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日本は銀を用いて火薬原料硝石を輸入する一方、短期間のうちに鉄砲製作技術を習得して国内生産に成功した

3)西欧人の日本来航とキリスト教伝来
1540年代になると、中国の福建省・広東省・浙江省の船が日本へと来航し、日本銀が中国南部へと流出するようになった。中国船の来航に伴い、香辛料を求めて1510年にはゴア、1511年にはマラッカへと到達していたポルトガル人が、1543年に日本の種子島へと到達した。
さらに、1549年にはイエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが日本に到達し、東アジアの東端の地においてキリスト教の布教を開始した。
 
4)銀王国日本を代表する石見銀山
1552年、インドのゴアに滞在していたザビエルは、ポルトガルのシモン・ロドリゲス神父に宛てて、スペイン人が日本のことを「銀の島」と呼んでいると書き送っている。当時、品質の良かった石見銀は銀山が所在する佐摩(さま)村の名にちなんで「ソーマ銀」と呼ばれ、東アジアの交易においては最も信用度が高かった。
実際に、16世紀半ばから後半にかけて、欧州で作成された「バルトロメウ・ヴェリュ世界図」、「フェルナン・ファズ・ドラード日本図」、「オルテリウス=ティセラ日本図」などの東アジア地図の中には、記入されている数少ない地名として、石見銀山を「銀鉱山王国」又は「銀鉱山」と図示したものが見られる。当時の西欧人が日本を「銀王国」と見なした背景には、石見銀山から産出する大量で良質の銀が存在したことが窺える。
 
5)東シナ海交易=倭寇(わこう)世界への西欧人参入
16世紀の対中国貿易では私的な貿易が禁止されていたが、東シナ海域では密貿易集団である倭寇を中心に中国や琉球(りゅうきゅう)の商人が活躍し、これに新たにスペイン・ポルトガルの商人が参入することとなった。
 
6)中国による日本銀の吸収








7)海禁政策及び16世紀〜17世紀中国における銀経済への影響
16世紀半ばまでの中国では、貿易を独占するために、政府が海禁政策をとって貿易活動を制限していた。銀の流通を介して著しく盛んとなった交易活動に対して、1550〜1560年代にかけて中国が海禁政策を強化すると、日本人や中国人のみならずスペイン人やポルトガル人の一部も加わって構成された倭寇の海賊活動が最盛期を迎える。その結果、1567年に中国明朝は展海令を発し、海禁令を解除するに至った。
その結果、さらに多くの銀を吸収した中国においては、広大な領域内における遠隔地取引、税制、強大な官僚制など、政治・経済の体制が銀本位制によって支えられることになり、これが明朝(1368〜1644)から清朝(1644〜1912)へと引き継がれていくこととなった。
 
8)東アジアにおける金銀比価の平準化と銀の道の形成










3.国内において果たした役割
1)大内氏の対外交易を支えた石見銀
15〜16世紀における日本最大の対東アジア貿易港は、九州の北端にあって東シナ海と日本海へと通ずる博多であった。戦国大名の大内氏は、博多を中心に中国の明王朝や朝鮮王国との貿易を展開した。16世紀前半期においては、石見銀山とその周辺地域は大内氏によって支配されていた。
博多の貿易商人であった神屋寿禎は1526年に石見銀山を「発見」すると、その銀鉱石を銀山から全長約7.5kmの街道を経て鞆ケ浦の港へと運び、博多に向けて搬出した。その背景には、石見銀山と博多を含み、本州西部から九州北部に至る広い範囲の領土を支配した大内氏の勢力があった。1530〜1540年代における大内氏の対外貿易は、この石見銀山産出の銀によって支えられ、大量の石見銀が東アジアへと流出していった。
 
2)西欧人の来航と技術・文化の到来の契機となった石見銀
石見銀山から東アジアへの銀流出が契機となって、1543年にはポルトガル人が日本に鉄砲をもたらした。それ以後、日本は銀を用いて火薬の原料である硝石を輸入する一方、短期間のうちに鉄砲製作技術を習得して国内生産に成功した。このことが戦術に変化をもたらし、諸大名が割拠して内乱状態にあった日本国内の政治的統一への動きを加速させた。
また、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために初めて日本を訪れた。それ以後、半世紀以上にわたってイエズス会の宣教師らが布教のために日本を訪れ、キリスト教が日本国内に急速に広まっていった。
これらのことは、日本人がそれまで持っていた南アジアから東アジアを中心とする仏教的世界観に変化をもたらすこととなった。
 
3)戦乱期の地域権力を支え天下統一に影響を与えた石見銀山
16世紀前半に石見銀山を支配した大内氏は、内紛の末1557年に滅亡する。大内氏に代わって混乱する石見地方を平定・継承したのは、石見の隣国において戦国大名として成長をとげつつあった毛利氏であった。毛利氏は1562年に石見銀山を含む石見地方の全域を平定し、温泉津の港とこれに通じる街道を銀の搬出路として整備した。これ以後、毛利氏は急速に本州西部に当たる中国地方を平定して成長を遂げた。
1570年代、内乱期の日本にあって最も優勢な大名であった織田信長(おだのぶなが)は、天下統一を目指して、首都があった京都地方に軍事的に進出し、さらに西方に勢力を拡げていた。信長は、新兵器の鉄砲を積極的に導入する一方、統一事業を阻む一部の仏教勢力に対抗するためにキリスト教の布教を容認した。石見産の銀を戦費として用いた毛利氏はこの仏教勢力と提携し、織田信長と10年にわたって軍事的に対抗した。
このように







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