マリア 天使祝詞 ロザリオ キリスト教 カトリック 聖書

家康 東南アジアで産出良質の火薬を求めていたと言われている)。



 慶長十七年(1612)頃、長政は駿府の滝佐右衛門・太田治右衛門が船主の貿易船に便乗し、台湾を経由してシャムに渡った。長政が渡海した理由や目的は定かではないが、当時の駿府の環境を見渡せば、その心情はおおよそ察せられる。
 慶長十二年(1607)に徳川家康が大御所として駿府城に在城するようになると、駿府は経済的に一挙に活気づいた。家康は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した後、朱印船制度を定めて海外との交易を奨励していた(一説には、家康は来るべき豊臣方との戦いにそなえ、東南アジアで産出される良質の火薬を求めていたと言われている)。外交政策の中枢が駿府におかれ、朱印状は駿府城から発行された。国際都市の様相を呈す城下には海外雄飛の気運が高まり、駿府の豪商たちも朱印船貿易に関わってゆく。滝佐右衛門、太田治右衛門もそうした商人だった。
 更に家康と共に移住した家臣団は、駿府の文化水準を格段に上げていた。浅間通り周辺には家康を支える優秀な人材が居住した。
 西草深(現在のNHK静岡放送局裏)には林羅山(はやしらざん)の屋敷があり、その界隈は羅山の号「夕顔巷」をとって、夕顔小路と呼ばれた。羅山は徳川家康より四代にわたり将軍の侍講を勤めた儒学者である。家康が駿府城内に設立した図書館「駿河文庫」を管理し、『大蔵一覧』『群書治要』など多くの典籍の刊行を指揮した。これらの書籍の印刷には銅活字を用いた駿河版が使われ、作業には臨濟寺や清見寺の僧が動員された。羅山が晩年に江戸で家塾として開いた昌平黌は、後に官営の学校(=昌平坂学問所)に発展し、武士の学問の礎を築いた。
 宮ヶ崎には前述の金地院崇伝が住んでいた。黒衣の宰相と呼ばれた崇伝は、家康が最も重用した側近であった。宗教顧問であると同時に外交事務を担当して外交文書を起草した。
 彼らは家康の二大ブレーンとして徳川家を支え、二人が起草した「武家諸法度」によって幕府の体制は揺るぎないものとなった。豊臣から徳川へと、時代が大きく回転するその中心が駿府にあった。少年から青年時代にかけての長政は、そうした空気を肌に感じていたのである。

 長政のシャムでの消息は江戸時代には伝聞による立身出世譚ばかりが流布し、「伝説」が一人歩きしていた。しかし昭和の初期、ハーグの公文書館から、長政と同時期にアユタヤに駐在していたオランダ東インド会社の商館長エレミヤス・ファン・フリートの報告(『シャム革命史話』)が発見されたことによって、ようやく長政の事跡が詳細なものになった。
 長政が渡海した頃のシャムは、アユタヤに国都を置くアユタヤ王朝の時代だった。アユタヤは東南アジア交易網の重要な拠点として物産を集積・供給するだけではなく、国際的な東西海路貿易の中継地だった。
 当時の航海は季節風を利用したため、各国の商船は風向きが変わるまで、停泊した交易地に長期間滞在した。十七世紀のはじめまでには、アユタヤの南東に各国の外国人たちが集まる外国人町が作られ、日本人もまた自分たちの町を形成していた。
 日本の朱印船貿易が盛んになる一方で、豊臣残党の浪人や、すでに弾圧が始まりつつあったキリシタンたちも、密かに国外へと脱出していた。こうした日本へ戻れない事情を持つ人々と貿易に関係する商人・船員たちが合流し、アユタヤ郊外の日本人町は最盛期には、千五百人とも三千人とも八千人ともいわれる邦人が在住していた。

 ここで長政は、まず軍事指導者として頭角をあらわす。アユタヤでは多数の日本人がソングタム国王の護衛兵を勤めていた。長政は王の傭兵として日本人義勇軍を指揮し、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍した(象にのった









キリスト教
カトリック
聖書
マリア 天使祝詞 ロザリオ

コルベ
マザー テレサ

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「江戸 オランダ人は積荷満載ポルトガル船襲う 幕府は日本領海内での積荷略奪を禁止」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事