コメント
ちょっと待ってよ
(
masato
)
2006-08-07 19:25:50
みんな田中氏が敗れたことにだけ注目していないか? ルーキーの村井氏は実のところはどうなんですか? ちゃんと県政をやれる人なんですか?
少し時間が経って、「やっぱりあかんかった」では長野県民は笑われるよ。
こちらの視点から展望を教えてください。
「ちょっと待ってよ 」が大事
(
これお・ぷてら
)
2006-08-07 21:12:37
masatoさん、こんばんは。
私は田中氏自ら掘り崩したところが大いにあると思います。ブログにものせたように、冷静に考えると、県民のための施策はかなりやられている。
今回の敗北をとおして、住民とともにというスローガンの重みをすごく感じます。
田中氏には住民自身に考えてもらうような「しかけ」が必要ではなかったかと思っています。これが住民自治の精神でもあると思うのです。そうでなかったために、だから、よけいにトップダウンという受け止めが強いように思います。
いずれにせよ村井氏当選によって歴史がまた、6年前に引き戻される可能性は高いと案じています。
また、遊びにきていただければ幸いです。
国家と自治
(
flatheat
)
2006-08-08 09:36:51
こんにちは。中東戦争が深刻化して世界戦争の危惧される中で、日本という国家の存続が第一に考えられなければならないと思います。自由民主党が第一党として戦後の日本の経済発展を支えてきたのは事実です。現在の少子・高齢化社会の中で教育・福祉の充実だけを考えてはいられません。防衛の充実・消費税増額による予算確保・憲法・教育基本法見直しも課題としてあります。国家の復興という視点で政局を見つめることが重要だと考えます。
国家の復興とは
(
これお・ぷてら
)
2006-08-09 20:41:10
flatheatさん、こんばんは。
私たちは日本に住んでいるので日本という国がどのようになるのか、関心をもつのはいわば当然といえます。
けれど、日本という国がどうなるのかは、東アジアや米国、あるいは他の世界の国々との関係をおいては考えられません。
その意味で日本という「国家の復興」と第一義的に考えるだけでよいのかどうか、私には疑問が残ります。
日本の「復興」は他の世界の国々なしにはありえないと思うのです。
だからこそ中東のいま起きている紛争の平和的解決が重要だと私は考えます。
コメントお待ちしていました
(
flatheat
)
2006-08-09 21:23:04
世界中どの国も、愛国心の教育を重視します。なぜ、日本だけがそれが悪いことのようにされたのか、それがこの数年間の疑問でした。中東の戦争は背後にアメリカの世界戦略があります。一方では、支那・北朝鮮の日本侵略計画があります。この状況で防衛力の削減を言うことは敵に利する行為だと思うのです。アメリカの言いなりにならない真の独立国として日本を再建する道しかないと考えています。
アメリカの言いなりにならない
(
これお・ぷてら
)
2006-08-09 21:53:46
アメリカのいいなりにならない、大賛成です。そうあってほしいものと切に願っています。
しかし、日本には安保条約というものがある。関連して日本とアメリカの地位協定というものがありますよね。そもそも、それを廃棄しないことには事ははじまりません。すぐにも廃棄できる。ここからはじまるのだと私は思います。
同時に、愛国心に関連して、「なぜ、日本だけがそれが悪いこと」とflatheatさんは疑問を呈しておられます。ある意味ではもっともなことですね。
でも、日本は戦後処理をしていない。戦前、戦後をひと続きに考える「連中」がいるということです。戦後補償も、アメリカの傘に下に入ることでうやむやですね。これでは、今の時点で愛国心うんぬんをいってもほとんど響かない、説得力はないということではないでしょうか。
私はここでも、他者にたいするまなざしを強調したいのです。それがないのに、なぜ愛国心などと世界に向かっていえるのでしょうか。他者にたいする想像力がともなってはじめて愛国心ということが理解できると考えています。
すみません、出張中でレスが遅くなりました。
戦前と戦後
(
flatheat
)
2006-08-10 07:16:44
ていねいなコメントありがとうございます。敗戦記念日が近づいてきました。日本は敗戦後、極東軍事裁判によって一方的に戦争犯罪者に仕立て上げられました。戦勝国が戦敗国を裁く国際法上類を見ない暴挙でありました。戦前の文化・伝統を全否定したところから戦後が出発しました。そこに誤りの根本があったと考えるのです。民族が自分たちの歴史と伝統を否定するのは間違いではないでしょうか。歴史は常にその段階において必要なプロセスであり、それがあったから次のプロセスに移行できるのではないでしょうか。日本が大東亜戦争をあそこまで戦ったから戦後のアジア諸国の独立があったのではないでしょうか。それを犯罪であったと言うのなら、アメリカ・イギリスがアジアでしてきたことは、犯罪ではないのでしょうか。アメリカの占領を経て現在に至る日本の戦後の検証を経て独立への道をさぐることが可能だと考えます。
歴史の予定調和
(
これお・ぷてら
)
2006-08-10 09:21:09
私は15年戦争における日本の東アジア諸国での行動を侵略と表現します。
日本の侵略が東アジア諸国の内部にさまざまな矛盾をもたらしたことは明らかでしょう。しかし、ご指摘のようにそれを「日本が大東亜戦争をあそこまで戦ったから戦後のアジア諸国の独立があった」と言い切ってしまうと、それは誤りだと私は考えます。なぜなら、どの国もそれを独立という以上、流血・無血のちがいはあったにせよ、内発的な自国民の運動ぬきにはありませんでした。日本ががんばったから独立がもたらされたというのは、国際的な批判にほとんど耐えられない議論だと率直に思います。
また、flatheatさんのおっしゃる「歴史は常にその段階において必要なプロセスであり、それがあったから次のプロセスに移行できる」という議論に、この意味で、ラップニッツが唱えた予定調和の匂いを感じるのは私だけでしょうか。歴史は神のみぞ知る? あるいは歴史はすべて正しいということにつながってしまいますね。
いずれにせよ、ほかのエントリーでのべていますが、私は「アイデンティティーの強調」で平和は決してもたらされないという立場をとりたいと思います。
すばやいコメントありがとうございます
(
flatheat
)
2006-08-10 09:58:17
立場を超えた冷静な対話を心がけられる姿勢に敬意を表します。大東亜戦争が日本のアジア侵略戦争であったというのが極東軍事裁判の判決であり、戦争を中心的に進めた軍人が戦犯として処刑されたのが戦後のスタートラインでした。そのことを根拠にして現在でも、中国・韓国・北朝鮮では反日教育が行われ首相の靖国神社参拝への内政干渉が行われています。はたして、大東亜戦争が犯罪だったのか?という疑問がこの数年間の私の模索でした。当時のアジアは、それこそアメリカ・イギリスに侵略され支配されていたのではないでしょうか。また当時の日本はABCD包囲網によって開戦に踏み切りざるを得ない状況に置かれていたのではないでしょうか。パールハーバー陰謀説をご存知でしょうか。当時のアメリカ軍は日本の真珠湾攻撃を察知していながらそれを行わせることによってアメリカ世論を戦争遂行に誘導したという説です。9・11もそれと同じ陰謀だったと私は考えています。世界の本当の歴史は教科書には書かれていないことに最近私は気づきました。では、また。
本当の歴史とは
(
これお・ぷてら
)
2006-08-10 19:42:29
先にのべたとおり、私は、他者にたいする想像力を欠いた認識そのものを疑う必要があると思っています。
まさにこれまでの議論の最初に戻ります。日本から出発する、日本の視点で世界をみる、これだけでは限界があると私は思います。たとえば世界から日本をみてみるとどうなるでしょう。複眼的視点―この言葉が適切かどうか分かりませんが―などといわれるのは、認識が深まるのにはおそらく複眼でなくてはならないからでしょう。
「歴史は常にその段階において必要なプロセスであり、それがあったから次のプロセスに移行できる」といわれるflatheatさんが、あらためてのべておられる本当の歴史とは何なのか、別の機会にでもうかがってみたい気もします。
ともあれ、flatheatさんの議論に刺激を受けました。
田中県政敗北の意味
(
kitanokourito
)
2006-08-12 16:31:07
田中県政敗北の意味はまた一つ無党派市民運動の後退を意味している。残りは高知の橋本知事のみとなってしまった。無党派層の内部矛盾と県政運営の批判、田中氏自身の何重もの政治的立場をうまくついて村井氏は当選したものとおもわれます。もともと無党派層自体が元自民や社民支持者というようような色付の層なので村井氏の郵政民営化造反というポ―ズや田中県政の民主的な手続きのなさにたいする批判に田中県政が推進してきた改革のスピ-ドが進まないということもあいまって当選したと思われます。
国政上の医療、福祉切り捨ての負担、不況による市民の消費低下、大企業による低賃金政策、若者の雇用不安や社会病理減少による負担も重なり県政の財政難に次々と難題が増えていっています。
くわえてマスコミの「改革」という流れで当選した田中氏を小泉首相と同列視した劇場型政治の終焉というような報道も追い討ちをかけているのです。
田中氏はよくがんばったほうと思いますが、その秘訣はやはり大型のゼネコン向けの公共事業の削減を行政や議会と対立してまで行ったことにあると思うのですが、今後知名度もあり行政や議会と対立してまで政治的な手法を貫ける無党派首長が出現することができるのでしょうか?これは奈にも長野県だけのことではないでしょう。
田中康夫のオウン・ゴール
(
これお・ぷてら
)
2006-08-12 20:11:58
kitanokourito様、コメント有難うございました。
ご指摘の一つひとつに、なるほどとうなづきました。
田中氏の「手法」が、やはりこれまでの田中支持層の間に亀裂を生んだと私は考えています。その意味でのオウン・ゴールです。
もっとも重視したいのは、長野県民全体に依拠する姿勢を彼が貫けなかったことにあるということです。
「民主党の閣僚名簿に名を連ねたり、新党日本の党首を兼任」することは、それまでの田中の自己否定にすぎません。
いずれにせよ権力を侮ることはできません。全体をみるとうまくやられた。これが私の率直な感想でした。
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少し時間が経って、「やっぱりあかんかった」では長野県民は笑われるよ。
こちらの視点から展望を教えてください。
私は田中氏自ら掘り崩したところが大いにあると思います。ブログにものせたように、冷静に考えると、県民のための施策はかなりやられている。
今回の敗北をとおして、住民とともにというスローガンの重みをすごく感じます。
田中氏には住民自身に考えてもらうような「しかけ」が必要ではなかったかと思っています。これが住民自治の精神でもあると思うのです。そうでなかったために、だから、よけいにトップダウンという受け止めが強いように思います。
いずれにせよ村井氏当選によって歴史がまた、6年前に引き戻される可能性は高いと案じています。
また、遊びにきていただければ幸いです。
私たちは日本に住んでいるので日本という国がどのようになるのか、関心をもつのはいわば当然といえます。
けれど、日本という国がどうなるのかは、東アジアや米国、あるいは他の世界の国々との関係をおいては考えられません。
その意味で日本という「国家の復興」と第一義的に考えるだけでよいのかどうか、私には疑問が残ります。
日本の「復興」は他の世界の国々なしにはありえないと思うのです。
だからこそ中東のいま起きている紛争の平和的解決が重要だと私は考えます。
しかし、日本には安保条約というものがある。関連して日本とアメリカの地位協定というものがありますよね。そもそも、それを廃棄しないことには事ははじまりません。すぐにも廃棄できる。ここからはじまるのだと私は思います。
同時に、愛国心に関連して、「なぜ、日本だけがそれが悪いこと」とflatheatさんは疑問を呈しておられます。ある意味ではもっともなことですね。
でも、日本は戦後処理をしていない。戦前、戦後をひと続きに考える「連中」がいるということです。戦後補償も、アメリカの傘に下に入ることでうやむやですね。これでは、今の時点で愛国心うんぬんをいってもほとんど響かない、説得力はないということではないでしょうか。
私はここでも、他者にたいするまなざしを強調したいのです。それがないのに、なぜ愛国心などと世界に向かっていえるのでしょうか。他者にたいする想像力がともなってはじめて愛国心ということが理解できると考えています。
すみません、出張中でレスが遅くなりました。
日本の侵略が東アジア諸国の内部にさまざまな矛盾をもたらしたことは明らかでしょう。しかし、ご指摘のようにそれを「日本が大東亜戦争をあそこまで戦ったから戦後のアジア諸国の独立があった」と言い切ってしまうと、それは誤りだと私は考えます。なぜなら、どの国もそれを独立という以上、流血・無血のちがいはあったにせよ、内発的な自国民の運動ぬきにはありませんでした。日本ががんばったから独立がもたらされたというのは、国際的な批判にほとんど耐えられない議論だと率直に思います。
また、flatheatさんのおっしゃる「歴史は常にその段階において必要なプロセスであり、それがあったから次のプロセスに移行できる」という議論に、この意味で、ラップニッツが唱えた予定調和の匂いを感じるのは私だけでしょうか。歴史は神のみぞ知る? あるいは歴史はすべて正しいということにつながってしまいますね。
いずれにせよ、ほかのエントリーでのべていますが、私は「アイデンティティーの強調」で平和は決してもたらされないという立場をとりたいと思います。
まさにこれまでの議論の最初に戻ります。日本から出発する、日本の視点で世界をみる、これだけでは限界があると私は思います。たとえば世界から日本をみてみるとどうなるでしょう。複眼的視点―この言葉が適切かどうか分かりませんが―などといわれるのは、認識が深まるのにはおそらく複眼でなくてはならないからでしょう。
「歴史は常にその段階において必要なプロセスであり、それがあったから次のプロセスに移行できる」といわれるflatheatさんが、あらためてのべておられる本当の歴史とは何なのか、別の機会にでもうかがってみたい気もします。
ともあれ、flatheatさんの議論に刺激を受けました。
国政上の医療、福祉切り捨ての負担、不況による市民の消費低下、大企業による低賃金政策、若者の雇用不安や社会病理減少による負担も重なり県政の財政難に次々と難題が増えていっています。
くわえてマスコミの「改革」という流れで当選した田中氏を小泉首相と同列視した劇場型政治の終焉というような報道も追い討ちをかけているのです。
田中氏はよくがんばったほうと思いますが、その秘訣はやはり大型のゼネコン向けの公共事業の削減を行政や議会と対立してまで行ったことにあると思うのですが、今後知名度もあり行政や議会と対立してまで政治的な手法を貫ける無党派首長が出現することができるのでしょうか?これは奈にも長野県だけのことではないでしょう。
ご指摘の一つひとつに、なるほどとうなづきました。
田中氏の「手法」が、やはりこれまでの田中支持層の間に亀裂を生んだと私は考えています。その意味でのオウン・ゴールです。
もっとも重視したいのは、長野県民全体に依拠する姿勢を彼が貫けなかったことにあるということです。
「民主党の閣僚名簿に名を連ねたり、新党日本の党首を兼任」することは、それまでの田中の自己否定にすぎません。
いずれにせよ権力を侮ることはできません。全体をみるとうまくやられた。これが私の率直な感想でした。