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宗教を紋切り型で捉える危険
(
ゴンベイ
)
2007-07-04 22:37:29
キリスト教世界は、ユダヤ教>カトリック>プロテスタントと血みどろの逸脱を繰り返した結果、「寛容と相互批判」を獲得したと思われます。
このようなキリスト教的宗教学の立場に寄り添ってイスラム教を見ることは疑問があります。
イスラム教はイスラームといわれる社会そのものの規範の宗教的側面に過ぎず、古代ユダヤ教に匹敵するような中世以前の始原性を強く保っていると思います。イスラム教の宗派というのも新旧キリスト教のような神学的?分離ではなく、氏族社会の抗争というべき面があり、他宗派への転向・他宗教への改宗や棄教それ自体でアウトロー宣言したとみなされイスラムで閉じた世界では死に値することであるとも聞いています。ラシュディ氏の場合、棄教しただけでなく宗祖・預言者であるムハンマドを批判したわけですから、ファトワの有無に関わらず死を与えて当然であるという考え方もできます。(もっとも、吉村作治氏は棄教したようですが、殺されていませんし、エジプトでの発掘を続けています。)
一方、巷間に流布する「コーランか剣か」は十字軍遠征を行ったキリスト教世界が広めたデマであり、実際には「コーランか貢納か剣か」といわれていて、信者にならなくても、貢納(税金)を払っていれば「財産」・「生命」は保証され、ムスリムにとっては、必ずしも異教徒は征服対象ではありませんでしたし、殺すよりも奴隷化(傭兵化)を積極的に選択してきた歴史もあります。
「悪魔の詩」と文明の衝突
(
これお・ぷてら
)
2007-07-06 14:45:39
ゴンベイさんの示唆に富むご指摘をいただきありがとうございます。
難しい問題ですね。
>キリスト教世界は、ユダヤ教>カトリック>プロテスタントと血みどろの逸脱を繰り返した結果、「寛容と相互批判」を獲得した
これはそうだと思います。
サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」というとき、西欧を軸に考えていたかもしれません。
現実に異なる文明が併存している事実があって、しかもゴンベイさんのあげておられる例をとれば、イスラムの世界での改宗や棄教にたいする厳格な姿勢はそれ自体がイスラムのアイデンティティなわけですよね。アイデンティティは他との差異を表すものですから、一方で「死に値する」ものであっても他では「値しない」となる。
だから、実際には普遍化しきれない、互いに独自の思想をかかげることなく、「何かであること」、つまりアイデンティティを捨てよとなる。普遍的なものを追求しようとすればこの姿勢は避けられないのではないでしょうかね。観念的にすぎると思いますが。
Unknown
(
ゴンベイ
)
2007-07-06 17:05:07
ヨーロッパ・キリスト教の系譜は、カント、ヘーゲルで人格神からの超越の動きが始まり、一筋はキルケゴール、他の筋ではニーチェへの流れを通じて、結局キリスト教の尻の青あざをつけてはいますが、実存主義>無神論へと行き着いてしまいました。ここまで到達してこその「寛容と相互批判」獲得かもしれません。
他方で、2006年8月に開催された世界宗教者平和会議 第八回世界大会 -京都-
http://www.wcrp.or.jp/event/japanese/index.html
に出席された前イラン大統領のハタミ師は宗教対立の愚を説いていますし、毎日が血みどろのイラクにいるイスラム指導者の一部にも宗教的寛容さを語る方がいます。昔に戻れば、対十字軍防衛戦争においてもイスラム側では十字軍捕虜を身代金と引き換えに解放している例がありました。イスラムにおいても決して他宗派を認めないというものではありません。
テロはイスラーム原理主義思想のせいなのか?
(
ゴンベイ
)
2007-08-31 10:02:00
日刊ベリタ : 記事 : 一橋大学が世界初の大学総合誌を刊行 特集で「テロ対策は効果薄」と分析 安原和雄
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200707141208286
安原和雄の仏教経済塾 一橋大学が世界初の総合誌を刊行
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-103.html
創刊▽特集:イスラーム、衝突か、融和か
▽テロはイスラーム原理主義思想のせいなのか?
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このようなキリスト教的宗教学の立場に寄り添ってイスラム教を見ることは疑問があります。
イスラム教はイスラームといわれる社会そのものの規範の宗教的側面に過ぎず、古代ユダヤ教に匹敵するような中世以前の始原性を強く保っていると思います。イスラム教の宗派というのも新旧キリスト教のような神学的?分離ではなく、氏族社会の抗争というべき面があり、他宗派への転向・他宗教への改宗や棄教それ自体でアウトロー宣言したとみなされイスラムで閉じた世界では死に値することであるとも聞いています。ラシュディ氏の場合、棄教しただけでなく宗祖・預言者であるムハンマドを批判したわけですから、ファトワの有無に関わらず死を与えて当然であるという考え方もできます。(もっとも、吉村作治氏は棄教したようですが、殺されていませんし、エジプトでの発掘を続けています。)
一方、巷間に流布する「コーランか剣か」は十字軍遠征を行ったキリスト教世界が広めたデマであり、実際には「コーランか貢納か剣か」といわれていて、信者にならなくても、貢納(税金)を払っていれば「財産」・「生命」は保証され、ムスリムにとっては、必ずしも異教徒は征服対象ではありませんでしたし、殺すよりも奴隷化(傭兵化)を積極的に選択してきた歴史もあります。
難しい問題ですね。
>キリスト教世界は、ユダヤ教>カトリック>プロテスタントと血みどろの逸脱を繰り返した結果、「寛容と相互批判」を獲得した
これはそうだと思います。
サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」というとき、西欧を軸に考えていたかもしれません。
現実に異なる文明が併存している事実があって、しかもゴンベイさんのあげておられる例をとれば、イスラムの世界での改宗や棄教にたいする厳格な姿勢はそれ自体がイスラムのアイデンティティなわけですよね。アイデンティティは他との差異を表すものですから、一方で「死に値する」ものであっても他では「値しない」となる。
だから、実際には普遍化しきれない、互いに独自の思想をかかげることなく、「何かであること」、つまりアイデンティティを捨てよとなる。普遍的なものを追求しようとすればこの姿勢は避けられないのではないでしょうかね。観念的にすぎると思いますが。
他方で、2006年8月に開催された世界宗教者平和会議 第八回世界大会 -京都-
http://www.wcrp.or.jp/event/japanese/index.html
に出席された前イラン大統領のハタミ師は宗教対立の愚を説いていますし、毎日が血みどろのイラクにいるイスラム指導者の一部にも宗教的寛容さを語る方がいます。昔に戻れば、対十字軍防衛戦争においてもイスラム側では十字軍捕虜を身代金と引き換えに解放している例がありました。イスラムにおいても決して他宗派を認めないというものではありません。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200707141208286
安原和雄の仏教経済塾 一橋大学が世界初の総合誌を刊行
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-103.html
創刊▽特集:イスラーム、衝突か、融和か
▽テロはイスラーム原理主義思想のせいなのか?