教科書には載って無い
歴史の話しですので長文になります😆
豊臣家は滅亡したのか?
私ケチ子は歴史を調べる時は
何の根拠も無い都市伝説的な話しは
信用しないのですが、、、
信憑性のある伝説は魅力的なんだよね
豊臣秀吉の時代は安土桃山時代
東洋のルネッサンス時代と思うのは
私ケチ子だけでしょうか?
ルネッサンスとは復興と言う意味で
戦国時代から復興して
雅な時代になって行ったと思うのよね
安土桃山時代は異国船が入港して
南蛮文化と言うものが広がったり
一部の商人達はクリスマスを楽しんだり
(現在のクリスマスとは違うけど)
絢爛豪華な障壁の建物ができたり
(城や神社仏閣も)
庶民も戦乱から解放されて
茶道や花道、浄瑠璃や芝居など
楽しむ余裕も出てきて
庶民は自由のエネルギーに満ちて
今で言ったらバブル時代かな(o^^o)
それが江戸時代に入ると
庶民をエネルギーを押さえ込む
政策になるからね
こんな事から豊臣時代を懐かしく思い
庶民の間に豊臣秀頼や真田幸村(信繁)
後藤又兵衛などの生存説が
生まれて来たのかもしれないね😄
しかし、、、
ただの伝説として納得できない
教科書には載らない歴史があるんだよ(^ ^)
では、その歴史とは、、、
大分県の日出(ひじ)に
豊臣秀頼の嫡男の国松が
生き延びた話しがあってね
これを調べたらただの伝説でなく
真実味が高いんだよ!
この日出は日出藩として
江戸時代初期から明治まで
木下家が居城した地で
この木下家とは
豊臣秀吉の正妻の北政所の兄の家系で
木下家の家系図をみたらわかるけど
北政所 "おね" も兄の木下家定も
杉原家の出で
北政所 "おね" は浅野家に養女に
出てるんだよね
物語では、父の杉原道松が(養子)
戦死したからだとか、、
(確かな証拠は出てません)
兄の家定は豊臣秀吉が出世してから
杉原から木下に名を変えていて
この木下家定の子供達なんだけど
家督は3男の木下延俊が継ぐのだけど
弟には有名な小早川秀秋がいるんだけどね
木下延俊は北政所から一番可愛がられた
甥御なんだよ(^-^)
木下延俊は関ヶ原の戦いの時は
姫路城の城代として姫路城を守ってたけど
優柔不断な弟の小早川秀秋と違い
北政所や正妻の義理の父から
(義理の父は熊本52万石の細川藤孝)
説得されて早々に姫路城を
徳川家康に明け渡し
その功績として
日出3万石を賜り大名になるんだけど
木下延俊から見たら
豊臣家は違い親戚だよね
豊臣秀頼は従兄弟だしね
正妻の実家は肥後熊本52万石
築城の時は肥後熊本藩から
莫大なな援助を得てるから
3万石の城にしては大きいんだよー😃
ここにも身分相応出ない築城をした
謎もあるんだけど、、、
三重の天守閣、、櫓も沢山あり
堅牢な城を築城してるよね
石垣も高く守りに強い城なんだよ
どれも高い石垣なんだよ
石垣の横の空堀
天守閣方面から見た
本丸方面なんだけど
学校や運動場がすっぽり入る
大きな本丸だよね
今は民家が並んでるけど
二の丸後だよ
どんだけ広い城なんだろね
天守閣後からの風景で
遠くには別府湾まで見渡せるよ
本丸横の鐘
当時は時間を知らせてたり
敵が攻めて来た時に鳴らす鐘だよ
今は本丸は小学校になってるから
時間を知らせる鐘になってるよ(^-^)
さて、ここからが、、、
豊臣秀頼の嫡男の国松が
生き延びた話しで
教科書では大阪城落城の時に
豊臣秀頼と母の淀君は
自決したんだけど
城から落ち延びた国松は
徳川側から見つかり殺さたんだけどね
見つかった国松は身代わりだったと
当時から言われていてね
先に書いた木下延俊が
亡くなる寸前の遺言が、、
日出3万石の内
1万石を4男である
木下延由に与えると遺言したと
言われいるのですよ。
この木下延由は(のぶよし)
どうも分からない人で
歳はは木下延俊の嫡男の木下俊治と
同じ歳でね
多分、、木下俊治の母が正妻だったかもね
木下延俊の遺言の時に
3万石の内に1万石を木下延由に
相続させると日出藩が
成り立たないと思い
枕元で遺言をきいた家老の長澤市之丞は
「延由様に相続5千石でございますね」
って大声に言って
嫡男の木下俊治には2万5千石
木下延由は5千石の遺領を相続して
分家となるんだけどね
これは事実で後に家老の長澤市之丞は
(木下延俊の葬儀や相続を済ませて)
主君の遺命を変えた罪は大きいと
遺書を残して切腹して
(遺書は現存してる)
墓は木下家の菩提寺の松屋寺に
歴代藩主の墓の近くにありますよ
この木下家には藩主だけに
一子相伝で口伝してる事があり
その口伝を昭和48年に
木下家18代が口伝内容を公開したんだよ
その内容は、、、
豊臣秀頼の嫡男である国松は
四国経由で薩摩国に渡り延俊
その後に高台院の(北政所)
甥御である日出初代藩主の
延俊が国松を二代弟として
迎え入れ
延俊が亡くなる寸前に
縫殿助を(国松の別名)
延由と改名させ1万石を分地せよ
確かに鹿児島にも
国松を保護したと言う伝説があり
鹿児島弁を作り
隠密の侵入を防ぐようになったとか、、、
鹿児島弁は確かに
土着してた言葉だけでなく
作られた言葉だと言われるよね
まだ木下延由には
不思議な事があるんだけど、、、
その前に
木下家の菩提寺の松屋寺だよ
木下延俊(初代藩主)と
正妻の加賀姫(細川藤孝の娘)の
お墓だよ
全てはこの木下延俊が
知ってたよね
歴代藩主達の墓も沢山あるし
藩士達の多くの墓もあります。
切腹した家老の長澤市之丞の墓も
ありますよ。
秀吉の朝鮮出兵の時に
送られてきた虎の頭蓋骨を
木下延俊が貰い受けて
木下家の家宝にしたのが
松屋寺の宝物館にあります😆
では、、さらに木下延由が国松か
その後の木下延由は、、、
何故、木下延俊が
日出藩3万石の中から
3分の1を分地してまで
延由を大名にする必要が
あったのか?
自分の日出藩を苦境に追い込むかも
しれない事なんだよね
家老が切腹する覚悟で阻止したんだけどね
5千石の分地をもらった延由は
その後に幕府の旗本となり
しかも、上級の旗本寄合席で
参勤交代まで許されていて
特別な待遇を受けているのです。
延由は参勤交代の途中で
亡くなってますから
参勤交代したのは間違いないのですが
旗本が参勤交代を許される事は
待遇は大名と同じ
てか、旗本は江戸からは
基本出れませんよ
しかも、木下延由の参勤交代は
諸大名に課せられる
義務はなくて
参勤交代も強制でも義務でもなく
自発的で
言い換えたら
好きな時に国元に帰っても良いし
何年も帰らなくて江戸で
暮らしても良いって事で
本当に特別待遇ですよね
それに、木下延由の位牌ですが
菱に十文字の家紋
俗名には
木下縫殿助豊臣延由って
書いてあるのです。
豊臣性を名乗る事は
日出藩本家にも勿論許されて無い事で
下手をすると幕府から
お家取り潰しですよね
が、何も咎め無しで
木下延由の家系は
旗本寄合席として明治維新を
迎えているんですよ。
木下延由が国松でないと言う説に
分家した時から
本家の兄弟達と疎遠になり
仲も悪くなり
家臣達も行き来は無くなったと
されてるのが不自然とされてますが
これは説明が出来ます。
いくら豊臣秀頼の嫡男だど
言ってもですよ
2代藩主から言ったら
父親の従兄弟の子供でしょう。
しかも幕府からも特別待遇
2代藩主からみたら
豊臣秀吉より幕府将軍の
家光や家綱ですからね〜
かなりの領地を奪われた感は
あると思いますよ。
確たる証拠がありませんから
今となっては国松生存説に
過ぎませんけど
歴史を推理するには
良い状況証拠ではないですかね〜
ここまで読んだ方は
どう思いますか、、😄
日出と言えば
城下鰈って肉厚な美味しい
鰈が取れて名物になっているんですよ
日出城の直ぐ下の海でしか
獲れないカレイでね
多分海中に温泉が沸いているんだろうね
餌が豊富だから肉厚で
身が締まり江戸時代には
お殿様や一族、また城に招かれた人しか
食べれなかったんだよ
別府湾を見ながら
城下鰈を食べながら
日出の歴史のロマンを楽しむのも
良いかと思いますよ
真衣
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