宙をさまよう、枯れ枝のように痩せた腕は何を掴もうとしていたのか
白く濁った目は何を見て何を探していたのか
聞き取ることが出来なかったあの時の言葉は何を言いたかったのか
穏やかな寝顔のまま、父の時間が止まりました。
8月15日 終戦の日の朝
私が子供の頃から言われて育った言葉
「ぼやぼやしとったら鉄砲の弾に殺されるんぞ!」
戦争は父にとって忘れがたい耐え難いものだったらしい
目の前でさっきまで笑って話していた戦友が一瞬でかえらぬ人になる
自分が生き延びるために自分も鉄砲を撃った
それで誰が傷ついたか、何人が死んだか判らない
父の青春時代は戦争一色
この当時の経験はとうてい忘れることが出来なかったのだろう
酒を飲んでは愚痴り、時には暴れ、「鉄砲の弾が…」と叫んでいた
戦争を知らない世代の私には、その姿は理解できるものではなかった
若い頃から終戦記念の特集番組を、よく酒を飲みながら見ていた
父の体は80歳を超え、4年位前から思うように動かなくなった
それにともない記憶力や集中力も衰えとうとう他人に迷惑を掛けてしまった
なだらかだったが確実な下り坂は、昨年末くらいから急に険しくなった
上が100を切る血圧と1分に30しかない脈拍 - 不整脈
ペースメーカーの手術
一旦は落ち着いたが今度は脈拍が80以上の頻脈
薬でコントロール
7月- 夏が来るというのにコタツが手放せないと言う
手足が冷たい
末端まで血液が回らないのだ
心臓が弱ってきているのだろう
度々の発熱、意識の低下、酸素吸入が頻繁になる
7月31日入院
病院へと向かう車の中で久しぶりにパッチリと開いた目には
何が見えていたのだろう
入院はイヤだと言っていた
病院にいることがわかり病人になってしまった
病人にしてしまった…
前の日、スピリチュアルカウンセラーの方と話をした
ボランティアのハンドマッサージの方が父と私に施術してくれた
マッサージの後、穏やか寝顔になった父に
「明日また来るね」と声をかけると頷いたように見えた
その晩、どうして帰ってしまったのだろう…
一緒にエンゼルケアをさせてもらった
冷たくなければ今にも目を開けそうな穏やかな顔に、血色良さそうに化粧をした
真っ白だった爪にも紅をさした
葬儀不要との遺志
しかし、私の為にささやかなお別れ会だけはさせてもらった
献体へと出発
海が大好きで大海原へ散骨を望んでいた
お骨になって帰ってくるのは2~3年後
それまでにはきっと心の整理がついているだろう
望みを叶えるためにも元気でいなければ…
しかし私が元気でいる価値があるのか
あの時、あの決断は本当にあれで良かったのだろうか
もっと他に出来る事があったのではないか
決して他人には言えない心の内側の暗い部分と一生を共にする
父の介護看護を面倒に思ったことが度々あります。
解放されたい。 ずっと願っていました。
しかし今、かなり重い喪失感があります。
毎日の生活では徐々に元気になってきています。
でも
ここに戻ってくるにはもう少し時間が要りそうです。