである。
女性的な日本が世界を最終的に変えるのは必然のような気がする。
韓国が如何にいい加減で汚くても、中国が如何に残虐で汚くても、日本は全ての世界を愛で包括できる母親的な心情を持つことのできる国であるがゆえに、最終的に彼らの本然の姿を見出し、真っ当に立てることが出来る、、そんな愛を持った国である事を願いかつ、思うのです。
ただ愛は全てを超えるという定義、、これはゲーデルの定理を包括すると思えます。。。
それを愛が一番だと言う定義を愛自身で証明できるか??というのが2)ですが、
どうでしょうか。。。今までかつて証明できなかった人はいないのではないでしょうか?
愛という観点の中では愛が最も優れているという事は証明できないのでしょうか?
いえ、、実は愛と言う概念は理論体系では無い。。全ての物の存在を許し全ての根本に流れる動きであり存在であり力そのもの、、。。
ーーーーーーーーーーーー
パウロの言葉
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。
コリント人への手紙より
つまるところ理論体系だけでは宗教や政治が一つになる事は決してできない。
だからこそそれを一つにするには他の人達よりもより深く愛し苦労した者しか出来ないのだ。
それをまとめたのが
統一原理の復帰の八段階法則となります。
相手を上回る為には相手の僕の僕から相手の信頼を勝ち得て行きます。
もしも相手の方が優れているならば、相手はその自分を上回って僕の僕の位置で自分に尽してくれるでしょう。
すると相手の方が優れている事になりますが、自分が優れているならば、
僕の僕⇒僕⇒養子⇒庶子⇒実子⇒母⇒父⇒王⇒王の王と相手よりも上回っていきます。
宗教者同士の対決もこれを実践してみるとどれが本当の意味で一番かがわかります。
それはどれが愛に於いて一番優れているかがここで実践を持って証明されるからです。
とは言えあくまでもこれは自分が整理した内容なのでこれを凌駕されるにはその方と同じようにお話をしてみなければなりません。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
1)第1不完全性原理
「ある矛盾の無い理論体系の中に、
肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」
2)第2不完全性原理
「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
その理論体系の中で証明できない」
一体全体なんでこんな血迷った事を書いたのか。。
実はFacebookを始めて数年、実際に熱心に使って半年余り。
出てくる投稿があまりにも無意味なものが多いのでふとここに数学的に絶対的なものをもって議論を終結させ、新しい観点に持って行きたいと思ったのです。
最近の宗教は排他的と言うよりはほかの宗教を包括、統一していこうと考えている節があります。しかしある宗教の教えが過去の教えを見て全てを包括しているように見えて実に他の宗教に対しては客観的実践的なアドバイスをしています。
ところが必ずぶつかる一つの問題があります。
それは自分は他の宗教とは違うという観点です。
他のを包括しようが、「自分ところが一番優れている」
と思うのです。ところが、それを自分の所だけでは証明できない。
しかし自分の所が一番優れていると考える事自体は当然なのだ。
自分は他人の体験を本を読んだり話を聞いてしか出来ないのに自分の体験は心の実感として持つことが出来るからである。
だからこそソクラテス自身も無知の知とは言いながらそれを絶対視したので最終的に殺されたとも言える。
何故ならば無知の自覚の無い人も、彼らにとってはそれが絶対であり、一番なのだからソクラテスとの会話はあくまでも自分たち以下の者との会話となるからだ。
だからこそある最近学んだあるHITOTU学のンジェス師は
「宇宙の第一の原因については理解する事は無いのだ」
と言ってしまわれたのでしょう。。
これは昔の非科学的な事は全て神仏魔物のせいだから考えるのは辞めようと言うのとは根本的に異なる。
次元が異なりモデル化も出来ないものに対してはいかなる人間の頭でも言語でも表現することが出来ないと言う意味なのでしょう。
ゲーデルの晩年
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/10/post_eb17.html
大体ゲーデルでもホーキングでも超天才科学者は一時は無神論に偏っても、最後は妻の献身的な愛によって癒され神に還るようである。
女性的な日本が世界を最終的に変えるのは必然のような気がする。
韓国が如何にいい加減で汚くても、中国が如何に残虐で汚くても、日本は全ての世界を愛で包括できる母親的な心情を持つことのできる国であるがゆえに、最終的に彼らの本然の姿を見出し、真っ当に立てることが出来る、、そんな愛を持った国である事を願いかつ、思うのです。
ただ愛は全てを超えるという定義、、これはゲーデルの定理を包括すると思えます。。。
それを愛が一番だと言う定義を愛自身で証明できるか??というのが2)ですが、
どうでしょうか。。。今までかつて証明できなかった人はいないのではないでしょうか?
愛という観点の中では愛が最も優れているという事は証明できないのでしょうか?
いえ、、実は愛と言う概念は理論体系では無い。。全ての物の存在を許し全ての根本に流れる動きであり存在であり力そのもの、、。。
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パウロの言葉
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。
コリント人への手紙より
つまるところ理論体系だけでは宗教や政治が一つになる事は決してできない。
だからこそそれを一つにするには他の人達よりもより深く愛し苦労した者しか出来ないのだ。
それをまとめたのが
統一原理の復帰の八段階法則となります。
相手を上回る為には相手の僕の僕から相手の信頼を勝ち得て行きます。
もしも相手の方が優れているならば、相手はその自分を上回って僕の僕の位置で自分に尽してくれるでしょう。
すると相手の方が優れている事になりますが、自分が優れているならば、
僕の僕⇒僕⇒養子⇒庶子⇒実子⇒母⇒父⇒王⇒王の王と相手よりも上回っていきます。
宗教者同士の対決もこれを実践してみるとどれが本当の意味で一番かがわかります。
それはどれが愛に於いて一番優れているかがここで実践を持って証明されるからです。
とは言えあくまでもこれは自分が整理した内容なのでこれを凌駕されるにはその方と同じようにお話をしてみなければなりません。