大攘夷」(だいじょうい)と言います。
勤王と佐幕の本当の意味
その後、日本の武士は「勤王」(きんのう)、「佐幕」(さばく)という2つの勢力に分かれました。
しかし、これは厳密に「倒幕」派と「幕府」派という意味ではありません。朱子学に影響された当時の武士にとって、幕府そのものが天皇から統治を許可された政権に過ぎないことは常識でした。
つまりほとんどの武士は尊王であり、大攘夷志向だったのです。その中で、幕府を見限った人々が勤王、幕府を中心に日本を再構築しようと考えた人々が佐幕と呼ばれました。
事実、幕府の存続を望む武士も多く、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が1867年(慶応3年)に「大政奉還」(たいせいほうかん:政権を天皇にお返しすること)を行ったのも、徳川家と朝廷が協力して大攘夷を行うことを見据えてのことでした。もちろんその背景には、幕府の政権は徳川家康が天皇家から預かったのだから、返すのが当然という朱子学の影響があります。
水戸学に滅ぼされた徳川幕府