創作集団こるびたる別館

小説置場です。

ひとり暮らしのみんなたち(03)

2022年10月15日 | 小説万来!
フゥくんの考え

 となりの家にいるのは、ばかにんげんであると、ミィくんは言うのだ。
 「ばかにんげんは、ひとり?」とぼくがたずねると、ミィくんは目を丸くして、ぼくをしげしげと見た。信じられないものを見る目つき。
 「ばかにんげんは、ばかにんげん。他になにかある?」
 「いや、何もない」
 ぼくは尻尾を尻に敷いて、下を向いた。ぼくの耳たちも萎れて下を向いたのがわかった。ぼくの視界にはぼくの前脚がふたつ、並んでいる。ふかふかの、銀ねず色の毛が密生した、ぼくのすてきな前脚。眺めているうちにそこに顎を預けて眠りたくなったので、ぼくはそうして目を閉じた。ミィくんがするりと立ち上がって、ベランダに出ていく気配がした。
 ぼくとミィくんはきょうだいなのに、わかりあえない。ミィくんは時々無茶な冒険をする。ベランダを反対側の端まで行ってしまったり、隣のベランダでお腹を見せてごろごろ日向ぼっこをしたり。隣の家の中には、幽霊かばかにんげんか、とにかく何かがいるというのに。危ないよ、とぼくが言っても、ミィくんは「ふうん」と、聞いているような、いないような息を吐くだけだ。ミィくんが出掛けてしばらく帰って来ないと、ぼくは心配になって、台所にいる家のひとのところへ相談に行く。探しに行ったほうがいいんじゃないかとか、呼んだほうがいいのではないでしょうかとか。でも、家のひとはしゃがみ込んでぼくを抱き上げ、首の後ろや背中を撫でて、「フゥくんはかわいい、いい子だねえ」と声をかけてくれるだけ。そうこうするうちにベランダからミィくんが戻ってきて、家のひとの腕の中にいるぼくをちらりと見上げて、そのまま行ってしまう。するとぼくの胸はちくりとする。ぼくは傷つくんだ。さびしいよね、ぼくたちはきょうだいなのに、わかりあえないなんて。さびしいと眠くなるから、ぼくは前脚で目を隠して熟睡する体勢を整える。
 その時、ミィくんがぼくの前脚をひっぱたいて、ぼくを起こすんだ。ぼくはむっとして起き直る。だって失礼じゃないか、いくらきょうだいだって。ところが、ミィくんはすました顔で言う。「隣の家、今、窓が開いてるよ。行ってみたら」
 「ぼくは嫌だよ、きみが行けばいいだろ」
 「こっちはさっき行って確認してきたもの。だから面白いことがあるよって教えてあげたのに」
 それでもぼくがためらっていると、ミィくんは「へえ、怖いんだ?」と言うんだよね。そう言われたら、後に引けないじゃないか。ぼくは決然として立ち上がって、窓の外に出ていく。空に向かって跳び上がる。手すりをつたって隣のベランダに着地する。軽やかに。隣の家の網戸が閉まっていると、ぼくは少しほっとする。それでは中に入れっこないから。ぼくは網戸にそっと近寄って、部屋の中を観察する。手前の部屋は何のけはいもしないけど、奥の部屋には明かりが点いて、何かの影がゆらゆら動いている。ミィくんはばかにんげんはばかにんげんと言うけれど、ぼくはそんな簡単には断定できない。ぼくらの家のひとたちだって、ひとりではなくて三人いる。ばかにんげんが幽霊ではなく、人間の一種だとしても、ひとりなのかはわからない。何度か様子を探って、何人かに分裂しないか、においは同じか、きちんと確かめないと。でも、隣の部屋に何が住んでいるか、そこまでして確認する必要があるかな? とも、ぼくは思う。誰かが住んでいるでいいじゃないか。ぼくらの家のことではないのだし、中に入るわけでもなし。どうして、ミィくんはそんなことに関心を持てるのだろう?
 そう考えたのと、サッシにミィくんのにおいが残っていて、それがそのまま室内に続いているのに気づいたのと、奥のほうでゆらゆらしていた影が一歩近づいて、「あ、キミも来たんだ?」とぼくに呼びかけたのは同時だった。
 ぼくは全身の毛を逆立てて、すっ飛んで逃げた。これは陰謀だ、と心の中で叫びながら。

(了)

ひとり暮らしのみんなたち(02)

2022年10月02日 | 小説万来!
ゆうれい

 隣のベランダは、ぼくが最初に見つけたものだった、と思う。ミィくんはそうではないという。ぼくは、そんなことはないと思うのだが、ミィくんがそう主張するので、そうなのかもしれないという気持ちになってきた。
 それでもぼくは、子どもの頃、心の底に心細さを隠しながら、隣のベランダにひとり佇んでいた時のことを覚えている。隣の部屋のベランダに通じるガラス戸はいつも閉まっていて、埃で汚れていて、中には二重のカーテンがかかっていて、うす暗かった。時々カーテンの隙間から中をのぞくことができたけれども、段ボールや布団や洗濯物や、その他いろんなものが散らかっているだけで、動くもののけはいはなかった。だから、初めて内部で何かが動いているのを見た時、幽霊がいる、とぼくは思ってしまった。
 ミィくんは、隣の部屋には最初からにんげんがいたし、なんならベランダから首を伸ばして物欲しげにこちらを覗きこんでいた、という。でも、今みたいに傍若無人にベランダに洗濯物を干したりはしなかった。
 そうだった。ずっと何年もの間、隣の部屋のガラス戸は閉まっていて、ベランダはだだっぴろいまま放置されていたから、そこはぼくらの家のベランダの続きだったんだ。もちろん、間に仕切り壁があるから、手すりの道を通っていかないといけないけれど。だから、別荘。ぼくとミィくんは、交互に家のベランダを占有する決まりだったから、自分の番じゃない時に外で遊びたくなったら、隣のベランダに行くよりほかはなかった。そういう状況のことを、シュレディンガーの猫、って言うのだとミィくんは主張した。テレビでそう言っていたんだって。ミィくんの言っていたのが正しいか、ぼくは知らない。
 ミィくんは、隣の隣のベランダに時々出てくるご老体をからかって、反撃されて、ものすごい勢いで隣のベランダの隅に追い詰められたりした。ご老体はいつの間にかいなくなって、そう言えば、ぼくは今まで長いこと忘れていたな。ぼくは、隣の家の中をじっと眺めるのが好きだった。最初は暗くてよく見えないのだけれど、目が慣れてくると、だんだん色々なかたちが浮かびあがってくる。音のしないテレビみたいだ。時々奥で何かが動く。ぼくは視線を動かさないようにしながら、そちらをじっと見る。何かはまた動かなくなる。ある時、そいつに二つの目があることに気づいた。そして、目のまわりには顔があった。そいつは暗がりから、ぼくのことをじーっと見ていた。そのことに気づいた時、ぼくは総毛だって、ガラスの前で動けなくなってしまった。かなり長い間、そうやって固まっていたと思う。不意に、暗がりの中の顔がゆらーっと上昇して、ガラスの向こうで、ぐい、と一歩近づいた。ぼくは文字どおり飛び上がった。手すりにジャンプして、うちのベランダに飛び降りて、それだけでは安心できないから、家の中に飛び込んで丸くなった。
 「あ?」
 と、足を投げ出して寝ていたミィくんが、薄目を開けてぼくを見た。ぼくは答えず、必死で耳を澄ませていた。隣のベランダでガラス戸が開く音がした。幽霊は戸口に立って外を眺めている。カチコチ、カチコチ、と、家の時計が鳴っていた。それから、もう少し軽くて騒々しいものが引かれ、幽霊は戻っていった。もう大丈夫だ。
 「隣の家に幽霊がいたんだ」ぼくはミィくんに説明した。ミィくんはぼくを見たが、その目つきでぼくの言うことを信じていないことがわかった。少し考えて、ぼくは言い直した。「違う。足があったから、巨人だったのかも」
 「ふうん」
 ミィくんはするりと起き上がって外に出て行った。手すりに飛び乗り、隣のベランダに降りるかすかな音が聞こえた。ぼくは自分の目がまんまるくなっていることを自覚したけど、つとめてゆっくりと呼吸した。ガラガラと網戸が開く音がした。体重のある存在がガラス戸のところに出てきて、しゃがんだ。いくつかの動きが絡みあう気配をぼくは感じた。やがて、絡みあった動きが唐突にほぐれ、軽い音がして、ミィくんがこちらのベランダに降りたところだった。
 「どうだった?」ぼくは恐る恐るたずねた。ミィくんは元の場所にするりと嵌って、目を閉じた。そして答えた。
 「あれは、にんげん。ばかにんげん」

(了)

ひとり暮らしのみんなたち(01)

2022年09月23日 | 小説万来!
お嬢

 朝、ぼんやり外の音に耳をかたむけていたら、隣のガラス戸が開く音がしたわけ。それから、どすどすペタペタとサンダルを履いてベランダを歩きまわる音。あたしのベランダだけど、まあ、たまには使ってもいいですよと言ってある。それから、じゃらじゃらが始まった。せんたくものを干すのねと思ったので、終わるまで待ってあげた。にんげんと顔突き合わせるなんて、ばかみたいじゃない。
 しばらくして、どすどすペタペタじゃらじゃらがおさまって、でもガラス戸を閉める音はしなかったから、あたしは手摺の道を通って隣のベランダに降りて、開いたままの窓から部屋の中に入った。隣のにんげんはうちとは全然違う。いつもいつも、あちこちにいろんなものが散らかっているし、床はほこりだらけであたしのお腹の毛についたらどうするのだし、ゴミも転がしっぱなしだし。あたしは、うちのひとが隣のにんげんと鼻をつきあわせているのを見るたびに、ちゃんと言ってやりなさいよと忠告するのに、うちのひとも隣のにんげんも、おほほほあはははと言うばかり。種族としてなってないと思う。
 今日は、相変わらず布団は敷きっぱなしだったけど、にんげんはそこにはいなかった。この前は寝ている横を通ってもまったく気づかなくて、帰る時になっていきなり「おわっ」と奇声を上げたので、ほんとうになんて間抜けと思ったのよ。今日は、にんげんは、次の間の時々しゃべる機械の前に座っていて、あたしが通り過ぎようとしたら、目をまんまるにして「おわっ」と声をあげた。あんたが間抜けなのはよくわかっているから、そういうばかみたいな真似はしなくていいと思ったけど、奥のドアが開いていたので許してあげた。
 隣のにんげんはほんとうに頭が悪いので、とにかくドアを閉めたがる。奥のドアなんて、何年も頑として開けようとしなかった。開いている時もあったけど、あたしがそっちに行くタイミングをはかっている間に閉められてしまったり。もう、どうしようもない根性曲がりよ。押し入れやクローゼットもあたしが行くと閉めてしまう。でも、時々は心が痛むらしくて、途中でまた開けて、卑屈に笑ったりするから、よろしい、と言ってあげるためにあたしは中に入るのよ。どこもかしこも、畳んでないぐちゃぐちゃの布切ればっかりだけど。
 今は、あたしがきちんとしつけたから、隣のにんげんは奥のドアをちゃんと開けている。それであたしは奥の間もきちんと確認するってわけ。換気扇から埃が落ちてくるトイレ、未開封の段ボールの荷物がいつも置いてある廊下、あまりきれいには掃除してない洗面所と風呂場、ガラクタ置き場の納戸。昔は探検するのにスリルがあるかもと思ったりもしたけど、汚いだけよね。そして玄関。玄関のドアは閉まったままだった。気がきかないけど、今日はまあいいわ。そっち側、寒いから。あたしが戻ってくると、にんげんはあたしを見て「にゃーん」と言った。にゃーん、よ。いかがでしたか、とか、改善すべきところがありましたら、ではなくて、にゃーん。ほんとうに、なんてばか。
 だからあたしは、そのまま通り過ぎて、うちに帰ったの。とりあえず隣のにんげんがこの夏の間にくたばっていなかったことは確認できたから。

(了)

□読み上げソフトVOICEPEAKによる朗読配信はこちら> https://spotifyanchor-web.app.link/e/p4p9Bfrfztb

午後四時の日射し

2021年05月18日 | 小説万来!

 「自分はそれをずっと昔になくしてしまった」
 男はそう言った、とペトリ・アルマンはリリアナ・エルムフェルドに語った。博物館の展示室でその男と出会った。数年前、一階の現代史のコーナーはうすぐらく、人はほとんどいなかった。中央に、半世紀前のカルロヴィクと称する街の模型がある、それがほとんど唯一の展示品だった。
 そうね、あまりにも古くさくて観光客は誰も立ち寄らない。だからリニューアルしろという指示が、市長じきじきに来た。
 確かにあの部屋はがらんとしていた、だが昔はもっと色々なものが置かれていたのではなかっただろうか。子供の頃、あそこで船室の模型や貨物列車の展示を見たように思うのだが。
 そう、昔はあの部屋の展示はもっと充実していた。ハルトマン造船所に関する展示、工場で作られるさまざまな製品の展示、海運や船舶、つまり海事についても。でも造船所が閉じて、それらは次第にこの街にとって縁遠いものになってしまった。だから少しずつ撤去していったわけ。一階は、カルロヴィクの今について紹介する場所だから。
 街の模型の説明に紙が貼ってあった。半世紀前の、と修正された下にも何枚かあったのだろうね。私がそれを見るともなく眺めていた時、部屋の反対側で展示を見ていたその男がやって来て、傍らに立った。
 港湾地区のあたりに目をやりながら、男は話した。自分の父親がかつて、趣味でこのような模型を作っていたと。父親は造船所に勤めていた。そこで、まずは造船所の敷地から始めた。市街に面した側に正門があり、バス停があり、朝、労働者たちが続々と工場に吸い込まれていく。赤煉瓦の古い工場と管理棟、埋立地に拡張された新工場とドック、そこで作られる船。工場棟の三角屋根を外すと、マッチの軸から作られた機械と、操作する工員たち、次の工程に向かって運び出される部品が見える。部品は最後には船になる。だから、ミニチュアの船を作った。ミニチュアと言っても大きい、何せタンカーだから。
 建造される船だけでなく、入港してくる船も忘れてはいけない。男の母親は港湾事務所で働いていた。船は積荷を運ぶ。バナナを、オレンジを、チョコレートを。そして大量の魚粉。もちろん、工場から運び込まれる機械類もだ。親父は幾つもの倉庫と、コンテナヤードとクレーンを作った。貨物線の線路が港に引き込まれた。その支線が合流する本線を敷かなければいけない。そして、駅が出来た。そして、街。
 「それは、ずいぶんと大きな模型だったに違いない」
 「分割できるようになっていたんだ、幾つかのブロックに」
 男は言った。それでも家の中に収まらなくなった時、親父はコミュニティーセンターの談話室を占拠して仕事を続けた。誰もが納得したかは知らないが、理屈はあった。自分たちの住む都市の模型をコミュニティーセンターに置いて、みんなで眺めるのだ。何がおかしい。旧市街には教会と市庁舎広場、海辺には要塞公園、古い街並みを取り囲む団地群、その中に設置されたテニスコート、運河とボート乗り場、それらをつなぐバス路線…
 不況が街を襲った頃も、男の父親はミニチュアの街を広げ続けていた。彼は退職して、年金生活に入っていたから。だが造船所は体制を縮小した。もはやタンカーは作られなかった。出来高制? 注文もないのに? 男は結婚して、子供が生まれたところだったので、カルロヴィクに見切りをつけ、別の街の別の工場で働き始めた。
 「親父は孫のためにと、造船所の一角をくれたよ。船やクレーンや貨車をつけて。息子が小さい頃はいい遊び道具だった。けれども」
 あるいは屋根裏部屋のどこかに転がっているかもしれない。と彼は呟いた。贔屓目かもしれんし、記憶が美化されているのかもしれんが、こんなのよりもっと丁寧に作ってあったな。
 あなたのお父さんのその他の作品は。晩年は疎遠になって、ちょっとあれな方に行っちまったものだから。と男は言った。ひょっとして団地の談話室とかに残っていたりするのかな。
 私は子供の頃、コミュニティーセンターには街の模型があるものだと思い込んでいましたよ、と彼に告げたと、ペトリ・アルマンは続けた。あれはひょっとすると。
 私たちは連絡先を交換した。彼は息子の家の地下室から、タンカーとクレーンを発見したと連絡して来た。夏、私は彼の住む街を訪ね、ともにその古いおもちゃを眺めた。ところどころ欠けていたが、確かに精巧なつくりだった。アルバムの色褪せた写真の背景に、ミニチュアの造船所が写っていた。冬の間、私は図書館で地方紙の記事をめくって、幾つかの見当をつけた。模型は小学校の資料保存室で一つ、コミュニティーセンターの倉庫で二つ、見つかった。メールを受け取った彼はやって来て、センターの管理人や常連たちから昔の話と今の話を聞いた。私たちはそれぞれの世代の視線で見た街について語りあった。時には通訳を交えながら。彼はそれらを録音して、書き起こした。そしてもう一度。もう一度。それから、ホームセンターで材料を買い込み、失われた街を作り始めた。博物館のあの模型は、厳密には正しくない。ある時彼は言った。あれは半世紀前のカルロヴィクじゃないんだ。半世紀前に計画されたカルロヴィクが所々に混じっているんだ。不況になったせいで増築されずに終わった新工場とか。
 「それで、完成した模型と聞書きを博物館に寄贈したいと?」
 リリアナ・エルムフェルドは添付ファイルを開きながら電話の相手にたずねた。
 彼は、もし資料として役立つならば嬉しい、と。
 「…不正確なことすら気づかれずにほったらかされていた模型の代わりに?」
 それは君たちが判断すればいい。市長の注文もあるのだろうから。電話の向こうのペトリ・アルマンの声はいつものように淡々としていた。それとも、追憶とノスタルジーから現れた過去は、君たちの博物館の収集対象ではない?
 「いいえ。どんなに重い愛のかたちだろうと、資料として扱うことはできるから」彼女はメールを新規フォルダに移動させた。「仲介をお願いできますか?」
 受話器を置いて顔を上げると、窓の向こうで、午後四時の太陽が、新市街の屋根屋根とその先の水平線を黄金色に燃え上がらせていた。その輝きの中では、この瞬間と次の瞬間を繋ぎ合わせ、過去を整えてゆく変わり者たちの存在は、ぎらぎらとした日射しと同じほど、非現実的なのかもしれなかった。(了)

雨の午後

2021年05月03日 | 小説万来!
 港の先の草地まで足を伸ばした午後は雨降りになった。JJはギターをケースにしまい、背中に中指を立てた格好で、市街への道を戻りはじめた。髪を額に張りつかせたランナーがすれ違う。背後から自転車が追い越していった。遠くの空は美術館の古い油彩画のようなクリーム色で、ただカルロヴィクの上空だけが黒い絵具をめちゃくちゃになすりつけたようだ。最初、霧雨に近かった雨は、いつの間にか大粒になり、JJは顔をしかめてフードを引き下ろした。新市街の高層ビルはかすんでいる。草地のあちこちに陣取ってラジオを鳴らしている悪ガキ達の姿は、もうどこにも無い。
 一本道の先に人影が見えた時、JJは、へえ、と思った。その人物は白っぽいパーカーを着て、やや前屈みに、雨足に比べていささかゆっくりと歩いている。散歩していて降られたのか。風邪引かないようにな、おっさん。JJは自分も速度を緩めて相手を観察した。相手は時々立ち止まって何かしている。写真を撮っているな、とJJは思った。その場所には変哲のない杭があるだけだ。誰かがスプレーでFuckとか何とか書きつけている。足元の黄色い小花に露が溜まっていた。
 港湾地区のだだっぴろい駐車場(だと思うが、車が停まっているのをJJは見たためしがない)に出た時、JJは相手に追いついた。相手は何かを撮り終えて歩き出したところだった。JJはそちらを見た。コンクリート壁でビラが濡れていた。あれなやつ。
 「やあ」
 JJは横に回り込んで声をかけた。水たまりに踏み込んだスニーカーがしぶきを飛ばした。
 「やあ」
 相手は、使い慣れたカメラを斜めにかけた鞄にしまいながら振り向いた。その中年の男は濡れたビラのように灰色の肌をしていた。
 「こんな雨の中で写真撮ってるの」
 「ああ、趣味だから」
 「風邪引くよ」
 「君もな」
 二人は足元の水をはじき飛ばしながら、何もない空間を駅の方に向かって突っ切った。駅舎が近づいた時、相手が言った。「君は、時々そこでボブ・マーリーをギターで弾いているのでは?」
 「聴衆がいたとわかって、うれしいよ」
 JJは鼻の頭から垂れてきた雨を啜りながら答えた。相手の鼻先からも滴が垂れていた。
 日曜の午後、目抜き通りの店はみな閉じていたので、二人は裏通りのしけた雑貨屋みたいな食堂に腰を落ち着けた。「酒もあるが」ホットミルクを頼みながら、ペトリ・アルマンが言った。JJは首を振った。「アルコールはやらないんだ」店員がミネラルウォーターのペットボトルを彼の前に置いた。JJは肩をすくめてポテトグラタンを注文した。
 店のテレビが白黒の映像を映している。ちょこまかと早足で動き回る人々。波止場に集う。大きな船が泊まっている。煙突が黒い煙を吹き出す。船の上の人々も波止場の人々も手を振る。船が動き出す。鼻にかかった英語のナレーションが何か言う。場面転換。自動車が忙しなく行き交う。人々も忙しなく行き交う。大きな建物が映し出される。造船所だ。人々はその入り口に吸い込まれていく。工場では人々と機会が忙しなく働いている。場面転換。黒い服を着てシルクハットをかぶった貴顕紳士と着飾った淑女の群れ。背後の公園にはパヴィリオンが建っている。一人が何かを宣言する。人々が一斉に手を叩く。新しい市街、新しい橋、新しい公園を人々は散策する。たなびく旗に書かれた文字は−−カルロヴィク・ヴィネタ大博覧会。場面転換、…
 「君は、起源についてどう思う」
 不意に、ペトリ・アルマンがたずねた。
 「俺たちの先祖が単細胞生物だって話?」
 「例えば、選ばれた民が約束された故郷に帰る、というような」
 JJは肩をすくめた。「さあ。俺はラスタじゃないし」
 相手は口の端を下げ、顎を支える指をひらめかせた。「ボブ・マーリー本人みたいな格好をしているのに」
 「今時、ドレッドぐらい誰だってするだろ」JJは投げやりに声を高めてから、言い直した。「正直なところ、そこら辺よくわからないから弾いてる、みたいなところはあるかな。あんたはどうなのさ」
 店員がホットミルクとポテトグラタンを置いていった。テレビのドキュメンタリーは続いている。いつの間にか二つの戦争が終わった。好景気、建設される団地群、金髪のパパとママとベビーカー、だから金髪の老人達はあのあたりに住んでいるのか、とJJは思う、もはや画面は白黒ではない…
 「私は、若い頃は、自分の起源を求め、そこに属することに熱狂的であるべきだという思い込みがあったね」ペトリ・アルマンは相変わらず指を目の前で開いたり閉じたりしながら答えた。「だが、この街にはたいそうな起源などなかったから、−−アーレ・ハルトマンが造船所を拓くまでここはただの田舎町だったから、いつも何かが欠けたような気分でいたな、ヴィネタ思想に出会うまでは」
 ハルトマン造船所が都市カルロヴィクの雇用と経済と誇りと、全てを支えていたのです。ナレーションが言う、だが、造船不況が都市を一変させます…
 JJは相手の窪んだ眼窩や目の下の隈のあたりを用心深く眺めた。「あんた、駐車場で奴らのビラを撮っていたよね、ヴィネタ民族党なの?」
 「いや」ペトリ・アルマンは即答した。「ヴィネタ民族党は私の頃にはなかった、当時は別の、有象無象のグループがあったんだよ、排外主義というより、ほとんど悪魔主義に片足を突っ込んでいるようなやつとか。いずれにしても、私はどこにも属さなかったし、程なくヴィネタ思想に対する熱も醒めた、神秘めかして伝えられる伝説が、百年程前に作られたものだと知ってからは」
 「足を洗ったってわけ」
 「そう」
 「でも、奴らのビラの写真は撮るんだ」
 「ああ」ペトリ・アルマンは淡々と続けた。「足を洗ったとしても、私たちがヴィネタ思想をあれらの排外主義者たちに繫いだのは事実なのだから、後始末はしないといけない。私には見張ることくらいしか出来ないが」
 彼らはホットミルクを飲み、ポテトグラタンを食べた。
 「見張って、警察に通報を?」
 「自分でビラを剥がすさ、雨が降らない時はね」
 「奴らにバレたら殴られるんじゃないの。俺だったらそうするよ」
 「骨折して入院したことはある」彼は雨音に包まれた通りを見つめた。「おそらくは、私は益体もないことをしているのだろう。だが、夜の闇の中ではものごとは目に見えるかたちを失い、真実がめざめ、うごめき出すと、…ヴィネタ思想のその一節からは、おそらく私はいまだに逃れられずにいる」
 JJは、結局、肩をすくめた。「友達があんたは変わっていると言っていたけど、どうやら本当だね。もしあんたが暇なら、その夜警の話をもっと聞かせて欲しいのだけど」
 そうして薄暮の午後は過ぎていった。雨は止む気配を見せず、石畳を走る透明な流れは排水溝から地下にくだって、都市のあらゆる空隙にそれぞれの音を響かせるのだった。(了)

異聞

2021年04月18日 | 小説万来!
 大広間には暖炉があり、炎が燃えていた。妖精の国の炎は赫赫として熱く、文字どおりに見る者の目を灼き、近づく者の肌を焦がすので、その側に近寄る者はない。それゆえに宴会の夜も大広間は暗く、周囲の柱が反射をうけてぼんやり闇の中から浮かびあがるばかり、闇の底から食器の触れあう音や話し声が泡のようにたちのぼってゆくのである。
 --旅の者です。館のあるじよ、一夜の宿と食事を。
 柱の向こうの、闇が一層うつろに蟠るあたりから声が聞こえた。
 --よかろう、旅の者よ、館のあるじはそなたに庇護を与える。さあ入ってくるがよい。
 ありがたい、という言葉のほうへ、妖精王は炎のあかりを振り向けた。居並ぶ者の間に漣のようにざわめきが広がった。それは、あの男だった。
 「久しいな。今日は何をしに来た」
 「もしお許しをいただけるなら、交易を。西の山脈のコボルトの王があなたの火を求めておられます。対価は」
 旅人にして交易者である者は、鞄からぼろぼろの包みを取り出した。机に置かれた時、何か硬いものがぶつかる音がした。居並ぶ者たちは藍色の輝きを認めた。月夜の川面のごとき青い光を放つ、稀少な鉱石。
 「コボルトの王は、鉱石を精錬するためにあなたの炎が必要なのです」
 「火ならば、」妖精王はそっけなく言った。「それらの石が自ら生み出すであろうに」しかし、妖精王の目は石の光の上に注がれ、動かなかった。
 「されどこの石はとても美しい。西の山脈の王も、あるいは私と同じことを思ったのであろう」
 交易者は黙っていた。広間の者たちも黙っていた。それゆえに王の言葉は闇の中で白い光を放った。
 「さて、この世界では、あるものは等しい価値を持つ別の何かと交換されねばならない。どちらかが得るだけであったり、どちらかが失うだけであってはならぬのだ。だから私は、この鉱石の価値にふさわしくも等しいだけの炎を西の山脈の王に贈ろうと思う。だが、旅の者よ」妖精の王の言葉は白く輝き、交易者の姿を浮かび上がらせた。「そなたは私たちの間で、一体何を得る?」
 「何も。私は旅をしております。一夜の食事と宿を得ながら。それで十分でしょう」
 「そうだ。旅人に食事と宿を与えるのは、家を持つ者の当然の義務だ。だから、私はそなたに何も与えておらぬ。コボルトの鉱石をそなたから得ていながら、だ。そうではないか?」
 居並ぶ者たちは息を呑んだ。今や旅人の姿は、白日にさらされたように誰の目にも明らかに見えた。風雨と泥濘に汚れた外套、くたびれた長靴、頭巾の下の、楽しんでいるようでもあり、冷笑しているようでもある、皺の刻まれた口元。頑丈でもあり、繊細な用のために大事にされているようでもある、指。爪は平らでよく整えられているよう。そして彼らは気がついた。今まで、この男のすがたをこのようにはっきりと見たことはなかったと。そして彼らは、この男が歳月のうちに褐色に変色したその指で竪琴をかき鳴らしながらあの物語りをしたことを、思い出した。
 旅人の喉もとで影が動き、彼が唾を飲んだことを彼らは知った。
 旅人は反論した。「私はこのことであなたから何かを受け取らなければならないとは思いません、王よ。私は旅人であり、あなたから食事を宿を得ています。これまでもそうでしたし、これからもそうでしょう。ですから私はお礼に遠い国の物語をするのです」
 「旅人よ。旅人に食事と宿を与えるのは、家を持つ者の当然の義務だと私は言わなかったか? そなたがそれらに対して何か礼をするには及ばぬのだ。私は歌を歌えぬ物乞いにも等しくそれらを与えるのだから」妖精王は厳しい口調で繰り返した、「だから私は、そなたがコボルトの石をもたらしたことに対し、贈り物をしなければならない、そうだろう? 〈ノルナゲスト〉」
 居並ぶ者たちは、勝負がついたことを知った。〈ノルナゲスト〉と呼ばれた者も、また。彼は低い声でおだやかに言った、「王よ、その名は贈り物というよりは呪いですな」
 妖精王は表情を変えなかった。「私はそなたに贈り物をしたのだ、存分に生かすがよい、客として広間に入り込み、あのように外国の物語りを密輸するのではなく」
 「私は、皆の楽しみのためにあれらの物語りをしたのです」旅人であり交易者であり詩人であった男は主張した。だが、王は肯じなかった。「あれらの物語りは流行り病のように、誰も合意せぬまま、いつの間にか持ち込まれたのだ、そなたによって。そしてあれらの物語に魅せられて、何人もがこの国を出て行った。今やこの大広間が我が一族によって埋め尽くされることは無い」
 「あなたはそのことで私に復讐しようというのか、愚かなことだ」
 「さて、そなたは私の火を受けるか、〈ノルナゲスト〉よ」
 「そういたしましょう、王よ」
 〈ノルナゲスト〉は竪琴を構えて外国の物語りを歌った、あの晩のように。〈ノルナゲスト〉の名にふさわしく、それは、長く、複雑で美しくも恐ろしい物語りだった。居並ぶ者たちは、あらためて語り直されたその物語り、妖精の国にはかりがたい打撃を与えたその物語りに聞き入った。
 そして、全てはあの伝説のとおりになった。
(了)

注:〈ノルナゲスト〉の話
オーラヴ・トリグヴァソンがノルウェー王だった頃、一人の老詩人が宮廷を訪れた。老人はノルナゲストを名乗り、昔の英雄たちの物語を見てきたかのように語り、自分が運命の女神の呪いによって蝋燭の燃え尽きるまでの命とされたこと、それゆえに蝋燭に火を灯すことのなく数百年を生きてきたことを告げた。後に彼はキリスト教に改宗し、王に命じられるまま蝋燭に火をつけたが、蝋燭が燃え尽きた時こと切れたという。

妖精王の微行

2021年04月11日 | 小説万来!
 鏡の中の光景をユングヴィとヨーンは眺めていた。何という混沌だ、と二人は思った。あまりにも多くのものが、目がかたちを捉える前に別の場所に移り、変容していった。いくつもの顔が現れては消えた。まるで霧の朝の川面のように、その正体が見えることは稀だった。霧の無数の粒子、その一つひとつが顔であり、かつその濃淡がまた別の顔をかたちづくってみせるような。それは幻影に過ぎないのだが。
 動かないもの、やや確たるものとしてあるらしき存在も勿論あった。道の石畳、建物の煉瓦、頑丈なクレーン。しかしそれらもまた人に踏まれ、忙しなく行き交う金属の乗り物に絶えず覆いかくされ、あるものは単に人々に忘れられて放置されてきたがゆえにその本性を失い、滲んで、湯気のようにゆらゆらうごめき始めるのだった。ユングヴィはふと、ひと気のない道をさまよう一匹の犬に気づいた。鏡の中の犬は、ユングヴィの目の前でガードレールの足に小便を引っかけた。
 ヨーンが鏡を布で覆った。光景は消え失せた。二人は宮殿の静寂のなかにいたことを思い出した。先ほどまでの耳なりに似たざわめきは、鏡の中から立ちのぼってきていたのだった。
 「大浴場みたいな」
 ヨーンが呟いた。「反響する音、もうもうとした湯気、何も見えやしない、何も聞き取れない、湯船の湯は濁っている。何百人もの人間の垢でね。その汚い水がざぶざぶと排水溝に流れ込む。どぶ川。下水」
 ユングヴィは黙っていた。ヨーンは言い募った。「あそこはそのようなものですよ、一体、あなたはああいうところで生きられると思うのか?」
 「ヨーン、あちらの世界に生きる者たちにとって、この館は見えない都市なのだ。彼らは我々の世界をどのように感じるだろう?」
 「永続するもの、不動にして不壊なるもの、それが我々の世界です」ヨーンはユングヴィが細く開いた布覆いを手で閉ざしながら続けた。「あなたの言うとおり、妖精の国は彼らの目には映らない、彼らの、ほんの自分の目と鼻の先しか見えないまなこには、ここは冷たく、暗く、恐ろしい空虚な場所なのでしょう、ひょっとすると。だがそれが何だと言うのです?」
 「サンドラは、私の弟は、この国に馴染めなかった」
 「水が合わなかったのです、選ばれて連れて来られた者にはまれにあること」ヨーンは自分の乳兄弟であり主君である相手の背にそっと触れた。「弟君のことを気に病んでおられるのか? でもあれはあなたの非ではありません。かれがあちらの世界でなら生きられたとは思いませんよ」
 「誰の非とか、そういう話をしているんじゃない。ただ、サンドラはここで何を思って暮らしていたのだろう、冷たく、暗く、恐ろしい空虚な場所で?」
 「ああユングヴィ、あなたは心乱れている、それは当然のことです。ですがだからと言ってあちらの世界を訪れようというのは」
 妖精の王は答えず、布の端をわずかにめくって、漏れ出る蚊の羽音のようなざわめきに耳を傾けている。
 「あちらの世界は危険です、戻って来られなくなるかもしれませんよ」
 ユングヴィは首を振った。「でも、死にはしないだろう、もし、チェンジリングの伝説が本当なら、…我々妖精の出自の者があちらの世界に送り出されているというのなら」
 ヨーンは声を高めた。「あの汚水溜めのような場所では、あなたは性を失うかもしれない。そうしたらあなたは一体どうなるんです? 何ものでもない存在になって、永遠にあの世界をさまようことになったら」
 彼は立ち上がった相手の背に向かって乞うた、「せめて私を護衛にお連れください」
 「それは駄目だ、ヨーン。おまえはここで私の不在を取り繕ってくれなければ」ユングヴィは振り向いて、乳兄弟の頭を抱いてささやいた。「それが王の乳兄弟である近侍の役目だろう?」
 「ああ、あなたはお人好しすぎる、王の乳兄弟は、王の不在をいいことに権力を奪おうとするかもしれませんよ」
 「それもまた一つの役割だ」ユングヴィはヨーンの額にかるく口づけた。そして、マントを翻す気配とともに消えた。
 ヨーンは布をのけて鏡を見つめた。人間たちの都市が映し出されている。彼はそこにユングヴィの黒い髪を探した。だが勿論、すばやく浮かんでは消えるいくつもの顔は曖昧で、不動にして不壊の宮殿の住人には、あたかも霧の朝の水面のように捉えがたいのだった。
(了)

鴎の影

2020年12月31日 | 小説万来!
 そのフォルダは空だった。当たり前だ、どのフォルダだって作られた時には空なのだから。僕は「新しいフォルダ」を今日の日付に修正した。それから、リリアナ・エルムフェルド、と追記した。
 カルロヴィクは海辺の街だから、街のどこにいても鴎の鳴き声が聞こえる。目の前の運河の上にも数羽が飛び交っている。よく晴れた夏の日だ。周囲の席は夏休みの若者達と観光客でいっぱいだった。たいていは二人組だ。男どうしのことも、女どうしのことも、男女のこともある。十代の少年少女もいるし、白髪の老夫婦もいる。僕の前の椅子は、まだ空いていた。
 僕はメモを呼び出し、この街に滞在している間にしたいと思っている予定の質問を読み返してみた。無意味な、単に気分を落ち着けるためだけの行動だ、今日の打ち合わせには関係ないのだから。身体のうち、多分胃のどこかがちくりと痛んだ。僕のインタビューが相手に与えるかもしれない傷を思った。いや実際には、僕自身の傷口が開くことを恐れていたのかもしれない。
 「エドゥアルト・ターフティさん?」
 テーブルの上に影が落ちて、目をあげると逆光の中に一人の女性が立っていた。第一印象は、太陽のプロミネンスのように輝く金色のほつれ毛だった。僕は立ち上がろうとして、椅子を派手に軋ませた。
 「そうです、メールで連絡を差し上げた…」
 「はじめまして、リリアナ・エルムフェルドです」
 彼女は目尻と口元に皺を寄せ、わずかに笑顔らしきものを作りながら手を差し出した。三十代半ばくらいに見えた。この国の人達は概して無愛想だ。その手を握り返した時、一瞬、腕時計の下に白い切り傷が見えたような気がした。彼女は僕のマグカップを一瞥した。
 「店の人にジェラートをすすめられませんでした? この街のこの夏の名物ということになっているのよ」
 「熱烈にすすめられたのですが、あいにく冷たいものが苦手で」
「そう。観光ツアーに参加してご覧なさい。必ずガイドが街で一番美味しい食べ物として言及するから」
 「鯖サンドとかじゃないんですね」
 「ここは世界中からの移民を受け入れて成長している街だから。アジアの料理もアフリカの料理も、新しい店が出来るたびに、とっかえひっかえ名物になるんです」
 僕は周囲を見回した。カフェでお喋りしている二人組たち、運河沿いの道を散策している二人組たち、彼らの肌の色も髪の色も服装も確かに様々だった。
 「本当に色んな人がいますね。でも、同じルーツの人同士で固まっているような印象も受けます」
 「そうね、色々なルーツの人が暮らしているけれど、まだ融合しているわけではない。多分、全くね」彼女は唐突に本題に戻った。「この街の歴史について調べる手助けが欲しいとうかがいました」
 僕は逆光の中で見極めがたいエルムフェルドの顔を見つめた。「僕がこの街に来たのは音楽祭の取材のためです。そのバックグラウンドとして、舞台となるカルロヴィクについても紹介したいと考えました」
 相手は無言で続きを待っていた。僕は周囲のざわめきを聞いた。半分くらいの人々は、僕には聞き取れない言葉で話していた。信号が変わってバスが発進していった。上空で鴎が鳴いた。切り裂くように。
 「それが公式の理由です。でもそれは図書館やあなたの博物館でこと足りることです。もう一つの理由は、僕の私的なプロジェクトです。十八年前のあの事件について…」
 「十八年前には様々なことがありましたよ」
 エルムフェルドは冷静に指摘した。背後の空が青い。ブルースクリーンのように。陽光が世界を金色に輝かせていた。あの日のように。
 「ヨーゼフ・ヴォルンドによる無差別殺人と一連の災いのことです…」
 不意に世界が暗転した。白いものは黒く、日差しは漆黒に、影の方が明るく見えた。視野が揺れ、胃から甘酸っぱい生ぬるいものがせり上がって来た。エルムフェルドの眉がひそめられるのが見えた。その手が差し伸ばされて、ナプキンを摑んだ僕の手を包んだ。僕は胃液を飲み込んだ。
 「大丈夫?」
 「…すみません。プロなのにぶざまなところをお見せしてしまって。何度もカウンセリングを受けて、もう大丈夫になった筈だったのに」
 「どなたか知り合いが?」
 「従兄弟が巻き込まれたんです。いまだに行方不明のまま。僕の筆名<従兄弟>テッド(テッド・ザ・カズン)の従兄弟は彼から見てのものなんです」
 「十八年は人生の時間で、まだ歴史の時間ではないと思います。無理しないで」
 世界に色と音が戻って来た。誰もがお喋りをしていた。コーヒーを飲んでジェラートを食べていた。鴎が鳴いていた。運河の向こうの建物の壁にバナーがたなびいていた。カルロヴィク・ヴィネタ音楽祭。
 「でも、わからないままにはしたくないんです。あなたが博物館で資料を集めていると…」
 「あなたは音楽祭の期間はこの街に滞在するのでしょう」彼女は僕を直視して続けた。「またそのうち、一緒にお茶をしましょう。そして、あなたが調べたこと、昔の思い出を話しましょう。謎はゆっくり溶かしていけばいい」その手がゆっくり離れていった。「あの事件以来、わたしの妹も帰って来ません」
 昏い穴だ。と僕は思った。だがブルースクリーンは破れなかった。職場に戻るから、とエルムフェルドは立ち上がった。博物館の招待券と私用の連絡先を僕に渡しながら。僕は再び周囲の会話に耳を傾けた。そしてパソコンを開いて書き始めた。

祝祭の夜

2020年11月15日 | 小説万来!
 「私が欲しいのはあれだ。あれを手に入れてくれ」

 *

 首都はいつもの宵のように、きらきらと無数の明かりを身にまとい、多島湾の水面にその光を投げかけている。だが今夜は万聖節の祭り、日が落ちて急激に下がってきた気温もものかは、揺れる街の灯もまた、ひそやかな興奮を隠しきれないように見える。そこに住む人々と同じように。
 人々は思い思いの仮面に顔を隠し、仮装して、いつもよりも心なしか早足に街を行きかう。昼間はカメラを構えた観光客とカモメと野菜売りとベンチに座る老人しかいなかった旧市街は、今は誰も彼も区別できない人の渦が噴水を中心にゆっくり回転している。いつもの夜、スケートボードで疾駆したり大音量の音楽をかけながらダンスの練習に励んでポリ公を目の敵にしている若者たちは、今日はここにはいない。海辺の公園か裏通りの穴場の店あたりでいつもの流儀で遊んでいるか、あるいは今夜ばかりは皆のように、誰でもない者として過ごす夜を楽しんでいるのだろう。街の中心から少し離れた住宅街では、こどもたちがトリックオアトリートの行進を終え、戦利品を携えてそれぞれの家へ戻る時間だ。こどもたちのトリックオアトリートは外来のイベントで、伝統的な慣習ではないと批判する人々もいる。まあどっちだって構わない。そして街の外れ、港湾地区や鉄道車庫、ヴィク川にかかる橋の下などは…ああ、そのような場所にさえ、仮面をつけ、仮装に身を包んだ者が流れて来る。例えば、ヴィク川の河口の岸壁に立ち、対岸を眺めている二人の人物。ともにこれといった特徴のない白い仮面(この季節にどこのスーパーマーケットでも売っている)をかぶり、一人はオベロンの、もう一人は忍びの者(要するに泥棒だ)の格好をして、それぞれのマントが夜風にたなびいている。

 *

 「あれ、とは?」
 泥棒は依頼人にたずねた。彼らの視線の先には暗い川面ごしに、今日は特別に七色に光り輝くウォーターフロント地区の高層ビルやライブ会場、オレンジ色の光を瞬かせる星団のような多島湾の島々がある。
 「この夜景が欲しいのか? あれらの明かりが欲しいのか? それとも…あのお月様を盗んで欲しいと?」
 「我々はお伽話をしている訳じゃない。我々は契約の話をしている」
 仮面の下の依頼人の声は苛立ちを帯びた。
 「お伽話じゃない、そういう依頼もあったのさ。そして俺はちゃんと仕事をした。で、あんたの依頼は?」
 「私が欲しいのは、ハーラルホルム、多島湾を統べる誇り高き女神、この街だ」
 依頼人は即答した。
 「成程。この街を盗んで、あんたに引き渡せばいいんだな?」
 「そうだ。だが、盗むのではない。取り戻すのだ。あの奴ら、言葉も碌に話せないくせに後から後からやって来て自分たちの文化を持ち込む奴ら、安っぽい外来のセールスイベントに乗っかって騒ぐ若い連中、それらを止めもせず傍観している、自分の生活のことしか考えない、あの無責任な市民たちから」
 川向こうから規則正しく響いていた重低音に、ひときわ大きな歓声がかぶさった。ライブは最高潮に達しつつあるのかもしれない。
 泥棒はコンクリートの破片を蹴とばした。
 「俺の仕事は泥棒だ。だから、盗みの仕事なら俺は受ける。だが、単に取り戻すだけなら、俺の仕事じゃないな」
 「奴らに盗まれたものを取り戻すのだ! 我々の正当な権利を」
 泥棒は肩をすくめた。
 「盗まれたものを取り戻したいだけなら、警察に行けばいいさ。盗まれたものを盗み返すと言うなら、俺はやってやるよ。さあ、どっちなんだ?」
 …パパパパパン!
 …ドウン!
 背後からの音が二人の対話を遮った。頭上で閃光が閃く。若者たちが浜辺で爆竹を鳴らし、花火を打ち上げたのだ。
 依頼人は食いしばった歯の間から言葉を吐き出した。
 「もともと我々のものなのに、何故奴らから盗み返さなければいけない?」
 「それなら、元々俺にする話じゃなかった。俺は泥棒なんだから」
 泥棒は依頼人に背を向けて歩き出した。「じゃあな。無駄な時間を使った。お互い、家に帰っておねんねしてた方が良かったな」

 *

 ヴィク川沿いの監視カメラの映像は、河口の広場に若者達が集まりつつあることを示している。ライブが終わる前に占拠しておいて、一晩存分に騒ごうという魂胆だろう。彼らが羽目を外しすぎる前にパトロール隊に連絡しておいた方がいいかもしれない。先刻の二人はもういない。酔いを覚まして帰ったのか、次の店に繰り出したか。

蜉蝣の日

2020年10月31日 | 小説万来!
 「遅れている。約束の時間には間に合いそうにない」
 携帯電話の向こうでトミーが不安げな口調で文句を言った。
 「この天気じゃあな。悪いが、安全運転で行かせてくれ」
 田舎の一本道だが、視界はおそろしく悪かった。世界はまっしろで、自分の車のヘッドライトすらろくに見えない。窓の外に渦まく霧は、吹きつける細かい微粒子になってフロントガラスを曇らせている。バンパーの速度を早めた。洗浄液がものすごい勢いで噴射されてゆく。
 「君はもう、お宅に着いている。というか、昨夜から泊まっていたんだっけな。外に出なければ、家の中は安全だ。そう、そう、大丈夫、彼らはゾンビじゃないだろ…大丈夫…ゾンビじゃない、単に虫下しが必要なだけだ…テレビを消して…インターネットも…回線ごと引っこ抜いちまえ…それから…」
 ぼんやりとした二つの目玉が対向車線にあらわれたかと思うと、ぎりぎりのところをすれ違っていった。俺は携帯電話を肩に強く押しつけた。「何か質問は? トミー」
 さらに十分ほど走ると、斜め前方を指し示す標識が見えた。「ヨードガー通り」ここからは村の砂利道だ。車の腹の下で小石が跳ねる音がして、車体ががたぴし揺れた。何かを押さえていた犬がヘッドライトに驚いて走り去った。俺は舌打ちした。とうに刈り取られた麦畑。裸の木々。その向こうにおそらくは村の教会。砂利道の両側は、どこまでも続く陰鬱な垣根だ。
 その道は、その家の玄関の前で終わった。俺はマフラーをきっちりと巻き、ゴーグルとマスクで顔を覆い、手袋をはめてドアを開けた。ボンネットには蜉蝣の死骸のようなものが降りつもっていた。地面の上にもだ。雪のような、だが雪じゃない。
 車から降りると、台所の方からけたたましい悲鳴が聞こえた。トミーの声だ。玄関の鍵をこじ開けて中に踏み込む。暖かい居間のソファに爺さんが目をむいて倒れ、若い家族たちがその傍らにおろおろと立ち竦んでいた。トミーの虫下しは成功したらしい。
 台所の方で、バンバンと続けざまに何かを叩く音がした。
 「やあ、トミー、お疲れさま」
 床の上に座り込んで本を叩きつけていたトミーは顔を上げてこちらを見た。癖毛が汗に濡れている。
 「叩き…潰したぞ…この、ゴキブリを」
 「ゴキブリじゃないだろ、大事な標本だ、潰すなよ」
 「無理だよ。何にせよろくでもない」
 トミーは額の汗を拭った。俺はその手元の本のページを見た。確かに潰れてはいるが、羽根にQの字の模様が入った虫(バグ)の姿がしっかりと確認できる。「上々だ、新種の陰謀論みたいだな」
 「今年は新種が多いね」
 「選挙の年だからな」俺は外に降りつもる蜉蝣の死骸のようなものを思い浮かべた。腐る前に掃除しないとえらいことになるだろう。でも、それは俺たちの仕事じゃない。俺はトミーをうながして立ち上がった。「さあ、帰るぞ。その本を寄越してくれ」

四季の闘争:追憶と演繹。

2015年08月28日 | 野帳
 秋の統治の開始を告げる新聞を見て、そもそも夏は軍隊を持っていたのだろうかと彼は疑った。彼らの支配はあまりに粗放であり野放図であって、単に猛暑と湿気の檻でもって被支配者を囲って満足しているだけのように思われた。
 梅雨が明けると、人々は街路を避け、建物の中に引きこもった。上空から見た街には人工物ばかりが動いていた。ガラス窓をぴったり閉ざした自動車の群れ、帽子や日傘や、紫外線をさえぎるあらゆる工夫に覆われた女性。夏の支配者はそれを見て、自分たちの統治が成功していること、自分たちに支配される者が従順であることのしるしと受け止めたに違いない。人々が冷房の効いた室内で氷菓子を食べながら夏を呪詛し、秋の訪れを待ちのぞむあいだに。とはいえ、暑さのために人々は戸外で団結する力を失い、夏の檻の中で怠惰に時を浪費していた。だから、夏の統治は効果的ではあったのだ。彼らは地上に降りることなく、実験室のマニュピレーターで地上を支配した。そして、彼らのあらゆる排泄物を(と言っていいと思う。あらゆるところにはびこる腐敗やTシャツの背に浮き出した塩の結晶、五分の間だけ猛烈に降るにわか雨を含めて)地上にたれ流していた。
 夏の人間というのは、肥料を与えられ、葉が茂るにまかせられたキャベツのようなものだと、夏の高い空を思い返しながら彼は考えた。記憶の中の彼の視界には、わきたつ積乱雲がとらえられていたが、地上の人々がその恩恵にあずかるのは宝くじに当たるようなものなのだった。時おりあらわれる台風は、プールの水をかき回すにすぎない。蝉だけがあらわれ、鳴き、はたはたと死んでいった。夏の支配は確かに盤石だった、軍隊を持たずとも。その証拠に彼は、夏の間、夏が軍隊を持つか否かを考えもしなかったではないか。夏の支配者たちは盤石な支配に慣れ、緊張を失い、自身の輪郭をもなくしてしまった。だから、夏とは今や、単に酷暑と湿気の檻にすぎず、広大な天はむやむやと無主のまま放置されている。
 ならば秋の到来とは、被支配者の革命に呼応したものではなく、秋の一方的な侵入であると理解すべきではないか。そしてそれは、無血開城であるはずではないか。彼はそのように考えを進めた。だがラジオは旧支配者を名指しで非難し、切れ切れに届く別の周波数は、夏の虐殺の確かな証拠が発見されたとして秋を告発していた。終わってはじめて、過ぎ去った季節は統治機構と武力を備えた人々の集団のかたちを取り戻すのだった。

四季の闘争:Unveiled

2015年08月28日 | 野帳
 三日三晩続いたざんざん降りの後、秋が空を占領した。濡れた靴、路面に貼りついたチラシとビニル袋、あちらこちらの水溜まりを残して。
 古老たちは昔日をなつかしんだ。勝敗は我々のあずかり知らぬはるか上空でつき、それが地上に知れるのは、ある朝不意に、空気が透明な水のようなものに変わるからだったと。その変容は日射しの色を変え、風をさわやかな、人間的でさえある息吹に変えた。そのひそやかなしるしによって、人々は秋が到来したことを知ったのだった。主婦は家族のために薄物を一枚ずつ余計に用意し、子供たちの腹を覆うタオルケットを少し厚手のものに取り替えた。そして、来たるべき衣替えに向けた計画を胸うちで練った。そのように、ものごとは順を追って進んでいったものだ。
 勿論子供たちは、そして下を向いて歩くことを習いとする者たちは、これまでも、我々の住みかのすぐ傍らで目に見えない戦いが行われていたことを知っている。秋が夏を追いつめ、残兵を掃討する戦いは、虐殺とか皆殺しとかいった苛烈な言葉をあてるのがふさわしい一方的な殺戮であることを。誰もが、その晩夏の風物詩に気づいていたはずだ、誰もが、路上に散らばるあれらの死骸を、飛蚊症の影のように苛々と視界から消そうとするのだから。蝉たちの大量死は、手遅れになってから我々の元に届いた見えない犯罪の(誰も秋空の下ではそのように言わなかったが)、あらわにされた証拠である。
 三日三晩降り続いた雨が上がると、蝉たちの声はとんと絶えた。古老たちは言った、我が国においては、四季はゆるやかに移ろうものだった。朝、通勤の人々は、骨の折れたビニル傘や、片方だけ残された黒い靴、パルプに戻りつつある新聞紙、血や汚れを洗い流されアスファルトに同化しはじめた夏の兵士の遺体などをたくみに避けて通った。古老たちは言った、近頃の雨は夕立ではないのだ、まったくけしからん。

四季の闘争(春の夕暮れ)

2015年03月24日 | 野帳
彼らはどうして目を留めようとしないのかと考える時はある。誰もが戦闘があったことを知っている。ラジオは逐一戦況を報じた。強い風が吹いた日、風向きが変わった次の日には、職場でそのことが話題になる。夜道を歩く者は、冬の軍勢の行軍に一度や二度、行きあって物陰に身をひそめたこともあるだろう。嵐の翌朝、骨の折れたビニル傘に混じって兵士の遺体が横たわっているのにも。
あるいはあまりにも当たり前になってしまったから、皆は目を留めないのだと考えてもみた。このあからさまな虐殺の跡に。だが、銀杏の黄金の葉がいっせいに散る晩秋の一週間には、誰もが大量の落ち葉の山を眺め、犬のようにそこへ分け入り、しっとりとしたその匂いを嗅ぐのではないか? 彼らはそのようにして、暖かい太陽の最後の贈り物を受け取り、準備の整った政権交代を受け入れるのだ。時には交代は暴力的な場合もある。寒気団がぎらぎらした陽光を地上から遮断し、鋭い木枯らしが木々の枝から遁走する機会をうかがっている赤や黄色の葉を切り落としてゆく。それもまた虐殺ではないかと、私の説明に耳かたむけていた友人は言った。ああ、どうして君らはそのように見ようとしないのだろうか。秋は冬に殺されはしない。あれらの色づく葉をよく観察してみるといい。青空に映える黄葉は、しかしその顔をすでに下を向けている。彼らは地球の重力に従うことを望んでいるのだ、地表の下、土の中にもぐりこみ、休養し、力をつけ、再び地上にあふれ返るために。言うなれば、彼らは地上に飽きた。冬の訪れが、彼らののぞみに口実を与える。機会を得て彼らは逃げ出す。木々の枝から。
秋と冬の間にあるものは、計画的な逃走だ、虐殺も隠蔽も存在しない。多くの人が誤解しているのだが、冬は死の季節ではない。勿論、厳しい日々だし、寒さは時に致命的であることを(あまりにもしばしば…)私は知っている。しかし…
私の友人は、私の考えは党派的だと指摘した。私は冬に都合のよい見方をしている、秋の終わりの解釈に見られるようにと。友は、このように考えているのだ、すなわち、厳冬の夜に私が薄着で屋外に放り出されて凍死したら、それは冬が私を殺すのである。そうではない、と私は言った。それは寒さが私に合わなかったのだ。それなら、と友は続けた。春の暖かさが冬の兵士の体に合わなかったわけだ。
違う、違う。私は反論しようとした。その時、目の前に薄い幕のようなものが落ち、激痛が脳を襲った。そして私は思考の道すじを見失ってしまった。

……

冬の兵士を殺害するのは、春の軍隊ではない。彼らは民兵を組織するのだ。…

春の夕暮れ。

2015年03月22日 | 野帳
恩賜公園では空がひろかった。水気をたっぷりと含んだ雲が灰色の影をうっすらとスクリーンに映していた。夕方だった。黒ぐろとした梢の向こうに淡いピンク色が幾重にも続いた。幸福な真珠のように空は色づいていた。ほら、コローの絵のように。
まだ裸の木々がやわらかな逆光のなかにそれぞれの枝を伸ばしてゆくさまを我々は眺めた。枝の先には花芽がふくらんでいる。
氷雨の雫のように。冬を愛する画家が傍らで言った。私は同意した、それらがまさしくそのように枝々の先にとどまっていると。冬の間、樹皮の奥ふかくに縮こまっていたかに見えた生の力は、それでもわずかずつ細い枝をのぼってゆき、いつしかその先端に凝集していることが明らかになるまでになったのだ。あと数日もすれば、次の週末には、桜は咲きはじめるだろう。植物たちの力が空中を充たすだろう。すでに空気は甘かった。どこかで沈丁花が開花したのだ。あたたかな、おだやかな、弥生の夕暮れ。
あれらは実際に氷雨の雫なのだ。険しい顔つきで私の友人は続けた。君はあれだけ沢山いた冬の兵士たちがどこに行ったと思うのか。
冬の軍勢はシベリアに退却していった。一部は捕虜になっただろう。私は適当な答えを返した。大勢はいつの間にか、今思い返すと数日前に決まっていた。占領軍の交代はどの年も不便と不快と多少の災厄を伴った。今は、この夕暮れには思い出したくなかった。
春の連中は捕虜たちを殺害している。冬を愛する画家は告発した。彼らは跡を残すことなくそのようなことをするすべを心得ているのだ、まして冬の兵士たちの体は氷でできているのだから。
友があの寒くて色を失った季節を偏愛していることを私は知っていた。しかしその発言は、この真珠色の世界においてはいささか党派的にすぎると思った。彼があの季節を愛することはいい。しかし、それはあの季節の我々の支配者に肩入れすることとは違うだろう。今は、そのような面倒な議論を友としたくはなかった。ようやく春が来たのだから。むしろ、今考えるべきは、この開放の気分をどの店の、どの酒に繋げるかだ。
自分の案を告げようとして私は振り返った。だが、友の姿はそこになかった。

夜の書物(伝記地区:その3)

2014年11月08日 | ファンタジー
(承前)

さて、丘の下への道ははじめに予想していたほど暗くもなければ、荒涼としていた訳でもなかった。トンネルの壁は漆喰で仕上げたように滑らかな手触りで、土の床は湿っておらず、かと言って埃っぽくもなく、ごみひとつ落ちていない。誰かが日々丹念に掃除をしていることは明らかだった。やがて外気がもはや入ってこないあたりに達すると、あたりは居間のような心地よい暖かさになった。
 目の前に五叉路が現れた時、その一つは太く、先の方からは明かりが漏れ、ざわめきが聞こえた。彼女は迷わずその通路を選んだ。僕はようやく彼女が糸玉を繰ってきたことに気がついた。「地図を作っているの」背後の闇に消える一筋の白を見返しながら彼女は言った。「中は迷路よ。篭りきりになるつもりなら別だけどね」
 道の先は天井の低い、広い部屋になっていた。まず僕の目に入ったのは、無数の修道士だ。少なくとも、修道士に似た格好の人々だ。黒い、二又に分かれた頭巾をかぶり、たっぷりした黒い裾を引いて、前かがみになって忙しなく動き回っていた。彼らは絶えず何かを運び、渡しあっていた。うすい枯れ葉のような、葉脈の標本のようなもの、
 「本のページだ」僕は思わず声を上げた。
 近くにいた一人がこちらに顔を向けた。頭巾の下の顔の半分は短く刈られてはいたが密生した黒い髭に覆われ、影になった目は大きく、きらきら輝いていた。ありていに言えば、立って歩く大きな蟻に似ていた。「今晩はミランダ(つまり、彼女の名前)、この若者は誰かな」
 「航海者ハンノだね」蟻に似た修道士がそう呼んだので、僕は恐縮した。「とんでもない、ただ同名というだけで、かの人物に及ぶべくもありません」
 「しかし、伝記を求めてはるかな旅をしてきた。さて、一体誰の伝記を?」彼、ホルヘは僕らに椅子を勧め、甘い匂いのするミルクのような飲み物を出してくれた。僕は、長年にわたる関心の所在について(君にはとうに承知のことだから、省略しよう)洗いざらい喋り、喉が渇いたので飲み物を飲もうとしたーー忌々しいヘパイストスがカップにペリットを吐き出しさえしなければ。「ほう!」と鳴いて、やつは首を回した。ホルヘ師は顔をしかめてカップの中身を床に捨てた。ミランダの紅の唇はいつもの弓型、彼女はペットを甘やかしている。
 ホルヘ師は言った。彼が言うには、僕の長年にわたる探求の対象、シモン・モンフェールの伝記は目録には存在しない。そしてこれは、次のようなことを意味する。すなわち、モンフェール氏に関する権威ある伝記がいまだ存在しないこと、ただし、これはモンフェール氏の生涯が彼自身や我々にとって無意味であることを意味しないこと、同様に彼に関する資料が存在しないことも意味しない、よって、僕がシモン・モンフェールに関する権威ある伝記の著者となり得る可能性があること、など。



※診断メーカー「図書の国」にインスパイアされた二次創作です。続く。