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大友宗麟に関する誤解の最たるもの、奴隷貿易。
ここに来てすぐ、さねえもんに
「大友宗麟って火薬と引き換えに人間50人売り飛ばした人だっけ?」
と聞いたら説明されたのだが、大分県史料と先哲史料大友宗麟と言う本を読んだ限りではそのような話は聞いた事が無いという。
なお大分県史料は33巻。戦国時代に関する書状だけでも8000通以上。
先哲史料大友宗麟は5巻。収録されてる書状は2500通以上あるらしい。
辞書の方がページ数が少ない。
なのに徳富蘇峰という人間が『近世日本国民史』という本で書いた根拠不明な説を曲解して大友宗麟につなげただけの話の方が広まるとは皮肉な話だ。
江戸時代や明治時代のフェイクニュースはいいかげん沈静してもらいたいものである。と、怒った顔で言う。
「だいたい、戦国大名にとって国民は重要な生産力であり戦力でもあるんですよ?仮に国民を他国に売るような統治者がいたら家臣が従うわけがないじゃないですか」
なので伊達家では下人と呼ばれる奴隷に近い人間が逃亡し、自分を売って他国に逃亡しようとしたら、それを斡旋した商人ともども処罰対象にしている。(身売りの日本史のP73)
徹底的な囲い込み政策だ。
そんな中で他国に売られた日本人と言うのは、戦争や貧困で奴隷となった人間を売り買いする日本の奴隷商人が外国人に転売したものだと さねえもんが言う。
「まあ、未発見の書状が見つかれば覆る可能性はありますが、『大航海時代の日本人奴隷』って本でも「大友宗麟が積極的に奴隷貿易に関与したとは言いがたい」と外国の史料を読みこんだ方も結論づけてましたし、可能性は低いです」
強力な後ろ盾を知っている上で『豊後では人身売買は行われていない』とさねえもんは言う。
「1587年に薩摩が豊後に侵攻し、薩摩に50人ほど連行された事がフロイス日本史8巻P266~8にかかれているんですけどね」
1588年の記録でフロイスが聞いた話では、島津軍が捕虜として連行した豊後人が肥後に連れていかれて売却されたが、肥後も飢饉で困窮していてわが身すら養うことすらおぼつかない状態にあったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、島原で40名がひとまとめにされ二束三文で売られたとある。
『これ以外で豊後の記述による奴隷売買が書かれた記述はない』
とさねえもんは断言する。
幕府の御家人である豊後では人さらいなどの犯罪者は厳しく取り締まられていたのか、そんな商売をしなくても硫黄の貿易で国が運営できていたのだろう。
「ただ、その中で一つだけ人身売買に書いてある書状がありました」
そこで登場するのが対馬の書状だ。
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大分県資料26巻P90~には薬師寺文書という九州史で特異な書状がある。
何が特異かというと、書かれた地域がである。
薬師寺というと豊後では津久見の一族が有名だが、こちらの一族は対馬の武士。
宗氏に仕えた一族が湯布院に移住したため大分県の史料として収録されたという。
その文書に以下の文字が並ぶ。
「人のうりくち・かいくち ならびに船の売くち・かい口諸公事等、閤候所也。(=人や船の売買などの雑務への参加を免除する)
仍此旨可被存知之状、如件
文安元年(1444年)11月12日 (宗)貞宗」